ある奇人の生涯

88. 日本語部は有名人旅行ビューロウ?

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

前年の9月にサンフランシスコで調印された対日講和条約がこの年の4月に正式発効し、日本は独立国として国際的に承認されるようになった。そして、それにともない日本人の海外渡航の自由も認められるようになった。ただそうはいっても、現実にはさまざまな国内的規制もあり高額な費用もかかる渡英などは、日本の一般庶民にとっては文字通りの高根の花なのであった。それでも、当時の流行作家をはじめとする民間有名文化人らは、なにかと機会をつくってはイギリスを訪れるようになってきた。彼ら文化人の間ではイギリスを訪ねることが一種のステータス・シンボルだと考えられるようになってきているらしかった。

日本の独立にともない日本大使館も本格的な業務に入ることになったが、まだその組織活動は十分に機能していなかったし、またそれだけの人的あるいは経済的な余力もない状態であった。そこで、文化人ら民間の訪英者はロンドンに着くとすぐにBBC日本語部に現れ、案内を請うたり情報提供を求めたりするのが常であった。そのため、ほどなくしてBBC日本語部はさながら日本人渡英者の旅行ビューロウと化し、次から次に訪れる日本各界の有名人であふれかえるようになった。

日本人初のノーベル賞受賞者、湯川秀樹がBBC日本語部を訪ねてきたのもこの頃だった。もちろん湯川秀樹は英語に不自由はなかったので通訳の必要などはなかったが、それでもロンドン市内のあちこちを案内して歩いたりはした。湯川はまた、日曜対談や著名人によるトーク番組などにも登場し、その声は電波にのって日本のBBC放送ファンのもとへと送り届けられた。石田が科学系の知識をほとんど持ち合わせていなかったことも一因だったのかもしれないし、また世界的な物理学者に対し無言の敬意をはらっていたせいであったのかもしれないが、正直なところ湯川との会話は終始どこかギクシャクしていて、のちのちまで記憶に残るような、これという想い出をつくることはできなかった。ただそれでも、湯川秀樹という世紀の天才物理学者と直に言葉を交わすことができたのは、石田にとって光栄このうえないことであった。

この年には、湯川秀樹に続き、久保田万太郎、小松清、芹沢光冶良、石川達三、池島信平、三島由紀夫といった面々が次々とBBC日本語部を訪れ、湯川同様に日本向け放送に登場した。日本から遠く離れた異国の放送局のスタジオから本国に向かってメッセージを送るというのは、日本国内の放送局でマイクに向かって話すのとは一味違うらしく、意外な緊張をみせたり、逆に想像していた以上に力み興じたりする彼らの姿は、そばで見ている者にとってなんとも興味深いかぎりであった。石田、神谷、岩間、ミセス・クラーク、アラブ・エミコらは時間のある者が交代で彼らの世話をし、ロンドン市内の名所をガイドしてまわりもした。もっとも、それらの人物たちの訪英はまだほんの序の口で、エリザベス女王の戴冠式の催されたその翌年における文化人ラッシュの先駆けとでもいうべきものにすぎなかった。

石田はダウニング街十番地の首相官邸周辺に遠来の客人を案内したりすることもあった。首相官邸のあるダウニング街はハイドパークの裏手にあたっており、バッキンガム宮殿からも英国議事堂からも近いところに位置していた。外から見るかぎりではごく普通の大きさの家で、入口には「ダウニング街十番地」と記された小さなプレートが一個それとなく掛かっているだけだった。「首相官邸」などという仰々しい表示などはどこを探しても見当らなかった。もちろん、イギリス人なら、ダウニング街十番地と聞いただけでそこは首相官邸だとわかるからではあったのかもしれないけれど、その簡素なたたずまいはいかにもイギリス的で、案内された客人らはごく自然な官邸周辺の雰囲気を目にして異口同音に驚きの声をあげるのだった。

4月のレガッタ・シーズンになると、石田は恒例となっているオックスフォード大とケンブリッジ大の対抗ボートレースの実況放送を担当したりもした。ただ、現在とは違って複数箇所に中継ポイントを設けて実況放送をおこなうというわけにもいかなかったから、予想外の珍事態が生じたりもした。この年の実況放送をおこなうにあたって、石田はゴール地点のすぐそばではなく、そのすこし手前にあるハマーシス橋上を中継場所に選んだ。そのほうが懸命にボートを漕ぐボートマンらの様子を活きいきと描き伝えることができるし、細かなボートの動きなどを把握するにも好都合だと判断したからであった。

予定通りハマーシス橋の上に立ち、マイクを握った石田は、メガフォンをもつコックスの指示に従って一糸乱れぬ鮮やかなオール捌きをみせつつ近づいてくる二隻のボートの様子を感動的に伝えようと勇み立った。

