ある奇人の生涯

113. 激しく動く時代の中で

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

戦後の混乱期を急速に抜け出そうとするかのごとく、時代は激しく動いていた。鳩山一郎首相の訪ソを契機に北方領土問題を棚上げしたかたちで日ソの国交回復が実現するいっぽう、神武景気と呼ばれる一大好況期が訪れ、国民所得は大幅に上昇する勢いをみせるようになった。一部評論家らの口からは「もはや戦後ではない」といった言葉が漏れはじめるようになった。石田が帰国する一年前に始まったテレビ放送は、想像を超える勢いで受像機が各家庭へと普及しだしたこともあって、広く国民に親しまれるようになっていった。ただ、その番組内容が低俗に過ぎるという、メディアの革新期にはつきものの批判なども巻き起こり、高名な評論家で造語の名人でもあった大宅壮一は、そんな社会状況を「一億総白痴化」と風刺したりした。それは、終戦直後の「一億総懺悔」という言葉をもじったものであった。

石原慎太郎の芥川賞受賞作「太陽の季節」がもととなった「太陽族」という言葉が一世を風靡し、「太陽族」を自称する若者らの間では、スポーツ刈りの前髪を短く刈り揃えないままで額に垂らしておく「慎太郎刈り」が大流行していた。それ以前に無軌道、不道徳などを意味していた「アプレ」という言葉がすでに使い古されてきていた時期だったこともあって、同様の若者の生態を表す代替語としてジャーナリズムが一斉にその言葉に飛びついたのも太陽族が隆盛をきわめるようになった一因であった。

もともと若者のそんな時代破りの行動に理解もあり、それなりの好感も抱いていた石田は、自らの青春期の想い出を重ねながら、そんな社会の風潮を大いに楽しむことにした。深夜喫茶が爆発的に流行し、「布団のない旅館」として若者らの溜まり場になったのもこの時代だった。ロンドンで深夜喫茶に入り浸っていた石田にすれば、そんなお店に足を運んで若者らの中に入り、彼らと共に時を過ごすのはなんでもないことであったが、石田のそんな生態を異様視する者はもちろん少なくなかった。ただ、年齢を超えて若者らの心を魅了する独特の存在感と柔軟さをそなえ、しかも切れのよいジョークを機関銃のように連発する石田は、六本木界隈の深夜喫茶にたむろする深夜族の間では一時期ちょっとした「顔」としても知られていた。

明治末期に夭逝した荻原碌山とともに日本近代彫刻の祖と仰がれた詩人で彫刻家の高村光太郎や、「雨月物語」によってベニス国際映画祭で銀獅子賞を受賞した映画監督溝口健二他界のニュースなどにも時代の移りを感じた石田だったが、その翌年の一九五七年は科学や文芸、音楽などの世界ではさらに世の中を賑わすような話題が飛び交い、たいへん想い出深い一年となった。

この年の一月、日本の第一次南極予備観測隊は、南極大陸リュッツホルム湾のオングル島に上陸して観測基地を建設に着手、二月に完成したその基地を「昭和基地」と命名した。そして、西堀栄三郎越冬隊長以下の十一名が日本人としては初めての南極越冬をするにいたった。この南極観測隊の動向に関する一連の報道は、国際的な場における日本の科学的貢献を強く国民に印象づけ、国力の回復をすくなからずアピールするうえで重要な役割を果したのだった。また、その年の秋にはソ連は史上初の人工衛星「スプートニク一号」の打ち上げに成功、つづいてライカ犬を乗せた「スプートニク二号」の打ち上げにも成功し、米ソによる宇宙開発競争時代の幕が切って落とされた。新聞やテレビ・ラジオで報道されるそれらのニュースを見聞きしながら、時代が確実に転換期に差しかかっていることを石田は痛感するのだった。

文芸界においては、曽野綾子、有吉佐和子、山崎豊子、原田康子ら若い女流作家が次々に登場し、文芸評論家臼井吉見が「才女時代」と名づけた新たな時代が到来しようとしているところだった。この頃にひとり気を吐いていた男性作家は三島由紀夫であった。三島の大ベストセラー小説、「美徳のよろめき」は、「よろめき夫人」、「よろめきマダム」、「よろめきドラマ」などといったような流行語誕生を促し、「よろめく」という表現は不貞不倫を表す言葉としてその後の日本社会にしっかりと定着するようになっていった。男女間の気持ちの行き違いを描いたおなじく三島由紀夫の小説のタイトル「長すぎた春」もまた時代の流行語となった。ロンドンという場所柄もあったのだろうが、BBC勤務時代に渡英してきた三島由紀夫を案内したことのある石田は三島にどことなく硬い印象を抱いていたので、それらの作品の登場にはいささか意外な感じがしないでもなかった。ただ、ごく短い時間であったとはいえ、自分が直接に接したことのある人物が時代の寵児として活躍するのを目にすることは、けっして気分の悪いことではなかった。

