ある奇人の生涯

48. 本土帰還と中国残留と

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

石田が兵役についていた間もミサはホテルで働き続けていた。だから彼は上海に戻るとすぐに彼女と連絡を取り、何度も二人で逢っては先々の身の振り方を話し合ったりもした。石田とミサとの親交そのものにその後の生涯を通じてなんら変るところがなかったが、この時期を境にして石田の内面には微妙な心理的変化が起こったのだった。一口にいうと、それは女性に対する極度の性的関心の薄れと性行為そのものの忌避であった。その後まったく女性との性的な関係をもたなくなったというのではなかったようだが、彼の心中に性というものに対するある種の違和感が生じかけていたのは確かだった。過去あれほどに女性相手に浮名を流した石田からは考えにくいことであったが、現実にその身に起こった予想外の事態に彼自身どう対処したらよいものか見当がつかなかった。もちろんミサとの性的な関係においてさえもそれは例外ではなく、以前ほどの激しさをもって彼女を抱くことができなくなっていた。

軍隊での生活を送るうちに何度か目にした古参兵や下士官たちによる女性強姦の場面、なかでもあの若くて美しい中国人女性が強姦されていた場面と、それにもかかわらず彼女の見せた恐ろしいほどに澄んだ超越的な双眸の輝きが石田の脳裏には焼きついて離れなかった。そしてそんな情景を想い出すにつけても、女性を前にして理性を失ったときの男というもののもつ、暴力的かつ野獣的なサガというものがどうにも堪え難いもに感じられてならなかった。また逆に、そんな男の本能的な獣性をいやがうえにも煽り立てる女性のセックスアピールというものにも一種の嫌悪感を覚えはじめたのだった。勘の鋭いミサは、石田のそのような内的変化をもちろんすぐに感じとっていたが、あえてそれを責めたりするようなことはしなかった。石田との精神的関係のほうがはるかに重要だと考えた点でも、さすがにミサは大人の女であった。

もしかしたら石田生来の隠れた資質のなかにホモセクシャルな一面があったのかもしれないし、また、見かけ上の体格の立派さとは裏腹にけっして頑健とは言い難い身体の持ち主だった彼には、強靭な心身をもつ男性というもに対する潜在的なコンプレックスがあったのかもしれない。そして、意識にのぼることなく体内深くで眠っていたそんな資質の一部が、中国での様々な体験を通し想わぬかたちをとって表面化してきたと言えないこともなかった。もっとも、石田のそのような一面はけっしてマイナスにのみはたらいたわけではなく、見えないところで彼の諸々の才能や抜群の美的センスというものに大きく寄与していたに違いない。実際、のちに迎えることになるその人生の一大飛躍をとことん支えた原動力の一端は、案外そんなところにあったのではないだろうか。

一九四六年に入り自らの本国帰還の日が近づくにつれて、石田は日本人引き揚げ者のために食料調達や資金調達をする仕事からも徐々に手を引きはじめつつあった。彼がそうせざるをえなくなった裏には、この一時期、上海の米国情報部に呼ばれ、日本や中国関係の情報文書の翻訳や解読を手伝わされていたという事情などもあった。もとシティバンクの行員で英語のうまい日本人だという情報はどこからか米軍筋にも流れていたらしく、上海から引き揚げるまでの期間そのような業務に協力するように要請されていたのだった。

夏も盛りに入り、いよいよ本土への引き揚げも間近になったある日のこと、ミサと逢ってあれこれと話し込みながら、何時頃本土に引き揚げるつもりなのかと尋ねると、彼女からは意外な返事が戻ってきた。なんとミサは、いまさら日本には帰るつもりはないと言い出したのだった。自分だってそうしたいけれど、こんな状況下ではそんなことできるわけがないだろうと反問すると、彼女は、今後は日本人としてではなく中国人として上海で暮らすのだと言い張った。中国語もうまく中国の事情にも通じているうえ、いろいろな中国要人とも交流のあったミサのことだから、本気で中国人になりっきて暮らすつもりならそれも不可能なことではないだろうとは思われたが、それ以上にこの時の石田が感じたのは、いざという時に見せる女性というもの本質的な強さであった。いくら彼が説得してみたところで彼女の意志は微動だにしそうにもなかった。

説得を諦めた石田は自分の部屋をミサに提供し、上海を引き揚げることにした。中国人になって暮らすのだと覚悟のほどを語ったミサではあったが、敗戦後に起こった日本人強制立ち退きの煽りを喰って、ミサはそれまで住んでいた部屋を引き払わなければならなくなっていた。そのため、彼女は大急ぎで新たな住まいを探す必要に迫られていた。だから、石田が引き揚げたあと、かわりに自分がその部屋に住むことができるというのは文字通り願ってもない話だった。むろん、その一件についての相談は二人の間ですぐにまとまり、あとは直ちに実行に移すための手筈を整えるだけのことになった。

石田の部屋の壁にはなんとも奇妙な絵が描いてあった。それは一匹の猿がマスターベーションに耽っている絵であった。その猿のどこか滑稽でしかも自己完結的な姿はほかならぬ石田自身の姿を暗示しているとも言えたし、男というもののどうしようもない愚かさを象徴しているとも言えた。石田は引き揚げ船に乗ることの決まった日が近づくと部屋を空ける準備を終え、それからあらかじめ用意してあった顔料と筆を取り出すと、壁の猿の絵に重ねるようにして、「You bitch!」と大書した。「売女めが!」とか「性悪女めが!」とかいった侮蔑の意味をもつこの英語をわざと石田が書き残したのは、ある種のミサへのあてつけにほかならなかったが、裏を返せば、ミサならば自分のそんな振舞いを平然と笑って受け流すことができるだけの度量があるだろうとの確信がもてたからでのことでもあった。

