ある奇人の生涯

58. ついにおりた渡航許可

1948年12月初め東京に戻った石田はすぐに英国大使館を訪ね、河口湖ホテルに電話をくれた一等書記官をはじめとする大使館関係者と面会した。すでにお互い顔見知りであったこともあって、話はスムーズに進んだ。難渋した石田の渡英がようやく現実のものとなりそうなことを旧知の館員たちはこころから祝福してくれたばかりでなく、彼がこれから向かうことになるイギリスの様子、とくにロンドンの状況についてあれこれと詳しくガイダンスをしてくれた。イギリスは終戦直後の深刻な経済不況からようやく立ち直りはじめたばかりで、まだ国民は皆質素な生活を送っているから、衣類その他の諸々の携行品はごく普通のものを必要最小限準備すればよいというアドバイスなどは、いささか緊張し気負い気味になっていた彼の心を落ち着かせてもくれた。

BBCのジョン・モリスから依頼をうけた英国大使館の特別のはからいで石田が当面身をおく場所は確保されていたから、日々の宿泊先に困るようなことはなかった。そのお蔭もあって彼はこころおきなく渡英の準備に専念することができた。雄鶏通信社の加島にも連絡をとり、BBC日本語部局勤務のため近々渡英することになりそうだとの話を伝えると、加島もそのニュースを我がことのように喜んでくれた。出発の日がいつになるか定かでないこともあって、ことによったら預かった翻訳の仕事を中途半端で投げ出さざるをえなくなるおそれもあったが、出立直前まで引き受けた分の仕事は極力進めるようにするということで加島も諒承してくれた。

石田がまっさきにとりかかったのはむろん出国に必要なパスポートの申請だった。当時日本はまだ連合軍による占領下におかれていたから、東京都や日本政府の関係当局を通じてGHQ本部に渡航理由説明書付きの出国許可を申請し、連合国最高司令官マッカーサーの承認を得なければならなかった。そういう手続きを踏んではじめてパスポートが発給されるシステムになっていたのである。

幸い、2年前のときと違って出国申請はとくに問題なく受理され、日本政府とGHQ双方の関係当局の処理も順調に運んで、12月下旬には石田に対して念願のパスポートが交付されるにいたった。手元に届いたその新しいパスポートにしげしげと見入りながら、彼は胸の奥からじわじわと湧き上がる不可思議な感動にひとり静かにひたるのだった。ついにここまで漕ぎつけたかという無言のしかしこのうえなく深い思いであった。

1949年12月25日付けで発給されたそのパスポートは現在の日本政府発行のパスポートとはずいぶんと趣きを異にするものであった。第173号という発給通し番号の打たれたそのパスポートの見開き部分右側には、石田の出国理由とGHQの承認があった旨の文章が邦文で記載されていた。外交官と一部の政治家以外には海外渡航の許されなかったその時代のことだから、いまとなっては貴重な歴史資料のひとつにほかならないのだが、それはまた、民間人としては戦後初めて英国に渡ることになった人物に手渡された記念すべきパスポートでもあった。

〈第173号〉

本官は、ここに寫眞と説明事項とを添えてある

石田達夫(この部分肉筆)

は、英国放送協會に勤務のため英國(以下余白)(この部分肉筆)

に行く目的で、日本國から出發することを、

千九百四十七年四月十四日附指令 AG 000.74 GA

(SCAPIN 1609)及び千九百四十八年十一月八日附

Passport Instructions No. 46

に基づいて、連合國最高司令官により許可された日本國民であるに相違ないことを證明する。

この旅券は千九百五十年一月十五日まで有効であって、連合國最高司令官の明白の許可のあったときに限り、これを更新することができる。

昭和二十三年十二月二十五日

そしてその文書の左ページには「日本國外務大臣 吉田茂」と大きく表記され、日本政府の公印が押されていた。また次ぎのページには石田の本籍その他が次ぎのように明記されていた。