「青春真っ只中の若者たちが、それぞれのボートに全身全霊を委ね、渾身の力を込めてオールを漕ぎながら激しい戦いを繰り広げています。見事なまでに統一されたクルーのオール捌き、鋭く水面を切り分けながらも、まるでミズスマシかなにかのように水上を滑り進む2隻のボート、そしてその様子を熱狂しながら眺めやる観客たち、本場のボートレースは何度目にしても素晴らしいの一語に尽きます」

この日のレースは大接戦だった。2隻のボートが舳先を並べてハマーシス橋の真下に近づいてくるにつれて石田のアナウンスにもおのずから力が入った。

「ぐんぐんと眼下に2隻のボートが接近してきています。文字通りの大接戦です。リズムをとるコックスの声が高らかに響いています。オックスフォードかケンブリッジか、第98回目にあたる今年の対抗レースは大変なことになっています。どちらが勝つのか最後まで予断を許しません。いまボートはちょうど眼下に差し掛かりました。顔を真っ赤にし、全身の筋肉という筋肉を極限まで酷使しながら、彼らは懸命にオールを引いています。あっ、いまボートは橋の真下に入り見えなくなってしまいました」

そこで石田は大急ぎで橋の上流側に移動し、既に橋をくぐり抜けゴール方面に向かって突き進むボートの姿を追いかけた。

「両校のボートは私の立つハマーシス橋の下を通過し、ゴール地点目指してラストスパートをかけはじめたところです。さあ、どちらが勝つのか、状況はまったく互角、その差はほとんどありません。いま私は2隻のボートを真後ろから眺めながら戦況をお伝えしているのですが、どちらが先行しているのかまったく判別できません」

半ば興奮気味にそこまで喋り終えたあと、石田は思わぬ誤算に気がついた。しかしながら、もはやどうすることもできなかった。やむなくして彼はそのままマイクに向かい続けた。

「あっ!、いま2隻のボートはほとんど同時にゴールした模様です。どちらが勝ったかわかりません。残念ながらオックスフォードが勝ったのかケンブリッジが勝ったのかこの位置からはよくわかりません。いまからゴール近くの地点まで移動し、状況を確認したうえで、のちほど結果をあらためてお伝えします。放送時間内に状況が判明しない場合には、明日の番組で勝敗をお伝えすることに致します」

尻切れトンボの実況中継になってしまい、なんとも格好のつかないことときたらこのうえなかった。

この年取材に出かけたファンボローの航空ショウはとても興味深いものだった。日本や中国においてももちろん飛行機は何度か目にしていたし、上海の日本海軍府で翻訳要員として働いていた頃、海軍機に乗せてもらい飛行を体験したこともあった。しかしながら、それは飛行機によるショウを楽しむというような状況からは程遠いものだった。その点、ファンボローの航空ショウはたいへん楽しいものであった。戦争が終わり、世界中がいよいよ本格的な民間航空機の時代に向かおうとする頃のことでもあったから、その航空ショウの評判はなかなかのものだった。飛行機の開発や製造そのものを禁止されてしまっていた当時の敗戦国の日本などでは、そんな航空ショウを目にすることなど思いもよらぬことだったから、もともと好奇心旺盛な石田の胸は期待で弾まんばかりだった。

象の飛行ショウという催し物などは大人にも子供にも大人気だった。現代のそれからしてみればたわいもないシロモノだったが、当時としてはまだまだ物珍しいショウであった。象の飛行ショウというから実物の象に人工の翼でも取り付け空中を飛ばせてみせるのかとも思ったが、さすがにそうではなかった。ヘリコプターの外側を巨大な象の縫いぐるみみたいものですっぽりと覆い、ヘリコプターがローターを回転しながら空中に浮上すると、ブラリブラリと大きな鼻や尻尾が揺れ動いたり、手足がゆっくりと前後したり、ときどきブオーッという象の鳴き声に擬した音が聞こえたりというものだった。それまで石田はヘリコプターというものをまのあたりにしたことがなかったから、それが空中で見事な静止姿勢をとるのを眺めては妙に感嘆する有様だった。

戦時中、ロボット爆弾やV1号ロケットを迎撃したことでしられるイギリスの名戦闘機スピッツ・ファイアによる実演飛行ショウも感動的だった。宙返りやキリモミ飛行、編隊曲芸飛行など、エンジン音を高らかに響かせながら大空に舞う戦闘機の一大ショウは、もともとそれが戦争の道具であることを忘れさせてしまうほどに素晴らしいものだった。

また、この年の航空ショウでの最大の収穫は新たに開発されたばかりのコメット機に試乗させてもらえたことだった。欧州生まれの名機として一世を風靡することになったこの新開発機の試乗を、石田は日本人としてはおそらく最初に体験した人物となった。その翌年の4月4日には東京羽田空港に向けてコメット機の初飛行がおこなわれ、その出発前後の様子が石田らによって実況放送された。また、それを記念したBOAC会長との対談放送やインタビュー放送などもおこなわれた。

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