ある奇人の生涯

18. 大連での初仕事は?

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

天津や塘沽の東側に位置する広大な渤海湾は、黄河の河口のすこし南側付近から北東に伸び出る山東半島と、朝鮮半島の付根あたりから西南方向に突き出る遼東半島とによって深々と抱かれるかたちになっている。石田がそれまで滞在していた青島が黄海に面する山東半島中部の港湾都市だったのに対し、彼が新たな生活を送ることになった大連は遼東半島のほぼ南端に位置する港湾都市であった。昭和十三年(一九三八年)の初秋のこと、石田は青島で共に仕事をしていた香具師の男に同行し、当時北方の真珠とも謳われていたこの美しい港町大連へと渡ったのだった。

「アカシアの大連」と称されていたことからもわかるように、市街のいたるところに見事なアカシアの並木道の見られるこの都市は、いまでこそ中国屈指の交易の中心地になっているが、一九世紀末頃までは青泥窪(チンニーワー)と呼ばれるごく小さな漁村であったらしい。日清戦争終結直後の明治二八年(一八九五年)四月に締結された下関条約によって、遼東半島一帯はいったん日本に割譲されることが決定した。ところが、この下関での講和条約に対してロシア、ドイツ、フランス三国による激しい干渉がおこなわれた結果、翌月の五月になって日本は遼東半島を清に返還するのやむなきに至った。

日本による遼東半島の植民地化をまんまと阻止することに成功したロシアは、それから三年後の明治三一年(一八九八年)には清から同半島の租借権を獲得、青泥窪一帯を商港として、また半島最先端に位置する旅順を軍港として大々的に開発整備することを計画した。ロシアが長年の悲願としていた南下政策を遂行するにあたって、遼東半島はそのための基地建設にとって格好の地点でもあったのだ。

初代市長に就任したサハロフは青泥窪に建設中の新都市を「ダルニー」と命名した。「ダルニー」というロシア語は日本語になおすと「遠大」を意味する言葉なのだそうだが、そのような背景からしても当時のロシア政府が遼東半島に託した「遠大な夢」への期待のほどが偲ばれるというものだろう。

ダルニー市の建設に際してはパリの都市構造を模した街造りが行なわれた。現在もその姿を留める円形の中央大広場から放射状にのびる十条ほどの街路には、複数の円形街路が何重にも同心円状にクロスしている。この独特の都市の骨格構造は、実際、市街建設の当初から美しいパリの街並みを彷彿とさせるようなものであったらしい。ただ皮肉なことに、ロシアによる港湾都市ダルニーの建設着工の二年後に勃発した日露戦争は、おおかたの予想に反して日本軍の勝利に終わった。その想わぬ敗戦の結果、ロシア軍をはじめとするロシアの主勢力は遼東半島から撤退せざるを得なくなったのだった。

そして、ロシア撤退後の明治三八年(一九〇五年)九月に日露間で締結されたポーツマス条約により、日本は遼東半島の租借権をロシアから承け継ぐことになったのだった。以降、ダルニー市は日本によって管轄統治されるようになり、市街の最終的な整備建設などもロシア人らの建設作業を承け継ぐかたちで日本人技師らが担当することになった。中国語で発音するとダルニーというロシア語の音声の響きに似ているかという「大連」という地名が新たな都市名に指定されたのは、この年のことであったという。もちろん、サハロフが命名したダルニーという都市名はその時点で世界地図上から消滅した。

すでに日中戦争が激化していたとはいっても、石田が大連に移ったのは満州に日本の傀儡政権が樹立されたのちのことで、しかも大連は日本政府による実質的な満州支配の中枢に当たる都市だったから、その安定した繁栄ぶりは大変なものであり、また中国在住の日本人にとってはこのうえなく安全なところでもあった。遼東半島の最端部には日清日露両戦争史にその名を残す一大軍港の旅順などもあり、大連は当時日本軍の支配化にあった同軍港の東隣に位置していたから、二重の意味でその安全は保証されていた。

