ある奇人の生涯

121. 写真集「エゴ・ノ・キ」のモデルに!

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

旅先でたまたま石田と出遇ったことが契機となって親交を結ぶようになり、のちのちまで公私にわたり大きな影響を受けるにいたったいまひとりの人物は市川勝弘であった。浜松生まれの市川は専修大学法学部卒業後六本木スタジオに二年間在籍、続いて高名な写真家の坂田栄一郎に六年間師事し、その後独立、現在では彼自身も著名な写真家として活動をするようになった。そんな市川が石田と初めて出遭ったのは、石田が穂高町の新居に移った翌年の一九八〇年のことであった。

当時、市川はまだ二十五歳の若者で、坂田栄一郎に師事し始めたばかりだった。夜行列車で穂高駅に着き、早朝の安曇野一帯の風景を気の向くままに撮影してまわっていた市川は、たまたま散歩にやって来ていた石田に突然声をかけられた。市川にすればそれはなんとも衝撃的な出遭いであったが、もちろん石田にとっては始めから計算済みのことだった。ほどなく市川は有明にある石田の新居に案内され、安曇野を見下ろすそこのテラスで、トーストにサラダ、ミルクティーなどからなる朝食をご馳走になった。そして朝食後にはシャワーを使わせてもらい、市川はさっぱりした気分になった。そんな彼を石田は自分の車で青木湖周辺まで案内もしてくれた。その日以降、市川もまた足繁く石田のもとを訪ねるようになったのだった。

養子の俊紀は二年ほど石田と一緒に暮していたが、松本方面に自分で仕事先を探し出してそこで働くようになり、ほどなく穂高の家を出て一人で自活するようになった。俊紀が一人暮しをするようになったのは、ひとつには彼に好きな女性ができ、彼女と交際するようになったからであった。そして、それからまもなく俊紀はその女性と結婚し、松本市内に別所帯を構え、そこで生活するようになった。その際に石田と養子の俊紀とはのちのちに備えて一定の生活ルールを取り決めた。

半ば暗黙のうちに定められたそのルールは、「石田は俊紀の日常的な生活にはまったく口を差しはさまないし、また、俊紀のほうも石田の日常生活にはいっさい干渉しない。基本的にはそれぞれの生活も互いに依存することなく別々におこなう。ただし、ほんとうに困ったり、特別な必要が生じたときだけは、連絡があり次第お互いすぐに駆けつけ助け合うようにする。互いの交友関係にはよほどのことがないかぎりいっさい立ち入らない」といったようなものであった。

石田とその養子俊紀とのそんな関係は、石田に関心を抱く他の者たちが穂高町有明の彼の家に自由に出入りすることを可能にした。市川が気ままに石田宅を訪ねるようになったのも、ひとつにはそのような背景があったからであった。穂高周辺の多くの人々から「先生」と呼ばれる石田との交流を深めていくうちに、市川は単なる英会話塾の先生という意味以上のものがその敬称の奥に秘められているのだと感じるようになった。波瀾万丈の人生経験を通して蓄積された英知とでもいうべきものが石田にはあって、それが彼を取り巻く人々に少なからぬ感銘を与えていることは明らかだったし、市川自身が度々穂高を訪れるようになったのも、石田のそのようなところに心惹かれたからであった。やがて市川は日本人離れしたところも多々あるそんな石田の姿を折にふれてはカメラに収めるようになっていった。

初め市川は単なるドキュメンタリーとして石田の生活ぶりをレンズを通して追いかけていたが、次第に彼の自由な生活ぶりや型にはまらない思考法、特異な風趣などに大きな興味を抱くようになった。そして、市川が独自の視座から石田を撮り、市川のそんな視座に呼応したりその意表を突いたりしながら石田が撮られるということを、いつしか二人は遊びとも楽しみともするようになっていった。やがて、市川は、石田のもつ不可思議なまでの生のエネルギー、創造的な精神力、自由闊達な思考や行動、彼の身体から発せられるオーラといったようなものを、日常的な生活とは離れた観点と状況のもとで撮影するようになっていった。

そんな中で、たとえば、市川が、「今日は雨でなんとも気分が晴れないですね」などとごくありふれた思いを述べたりすると、「そうかい、でも、雨もなかなかいいものじゃない?」といったように相手の思惑を逆手に取って楽しむのが石田の常のことであった。市川の言葉に素直に同意することなどほとんどなかったが、それがまた市川にとってはなんとも面白く感じられてならなかった。

石田はまた、古い風呂桶を用いて裏庭に露天風呂を造り、月星を眺めながらそれに入ったり、庭の木立に大きなハンモックを吊るしてそこで昼寝をしたり、庭先を流れる小川のせせらぎを聞きながら英国仕込みの手際のよさでミルクティーを入れて飲んだり、木漏れ日を浴びながら安楽椅子に身を横たえてくつろいだりするのが大好きだった。そして、若い市川には、そんな石田の姿などもまたとても新鮮なものに思われた。

