ある奇人の生涯

56. 渡航許可申請却下

BBC日本語部局で働くという話がモリスとのあいだでまとまるまではすべてがとんとん拍子で進んだのだが、現実にはそのあとからが思うようにはならなかった。話がまとまるとすぐにGHQに対し渡航許可の申請をしたのだが、民間の日本人がかつての交戦国であるイギリスに渡るのはまだ時期尚早であるとして、マッカーサーはどうしても出国を許可してくれなかった。モリスが背後でいろいろと奔走し、GHQにも事情を説明してくれたのだったが、それでも渡航許可はおりなかった。日本国憲法が発布される直前の時期のことでもあり、身分の取り扱いやその保証など煩雑な事務手続き上の問題が多々あったことや外地における当時の反日感情がなお大きなものであったことなどが、渡航許可申請が却下されたおもな理由であったようである。

時節がらやむをえないので渡英のための機が熟するまでいましばらく待機しようということになり、結局モリスは一足先にひとり本国に帰国することが決まった。離日に際し、モリスは石田の身柄を英国大使館に委託し、渡英許可がおりまでそこでなんらかの仕事ができるように手筈を整えてくれた。

モリスが帰国したあと、石田は報道モニターの担当者としてしばらく英国大使館で働いた。国内外の政府公報、新聞、雑誌、放送など各種報道を常時モニターし、イギリスの国際外交に関わるような重要な情報をチェックしてはその詳細をレポートするのが彼に課せられた仕事だった。当時、英国大使館周辺のほとんどの建造物は戦火で瓦解したり消失したりしたままになっていたので、あたりには往時の姿を偲ぶことができるような建物はまったく残っていなかった。仕事の行き帰りや休憩時などにあたりを歩きまわるとよく目につくのが、表面が焼け焦げたままあちこちに転がる大小の金庫類だった。その中に何か貴重品でもはいっているのではないかというさもしい期待などもなくはなかったが、容易に扉を開けて中を見ることができるような状況ではなかったので、さすがに金庫漁りのほうは断念せざるをえなかった。

この1946年の11月3日、民主主義、平和主義、基本的人権の擁護などを基本理念に掲げる新日本国憲法が発布された。当然一部には「占領軍による押しつけ憲法」などという声もくすぶってはいたが、皇居前広場で開かれた新憲法公布記念祝賀都民大会には10万人を超える民衆が詰めかけ、周辺は大変な熱気に包まれた。新憲法に対する当時の庶民の期待はそれほどまでに多大なものでもあったのだった。

その頃の日本人の平均的な政治意識についてマッカーサーが「12歳程度」と評したという話を耳にしたとき、石田は実際その程度のものであるのかもしれないと苦笑せざるをえなかった。現在の北朝鮮の政治体制や同国民の一般的政治意識を我々日本人は奇異なものとして受けとめているが、当時の欧米人らも日本という国に対してそれに類するような思いや印象を抱いていたことは間違いない。

「12歳程度の政治意識」と酷評されたその日本国民の政治意識をなんとか目覚めさせようと考えたGHQ司令部は、新憲法の理念を漫画的手法で図解した新憲法啓蒙ポスターなるものを作成させそれを広く国内に配布するよう日本政府当局を指導した。英国大使館でモニターの仕事をしながら、たまたまそのポスターを目にした石田は、笑うに笑えぬ複雑な思いになりながらいろいろと工夫の凝らされた図解イラストに見入るばかりだった。

その啓蒙ポスターには、「以前」「今」と記された一組の漫画風イラストからなる図解が何組も並べて掲載されていた。たとえば、国民の平等を謳った条項を説明するイラストの「以前」のほうには、一番左に「天皇」と表示された大きな台にのるタキシード姿の天皇が大きく描かれ、その右隣りには「貴族」と記されたより低く小さな台にのる同じくタキシード姿の貴族が、天皇の3分の2くらいの大きさで並び描かれていた。さらに貴族の右隣りには、一段と小さな「男」という表示の台にのった紋付姿の男性がより小さく描かれ、いちばん右側には台にのらない着物姿の女性が男性の半分くらいの背丈と大きさでごく小さく描いてあった。そして、男性と女性の下には「人民」という説明用の文字が特別に付け加えられていた。

いっぽう、「今」と記されたイラストの左端には、車体に「憲法」という表示のあるトラックが天皇、貴族、男らがのっていた台を積んで運び去ろうとするところが描かれ、その右手に、天皇、貴族、男、女の姿が同じ背丈と同じ大きさで図示されていて、それら四者すべてをまとめるかたちで「人民」という文字が配してあった。「以前」の図が四者の歴然とした身分差を表わしているのに対し、「今」の図は四者の平等を表わしているというわけなのだった。

また、公務員のありかたについて規定した憲法第15条がらみの図解の場合、「以前」のほうには高い壇上に坐るちょんまげ姿の役人の前で両手両膝をつき、平身低頭して書類を差し出す庶民の姿が描かれ、いっぽうの「今」のほうには洋装で机に坐る公務員の前を立ったまま書類を提出し通り過ぎる市民の姿が描かれていた。