満鉄という略称で知られるこの時代の満州鉄道は一応鉄道会社の形態を装いはしていたものの、事実上は日本政府の隠れ蓑ともいうべき巨大かつ強力な特殊組織体で、満州全土の裏の支配機構として隠然たる力を揮っていた。そしてその特別な組織体である満鉄の本社が置かれていたのもほかならぬこの大連の地であった。

初めて踏む大連の地ということもあったのだろうが、自然の風物と人工の造形物とが見事に調和したその街々の美しさに石田はすくなからず感動した。モンスーン型気候の大連は日本と同様に彩り豊かな四季にも恵まれていたから、その点からしてもなにかと心を癒される思いであった。主だった通りや橋、市内中心部の町々、各種重要施設などにはすべて日本名がつけられており、地名だけからするとまるで日本本土のどこかの都市にいるかのような錯覚を起こすほどであった。パリをモデルにした都市構造をもつうえに当局による管理統制が十分に行き届いてもいたため、街並み全体がいささか整然としすぎているきらいはあったけれども、どこか温かみに欠けていて違和感を覚えて仕方がないというほどのことでもなかった。

石田がいまひとつ心を奪われたのは大連の星空の美しさだった。澄みきった秋の夜の大気越しに眺める無数の星々の輝きは不思議なほどに彼の心に迫ってきた。氷川丸の船上よりかつて仰ぎ見た満天の星空も素晴らしかったが、この大連の夜空を刻々とめぐる群星の煌きにはそれとはまた一味違う趣があるように感じられてならなかった。なぜかそのときの彼には、頭上に明滅する星明りのひとつひとつが遥かな天上界に位置する未知の集落の家々にともる無数の灯火であるようにさえ思われた。そして、それらの灯火のかたちづくる悠久の集落こそは、やがて何時の日かおのれの魂の行き着くことになるであろう窮極の地であるに違いないという気さえしてくるのだった。

石田にすれば、そもそもこうして大連の街並みの一角から静かに夜空を仰ぎ見ているおのれの姿そのものが信じられない有様だった。運命の悪戯であったとはいえ、独り博多から上京し、様々な紆余曲折を経たあと横浜の山下公園で行き倒れになり、それがきっかけとなって遥々この大連の地までやってくることになろうとは、想像してみようにも到底想像できるような話ではなかった。

実際、ちょっと自分の生き方に自信をもちかけるようなことがあると、次の瞬間には必ずと言っていいほどに、その自信のほどを根底から打ち砕かれてしまうような予想外の事態が発生した。そして。これまで何度となく繰り返されてきたそんな一連の状況が今後の自分の人生においてもなお重ねがさね起こり続けるのであろうという気がしてならなかった。裏を返せば、そんな思いを抱くようになったことそのものが、内面における青年石田の大きな成長を物語っているのかもしれなかった。

貨物船の船員として働いているときはささやかながらも折々仕送りを続けていた博多の母親や妹たちとも、脱船者となって大陸に足を踏み入れて以降、まったく連絡が取れなくなっていた。これから先どのような運命の変遷が待ちうけているのかなど見当のつこうはずもなかったが、ともかくもこの大連の地でなんとか生き抜いていくための方策だけは講じなければならなかった。おのれの消息とここにいたるまでの経緯を伝え、とりあえず博多の家族の者たちを安堵させるためにも、安定した生活のすべを確立することは当面のなによりの急務ではあった。しかしながら、状況的にみてそれを実現するのがそう容易なことではないのも明らかであった。

青島で知り合った香具師の男の仕事を手伝うという条件で大連に同行してきた手前もあったので、石田はその男とともに大福餅と中華饅頭の製造販売の仕事にとりかかった。元手となる資金は二人合わせていくらかの手持ちがあったから、大福や饅頭を製造するのに必要な道具や類や仕事場、当面の住まいなどを男のツテ先の者に提供してもらい、少々お門違いとしか言いようのない彼ら二人の大連での初仕事が始まったのだった。

