現在では2万人を超える職員を有し、世界の良心とも謳われるBBCの初代会長ジョン・チャールズ・ウォルシャム・リースは、1889年スコットランドの東海岸に位置する田舎町ストーンヘイヴンで牧師の息子として生まれた。奇妙な偶然のなせるわざではあったのだが、リースのあとにつづくBBCの第二代会長のオウグルヴィも、またずっとのちに世界で初めてテレビジョンの実験放送に成功したベアドもやはりスコットランドの牧師の息子であった。
英国民の義務ともいうべき軍務をもはさみいろいろな仕事を遍歴したリースは、33歳になった1922年当時、ある国会議員の議員秘書を務めていた。その年の10月のこと、近々設立される予定だという「英国放送会社」の概要と同社の求人広告が各新聞紙上に掲載された。ただ、その募集人数はわずか4人だけというもので、その職務内訳は、総支配人、編成部長、主任技師、それに秘書ということであった。この求人広告を見たリースは大胆にもそのなかの総支配人に応募することを決意し、「年俸2,000ポンド希望」と書いてその書類を提出した。議員秘書を務めたとはいえ、もともとグラスゴー王立工芸専門学校出身の一介の技師にすぎなかったリースの立場からすると、それは身のほど知らずともいってよいほどに法外な年俸希望額であった。
当時英国の逓信省や産業界は植民地を含む国土の広さや経済力の大きさを考慮しながら、なんとかしてアメリカなどの放送界の実情とは違った秩序と統一のとれた放送形態の実現できないものかと画策していた。そしてその結果、イギリス独自の放送のありかたを目指す「英国放送会社(のちの英国放送協会)」、すなわちBBCを設立する運びとなったのだった。ただ、10万ポンドにものぼる投入資本の構成をめぐって政府や産業界関係者の意見が激しく対立し、会社の設立登記は予定よりも大幅に遅れてしまった。BBCの設立関係者たちは有能な経営者を求めてあれこれと奔走してはみたが、新会社の設立と運営には様々な障害などが予想されたこともあって白羽の矢を立てた人物たちからは経営者就任を体よく辞退されてしまったのだった。
そのため12月半ばになってとうとうリースにBBC設立責任者から呼び出しがかかってきた。面接は前後2回にわたっておこなわれたが、33歳のリースは「確固たる信念のない理想主義は悲惨なる結果をもたらすのみである」という持論を堂々と展開し、面接官らと激しくわたりあった。結局、その信念と積極性が高く評価されるところとなり、12月下旬、彼はBBCの初代総支配人として無事採用されることになった。年俸のほうも希望額の2,000ポンドには達しなかったが、1,750ポンドと目標額より250ポンド低いだけであったから、リースに不満のあろうはずもなかった。いくつかの偶然も重なってリースがBBCの総支配人に就任したことは、その後のBBCの発展にとってたいへん幸運なことであったといってよい。
会社が創立されたばかりのことだから当然の話ではあったが、新会社に就任したばかりのリース以下4人の職員は1日12時間以上も働かなければならず、それでもなお未処理の仕事はたまるいっぽうであった。だが、彼ら4人の職員はいまにも倒れてしまいそうな状態に幾度となく陥りながらもその苛酷な労働条件に耐えつづけた。
新放送局の準備や番組内容の改善修正に関して、リースらは毎日のように逓信省と協議を重ねなければならなかったし、各新聞社や通信社にはニュース放送の制限緩和に応じてくれるように再三再四懇願し交渉しなければならなかった。まだBBCは独自のニュース・ソースをもっておらず、放送に必要なニュースの提供をすべて新聞社や通信社に仰くのはやむをえないことだったからである。さらにまた彼らは、産業界各方面に逐次業務の進行状況を報告する責務をも負っていた。
だが、そういった各業務の全体的な調整や遂行がまだうまく軌道に乗らないうちに、翌年早々BBCは新聞経営者協会から、放送番組の掲載に対しては広告料を支払うようにとの通告を受ける羽目になった。BBCは営利会社であり財務的裏付けもあるとのことなので番組掲載料を支払えというのが新聞経営者協会の言い分であった。現実には各紙に広告料を支払うだけの財務力はなかったし、だからといって番組の予告がまったくなされないということになると聴取者を得られず放送業務そのものが成り立たなくなってしまうから、この要求に対しBBCの取締役会は動揺し、その対応策に苦慮するばかりだった。
