見方によってはおそろしく弁舌巧みな煽動政治家でもあったチャーチルは、政府、なかでも自分の意のままに動こうとしないBBCを一刻もはやく廃止すべきだと提唱していた。そんなチャーチルと自己理念にそったBBCの放送体制の確立を目指そうとするリースとが直接に対面したのは、ジェネラルストライキの最中のことであった。その時が初対面であったにもかかわらず、二人は終始激論を交わし続けた。それでもチャーチルが別れ際に「かつて西部戦線で重傷を負われたとうかがっておりますが……」と挨拶を送ると、すかさずリースは「大丈夫です。おかげさまで人様のご厄介にはなることなく、これまでなんとかやってきております」と返答し、暗に政府のBBCに対する干渉を皮肉った。
けれども、リースはチャーチルとのそんな対立にもかかわらず、その後もチャーチルをBBCから締出すようなことはしなかった。そこがリースのリースたるゆえんでもあった。彼は、「すぐれた人物はしょっちゅう話題にのぼり、善悪両面で議論の的になるものなのだ。民衆は毒にも薬にもならぬような没個性的な人物の話などではなく、チャーチルのような強烈な個性をもつ人物の話を聴きたがっているものなのだ」と公言してはばからなかった。もちろん、独断的ともいえるリースのそのようなやりかたに対してBBCの経営委員会から厳しい批判が寄せられることもあり、同委員会の一部有力メンバーと対立することもしばしばだった。しかし、そこでも彼はけっして自分の方針を曲げようとはしなかった。
1932年にBBC経営委員になったハミルトン夫人は、その回顧録において、「リースはきわめておもしろい人物であった。彼は実現すべき民主的な目標のもつ意義を固く信じてはいたが、民主的な方法というものの有効な機能を信じてはいなかった。頭の回転ははやくて鋭く、その意志も強固そのものであった。彼の体内には常に炎が燃え盛っており、大業を成し遂げるに不可欠な何物かの存在が感じられたが、その反面、短気で苛立ちやすく、他人とうまく協調したり協力し合ったりすることは下手であった。私がBBCの経営委員を務めていた期間、委員たちの誰もがリース会長のことを議論したりすることばかりに時間を費やし、放送内容や放送運営のありかたそのものについて話し合うことがほとんどなかったのは、いまから考えるとなんとも残念でならない。しかしながら、裏を返せば、それほどにリースという人物は個性的な存在であったのだ」とリース会長のことを評しもした。
リースをはじめとするBBC関係者の尽力が実り、1932年にはイギリス国会での公の票決に基づき、「政治的あるいは社会的に論争となるような内容の番組をBBCが放送する権利を保証する。ただし、放送に登場する発言者と放送テーマの選択には最大限の注意を払うように努めなければならない」ということが承認された。この決定に力を得たリースは報道番組のいっそうの強化をはかることにしたが、この頃になるとニュース報道の制限や新聞社などに法外なニュース提供料を支払うといったような制度はおのずから消滅してしまっていた。すでに、大きな国際会議の開会式や閉会式を中継放送することは恒例化していたし、英王室関係者などがBBCの番組に登場することも珍しくなくなってきていた。
BBC初の海外放送がおこなわれたのはこの年の12月下旬のことであった。それはオーストラリアやニュージーランドをはじめとするイギリスの海外領土に住む国民を対象にした英語放送で、そのための関係スタッフはわずか4人にすぎなかった。年末の慌しい時期に初の海外放送がおこなわれる運びになったのは、劇的な盛り上がりを狙ったリースらBBC関係者一同の思惑がはたらいていたからだった。毎年クリスマスには国王が国民に向かってラジオでメッセージを送るという習慣が定着してもう久しくなっていたが、BBCはこの年の国王のクリスマス・メッセージをイギリス本土以外のところに住む英国民にも聴いてもらえるようにしようと考えたのであった。