流行語といえば、いまだに人々の間で使われている「ケ・セラ・セラ」という言葉が初登場したのもこの年のことだった。それは、石田が大のファンだったヒッチコック監督のスリラー映画「知りすぎていた男」の主題歌名で、スペイン語で「なるようになるさ」ということを意味していた。ドリス・デイが歌うこの曲は世界的に大流行し、むろん、国内でもその言葉は一大流行語となった。あまり流行語に毒されることのなかった石田も「ケ・セラ・セラ」というこの言葉だけは、以後日常的に多用するようになっていった。若い頃からの自分の生き方をあらためて振り返ってみると、まさに「ケ・セラ・セラ」の人生の連続ではあったから、彼はこの言葉がすっかり気に入ってしまったのだった。

この年、音楽の世界において若者たちの間に大ブームを呼び起こし始めたのはロカビリーであった。ロカビリーは前年に流行したロックンロールとウエスタンのヒルビリーとの合いの子みたいなニューミュージックだったが、カリプソブームのあとを受け、若者たちの心をどんどん魅了するようになっていった。エレキギターをこれでもかと言わんばかりに激しく掻き鳴らし、痙攣でもしたかのように全身を震わせながら歌うロカビリー歌手らの巻き起こしたロカビリー旋風は、その翌年二月の日劇「ウエスタン・カーニバル」をもって絶頂をきわめたのだった。そして「ロカビリー三人男」として人気を分け合ったのが、山下敬二郎、平尾昌晃、そして残りのひとりこそは、その歌声を聴きその姿を目にした時、石田が思わず我が目を疑った懐かしい人物であった。

よく通る声をした甘いマスクの美青年、その見事な英語の発音、その洗練された身のこなし――若者たち、なかでも若い女性たちを熱狂させたそのロックンロール歌手の名はミッキー・カーチスといった。もちろん、それは、あの上海で石田が外国人相手の日本語学校を経営していた時代、「石田のオジチャン、石田のオジチャン」といいならが、いつも彼の手を握りとことことあとについてきた当時五歳のミッキーカーチスの成長した姿にほかならなかった。

ミッキーカーチスの母親は石田が校長と経営者を兼務するその学校の有能な教師のひとりで、いつも幼いミッキーを連れて仕事場にやってきていた。だから、上海時代の石田とミッキー・カーチスとはまるで親子みたいな関係でった。それからというもの、折あるごとに石田はミッキーのロカビリーに耳を傾け、目を細めながらその姿に見入った。もちろん、ミッキーが出演するコンサートの会場などにも何度となく足を運んだ。ミッキー・カーチス本人とも直接の再会を果し、彼の両親とも旧交を温めるようになった。時々送られてくるミッキーの写真はもちろん石田のアルバムを飾ったのだった。

首都の東京一帯で爆発的な普及を見せはじめたテレビ放送の電波の到達範囲を飛躍的に拡大し、障害をなくすための巨大な電波塔、東京タワーが港区の芝公園内に完成したのは一九五八年のことであった。アンテナを含むと三三二メートルに及ぶこの鉄塔は有名なパリのエッフェル塔よりも十数メートル高いことを売りに、戦後日本の高度な建築技術を象徴するものとして大いにもてはやされ、国内外から多くの観光客を呼び込むようになっていった。もう四十の峠を越し、それなりに一介の紳士としての落ち着きも出ていてた石田であったが、生来の好奇心のほどはなお抑え難いとあって、早速に東京タワー見物に出かけ、塔上の展望台にのぼった。そして、そこから東京の街並みを見下ろし、福岡の旧制高校を卒業して上京して以来、自分の人生の転機となる数々の出逢いや出来事の起こった地点をひとつひとつ遠望しながら、深い感慨に耽るのであった。