だが、リースはそんな圧力に対し毅然として立ち向かった。彼はただちにペル・メル・ガゼットというごく限られた読者対象の日刊紙と交渉し、BBCの番組案内を広告欄に無料で掲載してもらうことに成功した。意外なことに、番組案内を掲載するようになってほどなくペル・メル・ガゼットの販売部数は爆発的に増大し、それを知った新聞経営者協会は突然態度を翻してあと半年間だけは無料で番組案内を掲載する旨を申し出た。そして、結局、その後も新聞経営者協会は番組案内の掲載を中止することなく今日にまでいたることになった。
そんな状況の背景を的確に読み取ったリースは、その年の秋にラジオ・タイムスというBBC独自の週刊誌を発行した。番組案内とその時間表、簡単な番組解説、番組にまつわるエピソードとそれらに関連する写真、BBCの放送に対する理念や指針、さらにはそれについての聴取者との間での質疑応答などを掲載した週刊誌だったが、創刊直後に60万部、3年後には100万部、そしてそれから60年後の1980年代に入ると400万部を超える発行部数を誇るようになった。計上利益のほうも年間100万ポンド以上の黒字を出すようになり、BBCの財政に多大な貢献をするようにもなった。
しかしながら、ラジオ・タイムスを発行したあともリースは新聞社に対し守勢覚悟の厳しい戦いを強いられた。新聞連盟は英国逓信省に対して、「もしもBBCが新聞と対等の活動をするようになった場合、すでに多大な資本を投下している新聞社や通信社に大きな打撃をもたらすことになる。またそのような事態になれば、新聞郵送で利益を上げている逓信省にも悪影響が及ぶことが予想される。それゆえに、BBCに新聞社と同様の活動を許可することのないようにしてもらいたい」という強硬な申し入れをしてきたのだった。
当時、新聞社と政治家との間にはもちつもたれつの関係が存在していたし、BBCが独自の取材活動をするようになるにしてもまだずっと先のことだという判断もあったので、逓信大臣は新聞連盟の要求を受け入れた。その結果、BBCはいっさいのスポ―ツ中継放送を禁じられることになっただけでなく、放送のために必要なニュースのすべてを新聞社や通信社から購入しなければならなくなってしまった。また、ニュース放送も夕刊販売の終了時刻である午後7時から午後11時の間にかぎって許可され、しかも、新聞連盟が提供する1,200から1,500語のニュース要約を「ロイター通信・新聞連盟・取引電報・中央ニュース特約」のクレジット入りで放送するという条件までつけられた。さらに、ラジオ受信機の増大を見越した新聞連盟は、一台につき4分の1ペニーの版権使用料をBBCに課すという追加条件までもちかけてくる有様だった。
当然の結果としてBBCは財政難に陥り、その打開策としてリースは音楽放送に「〇〇会社提供」という短い言葉を挿入してその会社から対価を得、放送制作費を補おうと試みた。定款によって商品の広告放送は禁止されていたが、提供団体の名称を入れるだけならかまわないはずだと定款の規制条項を解釈し、そんな打開策を講じたようなわけだった。だが、当然この緊急策は各方面からの物議や抗議を醸し出す結果となり、関係者の間に紛糾をもたらすことになってしまった。大衆紙デイリー・エクスプレスなどは、「BBCの崩壊は目前に迫った。いまこそ放送に自由競争を導入すべきである」といったような煽動的な調子でBBCに対する辛辣な批判を書き立てた。
リースはあらためてニュース放送の規制緩和をBBC問題の調査委員会に申し立てたが、委員会メンバーで新聞経営者協会長のパーナム伯爵は、放送の独占体であるBBCに対してはニュースの規制緩和を認めるべきでないと強硬に反論した。それでは既成の新聞社と通信社だけがニュースを独占することになりはしないかというリースの再反論に対し、パーナム伯爵は平然として、「君、それは新聞社と通信社の昔からの特権なんだよ。その特権を新参のBBCごときがおかすことなど許されるものではないさ」といってのけた。
