ある奇人の生涯

116. 養子を迎え入れる

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

幸いにして新設の英会話塾ESSMは盛況だった。もちろん、石田の狙い通りに塾生の年齢層は幼児から中高年までと一挙に拡大し、学生や社会人、主婦らの占める割合が飛躍的に増大した。自らが講師と経営者を兼務していたので、誰にも気がねなく思い通りの講義をおこなうことができたし、そのことがまたレッスンそのものに活気をもたらし、受講者にもよい印象をもたらす結果となった。もちろん、加島祥造や大久保康雄らから依頼される翻訳の仕事の処理も順調だった。同じ翻訳の仕事でも、和文英訳の仕事を依頼されることも多くなった。加島を介して依頼される信州大学教官らの海外向け研究発表論文の英語訳や英訳文の監修などがほとんどだったが、海外貿易関係の文書の和文英訳などを持ち込まれることもすくなくなかった。必ずしも気乗りのする仕事ばかりではなかったが、どうしても依頼されるとむげに断るわけにもいかなかった。

石田が松本でそんな生活を送っているその間に、東京では日本の国力の回復を象徴するかのような夏季オリンピックが鳴り物入りで開催されたりもしたが、そんな世間の騒々しい動きなどに彼が左右されるようなことはもうなかった。もちろん、テレビでオリンピックの開会式の様子などを観たりはしたが、必要以上に国威発揚を煽る演出だらけの映像にはいまひとつ馴染むことができなかったし、日本の女子バレーチームが優勝しても、そのシーンを目にして熱狂するような気分にはとてもなれなかった。だから、オリンピック見物に東京に出かけるなどまるで無縁なことだった。

ただ、そんな松本での生活の中でひとつだけいささか物足らなかったのは、大好きな外国映画や最新の演劇、さらには歌舞伎その他の芝居などが思うようには観られないことだった。そこで石田は、その種のものが観たくなると、その折ごとに東京へと出向き、そのついでに大久保康雄と仕事の打ち合わせをおこなったりもした。列車を乗り換えることもなく、またそんなに長時間を要することもなく東京に行くことのできる松本は、地理的な観点からしてもたいへん都合のよいところであった。そんな時の石田の東京での常宿は、外人宿泊客も多く、都内のどこに出かけるにもたいへん便利な赤坂のアジア会館であった。

一九六六年は日本でビートルズ旋風が巻き起こった年であった。イギリスの地方都市リバプール周辺で誕生した若者らのロック・グループ、ザ・ビートルズが、やがてロンドンに攻め上り、英国全土ばかりでなく全世界を席捲し熱狂させるにいたった過程を想像しながら、石田はテレビを通して彼らの活躍ぶりを眺めやった。そして、舞台上で熱演する彼らの姿の向こうにあるイギリス各地の庶民文化の有様や、それを支える独特の社会構造の様相を懐かしく想いやっていた。

信州大学の助教授だった加島祥造はこの年、横浜国立大学教育学部の教授として招聘され松本を離れたが、石田のほうはひとりそのまま松本に残った。もともとは加島との縁で信州松本に移り住むことになった石田だったが、松本一帯の風土やそこに住む人々の人情の機微が自分にはしっくりとくる感じであったし、それにESSMを開校したばかりでもあったから、たとえそうしたいと思ってもすぐさま松本を離れるわけにもいかなかった。また、加島が横浜国大に移ったことで、仕事の打ち合わせなどのため東京や横浜方面に出向むく必要も生じるから、その折などに東京でしか見るこのできない文化的な催物に足を運ぶことができるのも都合のよいことであった。

松本での石田の生活ぶりはその後も順調で時間だけが静かに流れていった。晴耕雨読ならぬ「晴遊雨訳」の生活のリズムも再び板につき、加島祥造や大久保康雄らから依頼を受け手伝った翻訳本の数も四十冊近くになっていた。その間にも日本各地では様々な社会的事件や政治的事件が勃発していたが、松本での静かな生活を至上のものとするようになっていた石田にはそれらの出来事など一喜一憂するようなことではなくなっていた。

