5月初めのエリザベス女王と日本の皇太子との会見が無事終わると、イギリスの報道関係者の関心は、戴冠式を前にして続々と渡英してくる各国元首の動向、かねてから英王室と親交のある他国の王族の英国滞在中の様子、さらには戴冠式の日にそなえた英国内の諸々の動きなどのほうへと移っていった。そのため日本の皇太子が報道関係者らの特別な注目を浴びることもなくなり、やがて英国民のほとんどがその存在をことさら意に介すこともなくなった。そして、そのことは思いがけなくも若い皇太子にロンドン探訪の絶好の機会をもたらしてくれることになった。たとえ市内を自由に歩き回ったとしても、それが日本の皇太子だと気づかれたり騒がれたりする心配がほとんどなくなったからだった。
そんなわけで日本大使館に滞在中の皇太子は折々ロンドン周辺の各所をふらりと訪問されるようになった。もちろん、そうはいってもさすがにお1人でというわけにはいかないので、当然、お供の者が付き添いはした。それでも、たいていは宮内庁直属の随行員が1人か2人と、ガイドと通訳を兼ねたロンドンの事情通の者が1人か2人付くくらいのものだったから、少ない時には皇太子を含めて3人、多い時でも総勢5人程度のものであった。
その時宮内庁から派遣されていた随行員は英語がほとんどしゃべれなかった。松本駐英大使夫妻をのぞくと、日本大使館員のなかにさえも英語をまともに話せる者が見当らなかった時代のことだから、べつだんそれは不思議なことではなかった。ましてや、英語がうまく、ロンドンをはじめとする英国内の事情に通じ、しかも随時そなりに時間のとれる在英日本人ということになると、そうそう容易には見つかるはずもなかった。その意味では石田達夫は皇太子の案内役としては願ってもない存在だった。それにくわえて、石田が英国民が誇りとするBBCのアナウンサー兼放送記者であり、松本俊一駐英大使夫妻の信頼がこのうえなく厚かったことも、結果的にその大役を任じられる要因となった。もちろん、石田にしてみても、BBC日本語放送の担当番組で訪英中の皇太子の様子を伝えるうえで、それはありがたい話でもあった。もちろん、BBC側も石田の仕事上のスケジュールを調整し、そのための便宜をはかってくれた。
だが、いかに彼の能力が高かったとしても、格別家柄がよいわけでもなく、高学歴があって高位の地位についているわけでもなく、さらには貴賎を問わず様々な職業遍歴を辿りもしてきた石田のような人物が、皇太子のような人物のそばに近づくことなどイギリス以外の国ではまずもって許されたりはしなかったであろう。ましてやそれが日本国内のことであったとすれば、関係筋から真っ先に身元の調査をされ、その調査結果がわかった段階で即刻不適格者の烙印を押されていたに違いなかった。
予想だにしていなかった不可思議な廻り合わせによって、皇太子の案内役の一人となることになった石田ではあったが、そんなおのれの出自を顧みるとその胸中はすくなからず複雑になるばかりであった。渡英して以来、英王室の取材に奔走し、特別な緊張感も距離感もなくエリザベス皇太后、エリザベス女王夫妻、マーガレット王女、チャールズ王子、アン王女などの姿を身近なことろで目にもし接しもしてきた石田ではあったが、それが母国の皇太子ということになると、どうしても身体中が強張る思いがしてくるのだった。
サウサンプトンまでお迎えに出向いた際と、日本大使館主催の皇太子歓迎会の席での2度にわたって皇太子姿をごく身近なところで目にもし、短いながらも言葉も交わしていたにもかかわらず、そんな緊張を覚えるのは、それなりの背景があってのことだろうと感じざるをえなかった。どうやらそれは無意識のうちに幼い頃から受けてきた教育のせいなのだろうという気はしたが、それだけにまた、ついつい身構えてしまう自分を、すぐにはどうすることもできなかった。それでも石田は、自分なりには極力自然体で振舞うことができるように努めようと決心した。
