ある奇人の生涯

52. 荒城の月

かつて石田が見なれてきた丸の内の面影はそこにはほとんど残されていなかった。想像を絶する空爆によって崩れ落ちたビルのコンクリートや煉瓦の破片、ぐしゃぐしゃになって散乱する鉄骨などで、大通り沿いの一帯をのぞいては足の踏み場もない有様であった。ほとんどのビルは無残なかたちとなって礎石だけをさらけだし、かろうじて半壊状態で残るビルもその壁面は黒々と焼けただれ、まるで亡霊のように哀れな姿をさらしていた。

ほんの僅かだが被弾を逃れ往時のままの姿をとどめる建物もあるにはあったし、被害が軽微だったため修復の進められている建物もあるようだった。だが、それら無傷に近い建物はみな進駐軍やその関係筋によって接収されてしまっていた。皇居のお堀端の一隅に立つ第一生命ビルにはマッカーサーを最高司令官とするGHQ本部が置かれ、その屋上の一角には、まるで米軍主体の進駐軍による日本占領を象徴でもするかのように、星条旗が他の連合国の国旗よりもひときわ高らかに翻っていた。また、壁面のあちこちに焼け焦げた跡が残りはするものの、これも破壊を免れた丸の内の内外ビルには英連邦軍司令部が設置され、その屋上ではかつての大英帝国の威光の名残ともいうべきユニオン・ジャックが、いかにも威厳ありげにはためき揺れていた。そのユニオン・ジャックがやがて自分と大きな関わりをもつことになろうなどとは、その時の彼にはまだ想像もつかないことであった。

石田はそのあと日本橋や銀座方面にも足をのばしてみたが、無残な焼け野原が延々と広がる有様はどこもかしこもおなじであった。もちろん、日本橋や銀座周辺にも丸の内周辺と同様に戦災を免れたビルがいくつかはあった。しかし、ごたぶんにもれず、それらもみな連合国軍筋によって接収されてしまっていた。たとえば、ユニークな丸天井のロビーで知られる日本橋三井本館はアメリカ国務省によって占有使用され、また銀座4丁目角の服部時計店のビル(現在の和光)などは米国第8軍のPX(酒保)となってその中に進駐軍関係者相手の土産物売場やスナックバーなどが設けられ、軍服姿の兵士らやその相手をつとめる女たちでそこだけ異様な盛況をきわめている感じだった。

日本橋周辺からは、広大な瓦礫の野原と化した下町方面の凄惨な光景を一望することができた。東京のなかでもとくに被害甚大だった下町一帯においては、ほとんどすべての民家が倒壊したり焼失したりしてしまっているため、浅草の浅草寺あたりのものではないかと思われる建物の影がうっすら望まれるほどであった。

上京すればなんとかなるかもしれないという淡い期待を抱いて上京した石田だったが、荒廃しきった現実の東京の姿をまのあたりにしては、絶望とも悲哀ともつかない暗澹たる気分に沈み込むばかりだった。東京というこの国の首都がかつてのような繁栄の姿を取り戻すにはこれから何百年にも及ぶ長いながい歳月を要するのではないかと思われもしたし、また、たとえそれほどに膨大な時間をかけたとしてもこの都市の再生が可能であるのかどうかさえ疑問に感じられてならなかった。ましてやそんな有様の中でなんとか日々を凌ぐことのできるような仕事を探し出すなど、至難の業とでもいうほかなかった。

ちょうどこの頃、東京周辺の進駐軍関係筋は英語の堪能な日本人を探そうとやっきになっていたのだったが、上京したばかりでそんな情報など知る由もなかった彼は明日からどう身を処したものか皆目見当もつかず、なんの当て所もないままに呆然として変わり果てた都心一帯を歩き回るばかりであった。かつて空腹のゆえに気を失い、横浜の山下公園で行き倒れになった時のことなどが一瞬その脳裏をよぎりもした。

夕刻が迫り次第にあたりが薄暗くなるなかで、これといった特別な意図もないままに、石田は銀座方面から皇居の周辺へと再び足を運んだ。そして、夕闇が深まる皇居の内堀沿い出ると、西側から東側へと向かってゆっくりと歩き始めた。以前の面影などどこにも見当らないお堀周辺の空しい光景そのままに、彼の心中もまた空虚なことこのうえなかった。だからその足取りは当然のように重々しかった。

ちょうどその時であった。東の空が急に明るくなったかと思うと、ひときわ大きな月影が地平線の向こうから姿を現わし、徐々にその明るさを増し始めた。たまたまのことではあったが、それはなんとも見事な満月であった。あたりの街灯なども大半は壊れて機能せず、日が暮れると東京の街全体がずいぶんと暗くなってしまう有様だったので、焼け野原と化した無残な首都の夜を照らし出す月光はそのぶんいっそう青くそして明るかった。

その月光は、まるで何事かを静かに語りかけでもするかのように、深々と石田の心の奥底にまで差し込んできた。そして、その光に促されでもするかのようにして彼の口からは自然とある有名な曲の冒頭の歌詞が流れ出た。「春高楼の花の宴、めぐる盃影さして……」――それは言わずと知れた滝廉太郎作曲、土井晩翠作詞の名曲「荒城の月」の一節であった。その時のその場の状況にそれ以上相応しいものはない無二の名曲を高らかに口ずさみながら、石田はしばし己の置かれている厳しい状況をも忘れ、高さを増すに連れていっそう煌々と冴えわたり始めた望月に向かって憑かれたように歩を進めた。