日本の経済成長のシンボルともいうべき大阪万国博覧会開催のほか、東京府中での三億円事件、東大安田講堂事件、三島由紀夫やその傘下の楯の会メンバーによる東京市谷の自衛隊駐屯地占拠事件、さらには浅間山荘事件と、経済繁栄の裏で生じつつある社会のひずみを物語るような大事件も起こったが、もっぱら石田はそれらを傍観するばかりだった。三島事件に関しては、BBC日本語部勤務時代に渡英してきた三島由紀夫を案内したことが記憶に残っていたのでいささか驚きはしたものの、雲の上の存在的なところがあっていまひとつフィーリングが合わなかったから、そんなに深い関わりをもつことなく終わり、そのぶん、その行為の是非にたいして特別な感情を抱くこともなかった。

ただ、そんな彼も、一九七二年九月の日中国交正常化のニュースに接した時だけはさすがに感慨もひとしおだった。天津、青島、大連、上海と中国各地を点々としながらドラマティックでなんとも想い出深い生活を送り、終戦直後の上海から引き揚げてきた彼にすれば、中国は青春の舞台でもあり、第二の故郷ともいうべきところであった。戦後の日中間の不和を目にするにつけても、中国を再訪することはもう叶わぬものと諦めかけていただけに、日中間の友好関係が一段と進展し、再び中国渡航が可能になる日が訪れるかもしれないと思うと、なんとも嬉しいかぎりではあった。現実にまた大連や上海を訪ねて若き日々の想い出にひたることができるようになるかどうかはともかくも、その実現に向かって一縷の望みが生じたことは喜ばしいことであった。それゆえに、両国間の国交回復を記念して中国から日本へと贈られた二頭のパンダの姿やその人気ぶりを目にするにつけ、彼の心はほのぼのとした気分になるのだった。

どこまでも続くように見えた経済成長とそれに伴う好況に浮かれていた日本人が突然のパニックに陥ったのは、一九七三年から翌年にかけて起こった一連のオイルショックが原因だった。第四次中東戦争勃発のためにアラブ石油輸出機構は石油減産とアラブ敵対国への石油供給制限を決定、日本の石油事情は一変し、全国的に省エネが叫ばれるようになった。それまで華やかさを極めていた街のネオンやビルの明かりは一斉に消えて、テレビも放映時間の短縮を余儀なくされた。

エネルギー資源を輸入に依存するいっぽうの日本は、このオイルショックを契機に経済成長が急速に下降線を辿りはじめ、ほどなく耐乏の時代に入ると予想されるようになった。そんな社会の動向を反映するかのように、各種物資が異常な高騰をみせはじめ、それを逆手にとった悪徳業者らは生活必需品を買い占めて物不足を演出し、パニックを起こした庶民に高値で保有物資を売りつけ、法外な利益を上げるという事態にいたった。その象徴ともいうべきものがトイレットペーパーで、先を競って何年分ものトイレットペーパーを買い溜める人々まで現れる有様だった。

そんな異常事態の起こったこの年のこと、たまたま石田の身辺にもちょっとした変化が生じていた。BBC時代の石田の先輩で、戦中に開始されたBBC日本語放送の初のアナウンサーを務め、石田とほぼ前後して日本に戻った伊藤愛子が癌のために死亡したという報せが届いた。人伝に聞いたところでは、その墓所は鶴見の総持寺の一隅に設置されたとのことでもあった。ミセス・クラークとしてロンドン社交界の花形でもあった往時の美しく知的な伊藤の姿を知り、BBCの仕事で苦労を共にもし、また、お互い日本に戻ってからも銀座などで何度か彼女と歓談したことのある石田にすれば、国際感覚豊かで心の通う貴重な友人をまた一人失った感じで、いささか寂しい思いにならざるをえなかった。