ただ幸いなことに、まだ20歳前の若く溌剌とした皇太子は想像していた以上に柔和で温かいお人柄で、好奇心もたいへん旺盛であられるようだった。だから、皇太子を案内しはじめてそう時間が経たないうちに、石田の気持ちはずいぶんと楽になった。いっぽうの皇太子のほうも、ロンドン周辺のいろいろな名所や旧跡を訪ねてそこの風物を楽しむことよりも、ごく少数の供の者だけを従え、一般市民や一般観光客らと同様に自由かつ気ままに街中を歩き回れることのほうにこの上ない喜びを感じておられる様子だった。そして、石田はそんな意外なご様子の奥に人間皇太子の姿を見る思いがした。
ロンドン一番の繁華街ピカデリーサーカスを案内した時は、往来する人々で一帯はずいぶんと混雑していた。そのため、人混みの中を歩いた経験など皆無に等しい皇太子の肩は、歩くごとに他の通行人の肩と触れ合ったりぶつかったりもした。まるでその様子には盤面上を跳ね飛ぶパチンコ玉の感があった。一般の人々は子供の頃からひどい人混みの中を歩き馴れているから、混雑時には身をかわすようにして人波を掻き分け縫い進むことができるが、そんな体験が皆無の皇太子にいきなりそれを求めるのはむろん無理な話であった。
そこで石田は、「こういう風に身体をはすに構え、片方の肩を斜め前に突き出すようにして人混みをすり抜けてください。もしも他の通行者と肩がぶつかったりしたような時には、アイム・ソーリーとおっしゃってください」と、自ら手本を示しながらそうお伝えした。すると、皇太子はその言葉にこやかに頷き、教わったままの仕草をなさりながら、見るからに嬉しそうな様子でピカデリーサーカスの雑踏の中を進んでいかれるのだった。普通のことを普通の人とおなじようにできることが、心底楽しくて仕方がないというご様子だった。
動物園に案内したときも皇太子は一般の人々が考えもしないようなところに大きな喜びを見出されたようだった。たまたま動物園の切符売場は混雑していて、人の行列ができていた。すると、皇太子は自ら進んでその行列のあとに並び、にこにこしながら自分の順番がまわってくるのを楽しまれたのだった。園内においても、人気のある動物の檻の前には行列ができていたが、やはりそこでも皇太子は嬉しそうな様子で最後尾に並び、順番の到来をお待ちになったのだった。その姿はなんとも微笑ましいばかりで、石田も、そして他のお付きの者たちもすっかり心が和む思いであった。
当時からロンドンの地下鉄駅には切符の自動販売機が設置されていた。その切符販売機にもすくなからぬ興味を示された皇太子は、お供の者からコインを何枚ももらうと、一行の人数分の2、3倍にもあたる枚数の切符を楽しそうに買い求め、余った分の切符を通りがかりの人々にお配りになったりもした。切符を配られた人々のほうは一瞬戸惑いをみせたりもしたが、すぐにそれとなく状況を察すると、サンキューといいながら皇太子の好意に応えてくれたものだった。
大英博物館でもナショナル・ギャラリーでも皇太子の好奇心は旺盛で、一般入場者に混じってごく普通に陳列物や展示物を観覧された。周囲からいっさい特別扱いをうけない状況下でのことだったので、ご自分の意志で好きなところを自由に観て回られることが可能でもあったのだが、若さのゆえもあってかその関心の趣くところはとても人間的なもので、石田は心の底からその姿に好感を抱くことができた。穂高町で晩年を迎えた石田が、あるとき当時のことを回想しながら、「当時の皇太子殿下、すなわち、現在の天皇陛下がこれまでの人生の中でもっとも自由であられたのは、もしかしたらあのロンドンでの5週間だったのではなかったかろうか」としみじみ語ってくれたことがあったが、実際その言葉に近いものがあったのかもしれない。