すると、まるでそんな彼の動きに合わせでもするかのように、月光を背にして反対側からゆっくりとこちらへ近づいてくるひとつの人影が目にとまった。誰もまわりにいないのをいいことに荒城の月を高唱していた彼は、それまでの歌声を呟くような小声へと低めた。ところがなんという偶然だったろう、徐々に大きな黒い影となって近づいてくるその人物もまた実に朗々とした声で「荒城の月」を謳歌していたのである。彼は一瞬我が耳を疑ったのだが、相手の人物が口ずさんでいるのはまぎれもなく自分とおなじ「荒城の月」であった。ただなんとも奇妙なことに、その歌詞の発声にはわずかだがどことなく不自然なところがあるような気がしてならなかった。

それからほどなく、運命の糸に導かれるようにして彼ら二人は月下の皇居前お堀端において劇的な対面をすることになった。それはまた、日本の名曲「荒城の月」が取り結ぶなんとも不可思議な縁でもあった。時に昭和21年9月13日金曜日、奇しくもそれは石田がおのれの人生の特異日と称する「13日の金曜日」のことであった。

互いに足をとめ向かい合った二人はどちらからともなく声をかけ合った。

「今晩は…、いい月ですね」

「コンバンハ、ソウデスネェ、イイオツキサマデースネェ!」

「荒城の月を歌ってらしたようですが、実は僕も同じ曲を口ずさんでいたんですよ」

「ソウデシタカ……、ソレハグーゼンデスネ。デモ、コウジョウノツキハ、ホントニ、ステキーナ、キョクデスヨネ」

終戦直後のこととあって、たとえ皇居前あたりとはいえども照明らしいものはほとんどなかった。しかもその人物は明るい月光を背にし黒い影となって立っていたので、すぐにはその姿をはっきりと確認することはできなかった。しかし、耳にする相手の言葉の語調や抑揚にはどことなく日本人離れしたところがあったので、石田はこの時にいたってようやく相手が外国人であることに気がついたのだった。

「いやあ、驚きましたよ。外国の方だったんですね。でも、それにしては日本語もお上手ですし、荒城の月のメロディーばかりでなく、歌詞までご存知だなんて……」

「ワタシハ、センゼンニホンニイテ、ダイガクナドデ、ガクセイヲオシエタリシテイタコトガアリマシタ」

「そうだったんですか。どうりで日本語が……」

「センソウチュウニ、イチド、ボコクニ、キョウセイソウカンサレマシタガ、ニホンガダイスキナノデ、センソウガオワルトスグマタ、ニホンニヤッテキマシタ。シゴトノカンケイデ、ナンドモ、ボコクトノアイダヲ、オウフクシテイマス」

「お国はどちらなんですか?」

「イギリスデス。ワタシハ、イギリスジンデス」

相手がイギリス人とわかった石田は、内心会話を英語に切換えたいと思ったが、その気持ちをいったん抑え、そのまま日本語で話しかけ続けた。

「でも、ほんとうに荒城の月の曲がぴったりの状況ですねえ。満月の夜といい、皇居前のお堀端といい、焼け野原と化した東京の街並といい……」

二人がそんな会話を交わすうちにも東の空の月影はどんどんとその高度を増していった。そして、そんな石田の言葉に促されるようにして、中年のその大柄な人物が背後の満月のほうを振り返ろうとした瞬間、丸ブチ眼鏡が月光を弾いてキラリと光った。

「タキ・レンタロウノキョク、ワタシハダイスキデス。イギリスジンデスケレドモ、トクニ、コノ、コウジョウノツキハ、スバラシイトオモイマスヨ……。ツチイバンスイノ、サクシモホントウニ、ステキデスシネェ」

そんな会話が一段落すると、石田は思い切って日本における相手の仕事を尋ねてみた。その人物がイギリス人とわかったため、心のどこかに何かしらの展開を望む気持ちがそれとなく生じてきてはいたのかもしれないが、だからといって、相手に特別な期待をかけたりしていたわけではなかった。

「それじゃ、現在はまたどこかの大学で教えていらっしゃるのですか?」

「イイエ、ソウデハアリマセン。イマ、ワタシハ、イギリスノBBCホウソウ、カイガイブモンノ、キョクトウソウシハイニンヲ、ツトメテイマス。ナマエハ、ジョン・モリス、トイイマス」

相手の返答を耳にした途端、反射的に石田の口からは英語が飛び出した。

「Oh, you are General-manager of the Far East Branch of BBC External Service! Nice to meet you! My name is Tatsuo Ishida. I’m very surprised to know you are such a important person.」

「Surprising! You are a very good English speaker, aren’t you?」

BBC放送海外サービス極東部門総支配人ジョン・モリスと名乗ったその人物のほうも、予期せぬ石田の流暢な英語を耳にして、そう驚きの声をあげた。そして、そんな不可思議な出逢いに興じる二人の姿を遥かな天空をゆく煌々とした月影だけがひとり静かに見下ろしていた。

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