相棒の香具師の男は大福餅や中華饅頭つくりの経験が多少ともあったようなのでまだしもましだったのだが、その道にはまったくの素人だった石田のほうは失敗に次ぐ失敗の連続で目も当てられない有様だった。皮肉な話ではあったが、青島で香具師の親分の右腕を務めさえしたという彼も、こんどの仕事に関しては、相棒の男の右腕はおろか、左腕にさえもなれそうにない状況であった。いくらかは仕事に慣れたあとでさえも彼の手になる大福餅や中華饅頭などは本来ならとても商品になるようなしろものではなかったのだが、それでも二人は出来上がった品物をすべて自転車に積み込み、大連の中心街や満鉄関係者の住む街へと出向いては不出来を承知で売り歩いた。商品の品質改善はある程度稼ぎがあってからでも遅くないという開き直った思いもあってのことだった。

上野駅をモデルにしたという当時の大連駅の周辺では、列車の昇降客相手に大声を張り上げてくだんの品物を売り捌いた。青島での香具師の興行における言葉巧みな客寄せの技術がここではそれなりに役に立った。列車の昇降客の場合には一度きりのお客がほとんで、たとえ大福餅や中華饅頭の出来が悪くてもあとで文句を言われることなどはまずなかったから、まあまあの売上にはなった。だが、一日中昇降客のある現在の大都市の駅などとは違い運行列車の本数にも鉄道利用のお客の数にもおのずから限度があったから、一定以上の売上を期待するのは無理であった。

大連駅の西南方向すぐのところには連鎖商店街という、多数の大商店が軒を連ねる商業地域が広がっていたが、本物の大福餅や中華饅頭の売られているそんなところではとても勝負になりそうになかったので、はじめからそこでの商売は避けるようにした。そして、そのかわりに大連駅前から南にのびる路面電車の通り伝いに常盤橋まで下り、そこから東西方向にのびる別の路面電車の線路沿いに東の方向に進んだところにある大連中央広場付近へと出向いたりした。

この円形大広場の周辺には各種の官庁や銀行などが建ち並んでいたが、それらのなかにあってひときわ目立つのが、広場の南側中央に位置する満鉄経営の大連「大和ホテル」であった。ルネッサンス様式の建築で知られるこの大ホテルは、当時から全設備が完全な西洋式で、百余の客室のほか、三百人収容の大食堂などを有していた。そこからさらにしばらく東にいったところに建つ堂々たる石造りの満鉄本社と並んで、それらの建物は日本による実質的な満州支配の象徴的な存在でもあった。また、大和ホテルや満鉄本社の南側に位置する地域には、現在も同地に残る大連病院や終戦後撤去された大連神社などが、やはり日本当局の関係者の手によって建設運営されていた。

どう考えてみても大福餅や中華饅頭がマッチするような雰囲気の場所ではなかったのだが、いつの時代も酔狂な人はいるもので、そんな大連の中心街においてさえも時々商い中の彼らを呼びとめる声がかかったりすることはあった。もともと馬鹿売れするなど望むべくもない状況だったから、とりあえずは赤字にならなければ上々だと考えるべきではあった。

大連の中心地や繁華街からすこし離れたところには満鉄関係者らが多数住む閑静な住宅街があった。彼らはそんな住宅街などにも赴き、大声で「ダイフクモチーッ、チューカマンジュー、安くてうまいダイフクとチューカマンジューだよーっ!」と連呼しながら、懸命に稼ぎを増やそうと努めてみた。しかしながら、どう足掻きまわってみたところで素人商売は所詮素人の商売にすぎなかったから、思い描いていたほどの大儲けなどできるはずもなかった。それどころか、しばらくすると売上も落ち込み、朝早くから夜遅くまでずいぶんと苦労の多い仕事の続くにもかかわらず、その日をぎりぎり食いつなぐのが精一杯の有様となってきた。そのさき季節のほうも厳しい冬場に向かうとあっては、とてもそのままでは身がもちそうになく、なんとかして打開策を考え出さねばならないと焦り始めはしたものの、これという決定的な方策も見つからぬままいたずらに時間だけが流れていった。

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