本籍 福岡県福岡市大学通三丁目十九番地

生年月日 大正五年三月二十六日

職業 放送局員並、翻譯員

身長 一・七六糎米

特徴 なし

所持人 石田達夫(直筆サイン)

交付官廰 外務省

下付官廰 東京都

さらにまた「TRANSLATION JAPANESE GOVERNMENT PASSPORT」とある以下のページには前記の邦文と同じ内容が英文で記載され、最後には吉田茂のローマ字表記による直筆サインが付け加えられていた。そして最後のページには眼鏡をかけスーツにネクタイ姿の石田の写真が貼られていた。

年が明け1949年になっても日本国内は相変わらずの戦後の混乱が続いていた。とどまるところを知らぬ悪性インフレーションが日本経済や諸々の国民生活を直撃し、旧円封鎖や傾斜生産をはじめとするさまざまな経済政策にもかかわらず、東京などの物価はこの年までに戦争直前の124倍にも急上昇するにいたった。しかし、それでもなお、国民は窮乏生活に耐えながら復興への道を模索し続けていた。そんな状況のなかで占領下の政治や経済の世界もまた混乱した状況の打開を目指し慌しい動きを見せるようになっていた。

前年11月の日本国憲法発布にともない、マッカーサー指揮下のGHQはこの年の1月1日を期して日本国民が国旗日の丸を掲揚するのを許可するようになった。同年の2月1日にはロイヤル米陸軍長官とドッジGHQ経済顧問が来日し、その指導のもと日本経済の立て直しが真剣に検討されるようになった。そして、翌月の3月7日、ドッジ公使はインフレ経済の収束や足元の危うい竹馬経済からの脱却を促進するべく日本の政財界にドッジプランを提示、経済安定9原則に関するドッジラインなるものを具体的に表明するにいたった。

またドッジの来日とほぼ時を同じくして、吉田民自党及び犬養民主党の両党首は保守連携内閣を樹立し、長期安定政権を目指すようにしたいとマッカーサーに申し出た。その長期政権樹立の動きは、やがて吉田ワンマン政治とも呼ばれ、功罪両面でその後の日本の進路に多大な影響をもたらすことになった政治体制確立へと繋がっていくのだが、ともかくもそんな慌しい世相の中で石田は次第に迫る渡英の日にそなえあれこれと身辺の整理を進めていた。

英国大使館やBBC側との打ち合わせにより、結局、英国へ向けての石田の出発は4月10日前後ということに決まった。だが、当時まだ不定期だったB.O.A.C(英国海外航空)の飛行便の都合もあって直前まではっきりしたフライト日時は定まらずにいたから、4月に入ると石田はいつでも出発できる態勢を整え、英国大使館の一室で待機状態に入っていた。

そんな四月初めのある日の夕刻、石田はぶらりと銀座に出かけ、柳並木に沿う街路を独り静かに歩いていた。相変わらず一帯は進駐軍兵士であふれかえっていたが、それでも終戦から3年半以上経っていたこともあって銀座は徐々に以前の面影を取り戻しはじめていた。ほどなく向かうイギリスという未知の国への期待に胸は大きくときめいていたから、日本を離れることにべつだん感傷を覚えたりすることはなかったが、それでも当分は見納めにならざるをえない銀座の風情にしばし石田はひたっていた。次第に迫る春の夕闇の中でだんだんと明るさを増しゆく街灯の光を眺めながら、それに重ねるようにして彼は霧に浮かぶロンドンの街灯のことを心中ひそかに想いやった。

その時であった。突然背後からなにやら聞き憶えのある女性の声が響いてきた。その声の主は急ぎ足で彼のほうに駆け寄りながらよく通る声でもう一度はっきりと呼びかけてきた。

「タッツァーン、タッツァンじゃないのよっ!」

自分のことをタッツァーンと呼ぶ人物はこの世広しといえどもただ一人にしか存在しないはずであった。石田は信じられない思いで近づいてくるその人影のほうを振り返り、その顔かたちを見きわめようとした。そして次の瞬間、彼は絶句したままその場に立ち尽した。それはまごうかたなきミサその人の姿であった。

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