石田邸の裏庭には「エゴの木」という風変わりな樹木が生えていた。この木の呼称の「エゴ」という言葉はラテン語のEGO(自我)やエゴイズムのエゴとは無関係なもともとの日本語だったのだが、ずいぶんと自己中心的なところのある石田にはうってつけの名のでもあったし、また、彼はそのエゴの木の花がとても気に入っていた。エゴの木は初夏の頃に白い可憐な花をつけるのだが、それらの花はみな花弁を下向きにして咲き開く。その木の下にハンモックを吊るしたり長椅子を置いたりして横になると、咲いた花がみんな自分のほうを向いて咲いてくれているようでいい気分になれるというのがその理由だった。彼の生きた時代がそれを可能にしたという背景はあったにしろ、それはまた、自分の人生を思うがままに生きてきた石田ならではの好みだとも言えた。市川には石田が見せるエゴの木への愛着が、いくらかナルシシズムの傾向のある石田達夫という人物をなによりもよく象徴しているようにも感じられた。

石田と市川の間にはいまひとつ因縁めいた偶然があった。石田がイギリスでの仕事を終え日本に帰国した年に市川は浜松で生まれた。石田が日本での生活を再スタートした年と自分がこの世に生を得た年とが同じだったということひとつをとっても、市川には彼との出遭いが運命的なものであるように思われてならなかった。そのため、市川は石田という人物とその生活空間を被写体とした「エゴ・ノ・キ」という写真集を刊行することを思い立った。そして、石田がそれまでの人生を通して育て上げた「エゴの木」の一枝をもらいうけ、その後の自分の人生においてその枝を原木に負けないほどに大きく育てていきたいとも考えるようになった。

特異な視点と特殊な技法で撮影かつ構成されたB4版の写真作品集「エゴ・ノ・キ」は、市川が石田と出遭ってから十四年後の一九九四年に六曜社から刊行されたが、その写真集の秘めもつ芸術性や寓意性はなかなかのものであった。石田の顔や姿を正面からしっかり撮った写真は一枚も収録されておらず、うしろ姿だけの全身写真や後頭部だけの写真、足の裏や手の指だけの写真、全体をぼかした全裸の写真、黒のサングラスをかけた老人が多重写しの映像となって実体のない影のごとくに疾走する写真、石田の愛用品の写真など、意表を突いた作品だけが掲載さてれているのもその大きな特徴だった。顔写真を一枚も掲載しなかったのは、そのほうが写真集を目にする人々の想像力掻き立てるのに役立つだろうという配慮からだった。

また、その写真集の巻末には被写体となった石田のおおよその経歴や、彼がイギリスへと渡った時の想い出やイギリスからの帰国の途上の想い出などを回想した文章が収録されていたが、いずれにしろ、その写真集が市川と石田の合作ともいうべきものであることは確かだった。なお、この写真集の刊行を記念し、東京の青山スパイラルにおいて関係する一連の写真作品展が開催された。市川のたっての要請に応じて、石田が穂高から青山の展示会場まで急遽駆けつけたのはもちろんだった。

話は前後するが、石田の内心の思いが現実のものとなり、石田との合作ともいうべき谷内庸夫の作品写真集「かみ彫刻」第二集が一九八八年に玄光社から刊行された。この作品写真集に収録された各作品の日本語タイトルの英訳や、日本語解説文と併記された英語の解説文の執筆は石田がおこなった。また、この作品写真集の巻頭にはちょっとした詩的な一文が掲載されていた。

はじめに

紙と話ができない時、
私は良く散歩に出かけます。
夜空は私の想像力をかきたててくれます。
夜空を切り裂く流れ星。
時が流れ、一つ一つの星に名前ができ、
 物語が始まる。
道化師はいそいそと町に出、
酒をつがれ、踊りが始まる。
暗い茶室に月がともり、
老人が現れる。
宇宙の会話がかわされ、
道化師たちが耳をかたむける。
老人は言う。
宇宙はあなたの中にあるよと。
こんないかにも個人的な空間を、
紙に表現してみたかったのです。
今回掲載した作品は前回の「かみ彫刻」の星を発展させ、
宇宙をテーマに表現したものです。紙を切り、折り曲げながら、
あなた自身の宇宙を楽しんでください。

そして、この文章の英語訳文がこのあとに続いていた。一見したところ谷内庸夫自身が書いたようにも見えるこの文章、実のところは石田が谷内の想いを代弁するかたちで書いたものだった。その証拠に、奥付けにも「詩+訳文―石田達夫」という表記がなされていた。文中の「老人」が石田自身のことを指していたのは言うまでもない。

あとで知ったことなのだが、一九八八年に私が石田と初めて出遭った日、石田宅のトイレの中で目にしたさまざまな装飾展示品中の紙彫刻展の洒落たポスターと紙オブジェ写真は谷内庸夫の仕事を紹介したものだったのだ。また、同じくその折トイレの中で目にした、黒のサングラスをかけた老人が、不思議なまでの存在感と不気味なほどに変幻自在な多様性とを見せながら風のように疾走している写真は、市川勝弘の撮影した作品の一枚だったのだ。石田にしてみれば、谷内庸夫と市川勝弘とはすくなくともその大成に自分が一役買ったと自負できる芸術家であったのだ。

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