5月のある日、皇太子はスコットランドの名門貴族の邸宅に招待されたのだが、その時のこと、ちょっとした椿事が起こった。カラフルな民俗衣裳で知られるスコットランド地方の貴族の場合、キルトスカートを着用するのが正装とされている。当然のことだが、その貴族は日本の皇太子を迎えるにあたってキルトスカートを身に纏っていた。スコットランド地方の伝統的に従えば、キルトスカートというものは、下にパンツをはかず、自然のままの状態の身体のうえにぐるぐると巻きつけるのが正当な着用の仕方だとされている。もちろん、この日もその貴族はスコットランドのそんな伝統的方式にのっとってキルトスカートをはいていた。
応接室で皇太子を迎えた当の貴族は、固い握手を交わしたあとにこやかな笑みを浮かべながら自分の椅子に腰をおろそうとした。皇太子と貴族が握手を交わしている脇ではカメラマンが2人の対面の様子を写そうとカメラを構え、何回も断続的にシャッターを切っていた。、想わぬ事態が発生したのはその直後だった。腰をおろしかけた貴族のキルトスカートの裾が運悪く肘掛椅子の突起かなにかにひっかかり、スカートがすっかり捲れあがってしまったのだった。皇太子の面前にその貴族の生まれたときのままの姿がさらされてしまったことはいうまでもない。しかも、たまたまではあったのだが、その瞬間にカメラのシャッターが切られるという最悪の事態になったのだった。
しかしながら、そこは帝王学を修めてこられた皇太子、視線をはずすこともなく、また顔色ひとつ変えることもなく、泰然としてその場に対応されたのだった。いっぽうの貴族のほうもまた、すこしも取り乱したところなどみせず、平然としてキルトスカートの裾をもとに戻すと、何事もなかったかのように皇太子のほうに顔をむけた。そして二人は再び穏やかな笑みを湛えながらこころゆくまで歓談を続けたのだった。
そんな様子を脇で見ながら、石田は、真の意味での育ちのよさとはこういうものかと妙に感銘を覚えるのだった。自然体で相手に接し、万一相手に儀礼上の重大な過失が生じても、それが悪意に基づくものでないかぎり、動揺した表情ひとつ浮かべずにそれを温かく見過ごす。過失をおかした当事者のほうも、必要以上の弁明をしたり、へんにお詫びをしたり取り繕ったりなどはぜずに、悠然と振舞う。よくよく考えてみると、このような場合にはそれが最上の対応策なのであったが、現実には、そんなことはなかなか一般庶民にはできることではないのだった。
その時、石田は、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の徴兵検査の様子についてかねて耳にしていた話を想い出しもした。貴族階級のような上流層の出身者は、徴兵検査の時でも素っ裸になることをすこしも恥ずかしがらないという。上流階級出身者は幼い頃から衣服の着替えや身体の清浄を使用人などにやってもらっているので、すこしも人前で裸になることを厭わない。それに対して、下層階級の出身者は徴兵検査で裸になったとき、かならず前部を手で覆い隠す。もちろん、それは、他人の前で裸になった経験がほとんどないからだというのであった。そして、皇太子とスコットランド貴族のすこしも慌てぬ対応振りも、ひとつにはそのような背景もあってのことかもしれないと考えるのであった。
彼には、さらにまた、ヨーロッパの上流階級の女性たちが裸体をさらすことに割合平気なのも、案外そんな理由があってのことなのではないかとも思われてくるのだった。そして、そのため芸術表現などにも自然にその影響が及び、男女の裸体像や裸体画が頻繁に制作されるようになったのではないか、とくにギリシャ時代の彫刻に裸体像が多いのは、その頃の貴族らが裸になるのをすこしも厭わなかったからではないかなどと、どんどん彼の想像は膨らんでいくのだった。皇太子を案内した大英博物館やナショナル・ギャラリーには、そんな裸体作品の数々が展示もされていたし、若い皇太子が人間味溢れる表情でそれらの作品を眺めておられたのも、ある意味自然なことのように感じらてならなかった。