いまひとつの身辺の変化は、自分の養子として岩手県岩泉町の佐々木家の三男佐々木俊紀を同年七月七日付けで養子に迎え入れたことだった。入籍の日を七夕の当日に設定した裏には石田ならではのジョークがらみの思惑が込められていたのかもしれない。石田翁が他界する何年か前に養子縁組の経緯をそれとなく尋ねたことがあった。その時石田翁は、「松本城周辺でたまたま俊ちゃんをハントしたんですよ。君、僕の養子にならないかってね」などと冗いう談としか思われない答を返してきた。

だが、石田の死後、養子の石田俊紀氏に実際に尋ねてみたところでも、大筋にそう大きな違いはなかったらしい。既に五十代半ばを過ぎていた石田は、その前年、松本城周辺でたまたま当時二十歳の佐々木俊紀と出遭った。そして、それが不思議な縁となり、石田は彼を養子として迎え入れることにしたのだった。いかにも「ケ・セラ・セラ」を信条として生きる石田らしい出来事だった。

東京で学生生活を送っていた佐々木は、いろいろと思い悩むところがあって旅に出かけ、松本にやってきた。そして松本城の城郭を見物し、そのあと周辺をぶらついていた。そんな佐々木を目にした石田はさりげなく声をかけたのだった。そこは「折あるごとに旅人を喰って生きてきたんですよ」と常々ジョークまじりに語っていた石田のことである。若い佐々木の迷える心を巧みな会話で虜にし、さらには相手の追及を煙に巻いて翻弄することなど造作もないことであった。佐々木はたちまち石田の不可思議な存在感に圧倒され、その身体から発する妖気とも毒気ともいうべきしろものによって、おのれの魂の自由と行動の自由とをすっかり奪われてしまったのだった。まさにドラキュラに魅入られた青年の観があったといってよい。

相手の心をすっかり掴みきったと見て取った石田は、そのあとすぐに佐々木を浅間温泉近くの自宅へと連れていった。もちろん、そうしたのは石田が佐々木のことをとても気に入ったからでもあった。佐々木のほうはまったく抵抗するすべなどないままに、のこのこと石田のあとについていった。自宅に着くと、石田は若い佐々木のさまざまな悩みや将来への思いなどをゆっくりと聞き出し、彼一流のやりかたで軽くイナしたり、からかったり、笑い飛ばしたり、思わぬ角度から切り込んだり、さらには知的な一面をのぞかせつつ適切なアドバイスを繰り出したりして、相手の心をいっそう魅了しにかかった。佐々木のほうはそんな石田の巧みな話術や心理操作にすっかり幻惑されながらも、そのいっぽうでは鬱屈していた心のもやもやがすっかり解放され、どこからともなく新たなエネルギーが湧き上がってくる感じでもあった。

いったん東京に戻った佐々木だったが、しばらくするとまた石田に会いたくなって自ら松本を再訪し、石田のほうもむろん快く佐々木の来訪を受け入れた。もっとも、石田のほうは、佐々木が再度自分の元にやってくることを確信してもいたようであった。やがて、佐々木は度々石田宅を訪ねるようになり、そんな佐々木に対して、あるとき石田はよかったら自分の養子にならないかという話をもちかけたのだった。

石田が佐々木にひとかたならぬ好感を抱くようになっていたからではあるが、いまひとつには、石田という人物の存在についていろいろと耳にしていた佐々木の両親から、どうせなら三男の息子俊紀を養子にもらい育ててくれないかという熱心な申し入れなどもあってのことだった。むろん、佐々木家側も石田の出自や経歴その他を十分調べた上でのことだったらしい。家族のいなかった石田のほうも、自分の年齢を考えると養子の一人くらいあってもよいかと考えたこともあって、話はとんとん拍子に進み、以降、佐々木は石田の養子として石田俊紀と名乗るようになったのだった。歴史上の人物、石田三成が大好きだった俊紀は、養子に入れば石田という姓を名乗ることができるので、ちょっとばかり格好もよくなるなとも考えたりしたらしい。

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