逓信省は「BBC以外に放送免許を交付しないとはいっていないし、BBCの株は誰でも取得可能だから独占とは断じられない」と弁明したが、事実上独占ともいえる状況にあったわけだから、当然、BBCは各方面からの厳しい批判と追及にさらされることになった。「実質的には独占放送だ」という糾弾に対してリースは、「イギリスの将来の放送発展のために、いまは独占という蛮力が必要なのだ」と開き直った。それは、「確固たる信念のない理想主義は悲惨なる結果をもたらすのみである」という、BBCの採用面接での主張を地でいくような強い決意に基づく開き直りぶりであった。それから何年かのち、イギリスの新聞の象徴的存在であるザ・タイムズ紙はその時のBBCのとった態度を高く評価し、「独占を排除したあとにあらわれるものは単なる混乱でしかなかったであろう」とBBC擁護の論陣を張った。
BBCの放送内容に問題があるような場合、どの段階になれば政府が介入するのかという議論も起ったが、直接介入の権限があると述べればBBCがなにか問題を起こすごとに議会において釈明しなければならないため、逓信大臣は、基本的には直接の監督権はないという立場をとった。そして、免許条件として論争になるような問題を取り上げてはならないことになっているから、万一、公平を欠くような行為があったなら、1924年12月31日以降は放送免許の更新を認めないつもりだとだけ付け加えた。
BBCの広告放送は逓信大臣がとくに許可した場合をのぞき完全に禁止されていた。新聞業界が広告収入の減少を危惧しそれに反対したのと、広告放送によってスポンサーがつくと番組水準が低下してしまうという危惧があったからだった。そのため、リースは多くの有力な国会議員らに自ら掛け合って彼らの信頼と支持を獲得し、その支援によってBBC放送の受信者から確実に受信料を徴収するための法律を制定してもらうことに成功した。BBC放送を受信する者に受信契約を義務づけ、違反者には相応の処罰をおこなうというこの法律の施行により受信契約数は一挙に増大し、BBCは広告収入などにまったく依存することなく収益を得、独自の方針にそった公正かつ高水準な放送を継続することができるようになった。そしてリースはその業績により常務取締役に抜擢された。
一年ほど前までは関係者以外には知られていなかったBBCという名称は、1923年の終わりが近づく頃には国内では知らない人のほうが珍しいくらいになっていた。職員数も当初の4人から200人近くにまで膨らんでいた。そんな黎明期のBBCを指導するにあたって、リースは娯楽主義路線ではなく徹底した教養主義路線を敷くことにした。そのため彼はとくにアナウンサーの役割を重視し、「アナウンサーというものは豊かな教養と経験と知識を身につけるようにしなければならない。そして放送の準備と放送素材の研究に全力を傾けるように心がけなければならない」と訓示をし通達を発しつづけた。
国王の国会開会演説を中継したいと申し出て内大臣に断られても、リースはめげることなく何度もなんども中継放送の許可を申請した。ダービーやボートレースの中継を新聞連盟が禁止しようとすると、「蹄の音やオールが水を切る音を聴取者に聴かせるだけなら文句あるまい」と反論し、その不当な圧力に抵抗した。国家予算の解説とかヴェルサイユ講和条約の解説などをおこなおうとし、大蔵省や外務省の怒りをかうことをおそれる逓信省官僚からその放送を中止させられる一幕もあった。
政治家や省庁の役人の登場が予定されている番組は事前に必ず逓信省と協議しなければならず、そのような番組の話のほとんどは立ち消えになってしまうのが常であった。BBCの監督省庁である逓信省とすれば、物議をかもし面倒なことになる前に手をうっておいたほうが得策だと考えていたからだった。だが、リースにはそんな逓信省の態度に同調する気などさらさらなかった。論争を巻き起こさないような内容のものは報道番組として放送するに値しないというのがそもそもの彼の信条だったから、逓信省に対するBBCの戦いはなおも続くことになっていた。そして、抑圧されればされるほどに激しく反発するリースにとってその信念を貫く絶好のチャンスが到来した。