この頃、石田の仕事は順調そのものであった。三島由紀夫と同様にロンドンでのBBC勤務時代に渡英してきた人物の一人に「風と共に去りぬ」などの翻訳でも知られる著名な翻訳家、大久保康雄も含まれていた。ロンドンを案内したりする中で大久保とはすっかり懇意になっていた彼は、東京で大久保と再会し、ほどなくその翻訳の仕事を手伝うようになっていった。イギリスでの五年にわたる生活を通して、シャーロック・ホームズの世界に何かと縁が深く、英国社会の状況やロンドンの地理風物に精通していた石田は、コナンドイルやアガサ・クリスティの推理小説の訳者としては適任であった。彼は大久保康雄からの依頼を受け、シャーロック・ホームズ物やエルキュ―ル・ポアロ物の翻訳を引き受けるようになった。

ただ、彼は、終始ゴースト翻訳者ないしは下訳者として仕事をし、表にその名を出すことはついになかった。それは「自分は二流の世界の一流にはなれても、一流の存在にはなれないし、なるつもりもない」という、生涯押し通した石田なりの美学に基づく判断だったが、「表に立つのは一流大学卒のちゃんとした学歴をもつ先生方の仕事で、実力的には引け目を感じることがなくても、大学で体系的な学問を身につけてはいない自分のような者の出る幕ではない」という屈曲した思いがすくなからずその心の奥に潜在していたのは確かだった。

おそらく、そんな屈曲した心理の遠因は、父親の急死や母親の仕事の不振のために、能力があったにもかかわらず旧制帝大進学を断念したことにあったのではないかと想像される。ともかくも、彼は大久保康雄から依頼されたドイルやクリスティの作品の翻訳を以後何年にもわたっておこなうことになった。その数は最終的には二十冊から三十冊ほどにものぼったが、石田の名前が共訳者としてそれらの翻訳書に明記されることはなかった。ただ、石田の翻訳の完成度はきわめて高かったので、大久保は初版の印税をすべて石田に渡し、大久保は再版以降の分の印税を自分の収入とするようにしていた。

いま一人、石田に翻訳の仕事の手伝いを依頼していたのは、ほかならぬ信州大学助教授の加島祥造であった。英米文学者として既にそれなりの名を成し、出版業界にも広くコネクションをもつ加島は、石田の仕事面に関し様々なお膳立てをしてくれてもいたので、当然石田のほうも加島の依頼してくる仕事に協力を惜しむことはなかった。シェークスピア、デーモン・ラニアン、リング・ラドナー、フォークナー、オーヘンリーといった作家たちの作品翻訳に関して、石田は晩年にいたるまでの長年にわたり、陰にあって多忙な加島の手助けをすることになった。もちろん、大久保康雄の場合と同様に、石田の名前が表に出ることはまったくなかった。

加島の翻訳の仕事に協力するようになってから、石田は何度も信州大学教育学部のある松本市を訪ねるようになった。もちろん、加島との間で翻訳の仕事についての細々した打ち合わせなどをするためでもあった。松本を中心とする安曇野一帯は風光明媚そのもので、いつ足を運んでみても、澄んだ大気で身体中を洗い清められるような感じがするのだった。西方に大きく聳える常念岳をはじめとする北アルプス連峰や有明山の雄姿が望まれ、松本市郊西方外一帯に広がる緑豊かな田園地帯の風景も、上高地方面から安曇野へと流れ出す梓川の水面や両河岸の景観も息を呑むほどに美しかった。また南北にのびる安曇野やそれを挟む東西の山麓一帯に点在する古くからの温泉地も石田にはなんとも魅力的なものに思われた。

折々松本へと出向くうちに、だんだんと石田はこの安曇野の地に住んでみたらどうだろう考えるようになってきた。加島の仕事を手伝うにしても、そうしたほうがなにかと都合がよかったし、また、松本市内のどこかであらためて英会話塾を開いてみるのもよいかもしれないと思うのだった。それに、東京に較べて住居費も安く、農作物などの食料品も全般的に安価で入手しやすく、生活しやすい感じがしてならなかった。何度目かの松本訪問の帰り際に、石田が加島にふとそんな胸中を伝えると、そのほうがよいのではないかと加島も松本への転居に賛成してくれた。夕陽を背にして浮かぶ常念岳の悠然とした山影を仰ぎやりながら、石田は、東京に戻ったら松本への移住の是非を真剣に検討してみようと思いはじめた。

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