信教の自由をうたった憲法第20条に関する図解もなかなかに興味深いものであった。「以前」のイラストには、国家神道と記された大きな鳥居の奥に神社の社殿が描かれ、その社殿のうしろに社殿よりも大きな菊の御紋章が配され、さらに菊の御紋章をはさむかたちで帝国政府という太文字が表記されていた。そして中央の大きな鳥居の左脇には教会という文字が、右脇には仏教という文字がそれぞれ吹き飛ぶような薄文字で小さく表示されていた。それに対し、「今」のイラストには階段つきの近代的なゲートから左、中央、右の三方に向かって同等の幅の道が描かれ、それぞれの道の奥に、左から順に教会、寺院、神社の絵が配してあった。もちろんそれは、キリスト教も仏教も神道も同等であり、国家は特定の宗教に直接関与しないということを表わす図柄であった。

そんな世相のなかで、石田は英国大使館で報道モニターの仕事を続けながらGHQ本部から渡航許可がおりるのを心待ちにしていたのだが、翌年になるとそんな彼の思いを嘲笑うかのように事態は思わぬ方向へと進展した。マカーサー指揮下のGHQにようやく石田の渡英申請を許可しようかという動きが出た段階になって、肝心のイギリス本国が大戦中の混乱の煽りをうけ第一次経済危機に陥ってしまったのだった。それに伴う窮乏財政のゆえに当面BBCには石田をイギリスに迎え入れるだけの余裕がない状況になり、彼の渡英実現はまたまた大きな壁に突き当たることになった。

英国大使館での報道モニターの仕事自体はそれなりに石田の性分に合うものであったし、その仕事に就いているかぎり日々の生活に困るようなことはなかった。ただ、いくら英国大使館側が好意的に便宜をはからってくれているとはいえ、いつ実現するともわからない渡英を待ちながら必ずしも不可欠なものとは言い難いモニターの仕事をそのまま続けるのはなんとも気の重いことだった。そもそもBBCの話そのものが立ち消えになってしまう可能性さえすくなくなかった。また、あちこち動き回ることの好きな彼本来の性格からしても、ほとんど身体を動かすことのないデスクワークに長期間専念することはいささか不本意なことだった。そのため彼はいったん英国大使館を離れ、新たに適当な仕事を探しながら生きていこうと考えるようになった。むろん、ひとつには、物事が安定するとすぐにそれを壊さずにはおれなくなる彼の本性も、むろん、そんな決断をする大きな背景となっていた。

前年、敗戦にうちひしがれた首都東京にやってきたばかりの頃とは違い、この時までには進駐軍が英語のできる日本人の人材を欲しがっていることを石田は熟知していたから、英国大使館を辞してからもひどく仕事に困るようなことはなかった。博多の芸人街育ちということもあって国内外の芸能に通じていた彼は、駐留軍慰問団の顧問といういささか風変わりな任務をこなすかたわら、駐留軍に随行する外国人報道関係者の通訳兼アシスタント・レポーターとしても活躍するようになった。「要するに、その時点で進駐軍サイドの人間になってしまったわけですよ」とのちのち石田が自嘲気味に語ってくれたように、彼はその語学力をおおいに活かし、進駐軍関係者をさまざまなかたちでサポートしながらまたあちこちに出入りするようになった。

進駐軍の諸機関や諸部隊と日本人の民間バイヤーや市場関係者との間をとりもつことも多かったから、必然的結果として、進駐軍からの極秘の流出物資や国内の不法流通物資の売買をおこなういわゆる闇市にも関係するようになった。中国の青島や上海などにおいてその種の世界をすくなからず経験してきたこともあったし、そもそも、建前としては闇市を取り締まる側にある関係者もまた裏で闇市に依存して生きざるをえないという戦後社会の実状を仕事上よく知り抜いていたから、闇市に関わることにとくに抵抗は感じなかった。

進駐軍と深く関わるそんな東京生活をしばらく送ったあと、縁あって石田は山梨県の河口湖畔にある河口湖ホテルでフロントマンとして勤務することになった。富士の裾野に位置する風光明媚な河口湖ホテルは当時進駐軍に接収され、進駐軍関係者家族の保養宿泊施設となっていた。当然滞在者のほとんどが外国人であったから、欧米人との交際経験も豊富で、並はずれた語学能力をもち、ホテル運営に不可欠な日本人関係者との交渉にも困らない石田は同ホテルのホテルマンとしても適任だった。いっぽう石田自身もまた、しばし東京を離れ、静寂な環境のもとで様々な外国人来訪者相手に仕事ができることにすくなからず魅力を感じもした。だから、GHQの責任者から河口湖ホテル勤務の話を持ちかけられたとき、彼は喜んでその誘いに応じることにしたのだった。

もっとも、石田が河口湖ホテル勤務を引き受けるようになったのにはいまひとつそれなりの背景があった。彼よりも7歳ほど若いある人物との出逢いとそれに付随して生じた仕事がそれであった。

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