一九四六年の夏も終わりに近いある日のこと、石田はいよいよ引き揚げ船に乗ることになった。母親や妹たちは彼とは別の船ですぐあとから帰国することになっていた。日本人の乗船者は二、三日前から埠頭近くのテント村の一角に集合し待機するように指示が出ていたので、石田は蘇州江(呉松江)沿いの引き揚げ船埠頭へと向かう前にミサに部屋の鍵を渡し、その後の無事を祈りながら静かに別れを告げた。気丈なミサもそのときばかりはさすがに淋しそうだった。

まだ夏場ということもあって、乗船後に赤痢や疫痢などの伝染病が起こったりすると大変なので、出発前には乗船者をいくつかのグループに分け、全員を対象とした検便がおこなわれたが、その方法たるやなんとも荒っぽいものだった。横一列に整列して両手を地面に着け、ズボンやスカートを半分脱いでお尻をまるだしにしたまま待機していると、看護婦や衛生兵らがやってきて、そのままの姿勢で「あー」と大声を出しながら肛門の力を緩めるようにと指示を出した。そして次ぎの瞬間、彼らは箸か細い木ベラみたいな木片を肛門に差し込むと、手際よく少量の便を採取した。

もちろん男女の別なくその採便は実施されていたが、婦女子であっても頭を丸刈りにし男装している者がすくなくなかったため、一見しただけでは男か女か見分けがつかない有様だった。婦女子らが男装をしていたのは、中国各地から遠路はるばる上海の引き揚げ船埠頭までやってくる間に、無法化した状況の下で盗賊その他の連中に襲われたり暴行されたりするのを防ぐためだった。日本軍がかつて中国人婦女子に対して犯したのと同じ行為を日本人婦女子が逆に被るおそれは十分にあったし、実際、あちこちでそのような事態が生じていた。

採便の方法も、そして軽い痛みを伴う採便後のお尻の不快感も相当なものであったが、採取した便を検査する方法もまたちょっとしたものではあった。先端に採取した便のついた細長い木片は何本も一緒に同じ試験管に差し込まれ、そのうえでその試験管中の便に試薬かなにかを加え、光にかざして細菌が混じっていないかどうかが検査された。むろん、一人ひとりの便を別々の試験管に入れて検査するだけの時間と必要備品がないための非常処置だったが、おかげで、菌が発見された場合でも誰が保菌者であるかをすぐに特定することは不可能だったから、そのグループ全体が足止めされたりするという笑うに笑えない事態も起こった。

乗船に際してはほとんどの者が米国人看護婦らによってDDTの白粉を何度も何度も頭から吹きかけられた。いまでこそ大量のDDTの人体への散布は有害であるとされているが、当時は安全だとされていたこともあって、全身が真っ白になるくらいに同剤がふりかけられた。乗船直前の携帯品の検査もなかなかに厳格だった。携帯品検査は米兵や中国兵によって繰り返し繰り返し行なわれた。列をなして並び、自分の番がやってくると、一・五メートル四方ほどのシートの上に所持品のすべてを並べさせられた。一定量や一定数以上の品物を持って乗船することは許されなかったので、たとえあれこれ苦労して貴重品を携行してきても、結局、この段階で必要最小限のもの以外は放棄せざるをえなくなった。もっとも、なかには背嚢の肩帯などに巧みに貴重品を縫い込んだりして検閲突破を試みるずる賢い者もいたりした。石田自身はこれといった貴重品などまったく携えていなかったので、とくに検閲にひっかかるようなことはなかった。

引き揚げ者輸送の任にあたったのは、戦時中なんとか撃沈されずに残った日本の客船や貨物船、さらには元日本海軍の艦船などだった。元海軍所属の軍艦の場合、その武装が解かれていることはもちろんだった。たまたま石田が乗り込むことになった引き揚げ船は終戦直後に完成したため実戦には配備されなかったとかいう駆逐艦であった。かつて台湾の基隆や中国本土の天津と北海道小樽とを結ぶ貨物船の乗員をやっていた石田にすれば、船に乗ることそのものは手馴れたものであったけれども、細長い船体をもち高速が出るように設計された駆逐艦の構造を実際目にするのは初めてのことだったから、さすがになにもかもが物珍しく感じられた。

駆逐艦はもともと多くの乗客や大量の荷物を載せるようには造られていないから、ベッド類や広い船室のようなものは装備されていなかった。だから、乗船した引き揚げ者たちは狭い甲板やごちゃごちゃした機械類の間に身を寄せ合うようにして座り込み、本土までの長い船旅に耐えるしかない有様だった。

甲板の一角に腰をおろし出航準備が整うのをひたすら待つ石田の脳裏を複雑な想いがよぎっていった。ナーシャを追ってのことではあったとはいえ、大きな夢と希望を抱きつつ海路はるばる大連から上海へとやってきて、摩天楼の聳え立つその景観をはじめて目にしたときの感動はなんとも忘れ難いものであった。その時のことを想い出すにつけても、それから六年を経たこの日、その摩天楼群を背にして上海を離れ、もはや夢も希望も抱くことができそうにない本土へと重苦しい気分で引き揚げようとしている自分の姿がつくづく情けなくやりきれないものに感じられた。そして、中国人になりすましてでも上海に残ろうと決断したミサの胸中がそれなりには理解できるような気がしてならなかった。

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