国王ジョージ五世はこの初の海外向け放送において、「現代科学のすばらしい発達とその成果のおかげで、私はおめでたいクリスマスのこの日に大英帝国のすべての国民に向かってお話しすることができるようになりました。空中からの声のほかには届くものとてないような、積雪や砂漠さらにはまた海洋に隔てられた帝国内の諸地域に住む国民の皆さんにさえも、私はいまこうして自室に居ながらにして心からのメッセージをお送りすることができるのです」と語りかけた。
事実上独占放送をおこなっていたBBCはイギリス国内でこそ安穏としておられたが、国外、とくに英国領土外の地域においてはその影響力という点でたいへん厳しい状況に立たされるようになってきていた。BBCが海外放送を始めるよりもずっとはやくから、ソヴィエトやナチス・ドイツなどは、「国境を越える紙のない新聞」としての国際放送の重要性を認識し、国家宣伝活動の強力な武器にしようとしてその拡大に力を注ぐようになっていた。そんな流れに乗って1935年になると枢軸国のひとつイタリアはエチオピア侵略を正当化する強力な宣伝活動の手段として特別に海外放送の基地を設けた。そしてそこでパレスチナやエジプトなどイギリスの権益と大きくからむ中近東地域に向けてアラビア語放送を開始し、同地方におけるイギリスの極悪非道ぶりを喧伝しはじめた。
さらに1938年になるとゲッベルス宣伝相の指導のもと、ナチス・ドイツはそれまでにもまして毒々しい対外宣伝放送をおこなうようになった。当然ヒットラー自身もまた国際的な宣伝活動は国家社会主義推進にとって不可欠なものであり、白兵戦の直前の砲爆撃にも相当する重要な戦術であると認識していた。ナチスはラテン・アメリカなどをはじめとする世界各地の放送局を買収し、ボリシェヴィキー支配下のソ連と資本主義財閥支配下の西ヨーロッパ諸国を激烈かつ言葉巧みに攻撃した。実際、その宣伝放送は一時的にはたいへん大きな成果をあげた。
ドイツやイタリアによる激しい宣伝放送攻勢に対抗するために、イギリスはまず中近東向けのアラビア語放送をおこなう必要に迫られることになった。そのため、当初、英国政府は外務省傘下に独自の宣伝放送組織を誕生させ、そこを通じてアラブ世界に向けてアラビア語放送をおこなおうと考えた。しかしながら、リースはアラビア語放送実施に必要な能力をもちそなえているのはBBCだけだと強硬に主張し、頑としてその立場を譲ろうとはしなかった。BBCの幹部のなかには、英語以外の言語による放送をすれば大英帝国の団結が弱まると懸念する者もあったし、外国向け放送は単なる国家宣伝に堕し、BBCに対する信頼を損なうことになるという理由でアラビア語放送に反対する者も現れたりもしたが、彼はそんな内部の意見をも一蹴した。
結局、リースの主張通り、BBC内にアラビア語放送部門が設けられることになったのだが、当時の英国外務省情報局長は、アラビア語放送のニュースにかぎってはイギリスに有利なものだけを選別し、自国にとって好ましくないものは排除しようと考えた。しかしリースはその方針に猛反対し、「BBCは国内放送においてと同様にアラビア語放送においても政府の支配から独立していなければならない。真実を伝えしかも様々な思想や立場、主義主張に対し包容力のある放送のみが権威をもつに値する」と主張し、外務省の考えを抑え込んだ。BBC海外放送ののちのちの栄光はこの時の彼の毅然とした態度に負うところが大きいといってよい。
その年のアラビア語放送開始からまもなく、BBC海外放送の編集権の独立が証明されるような出来事が起った。BBC国内サービスのニュースをアラビア語に翻訳したものが放送されたのであるが、そのなかに「反英暴動が起った際、イギリス軍当局が小銃と弾薬を所持していたという理由だけでパレスチナ人の一人を死刑に処した」という内容のものがあった。外務省の立場からすればそれは真っ先に排除されるべきニュースであったから、当然BBCに対して苦情が呈されもしたが、BBCは毅然とした態度を貫きそんな政府筋からの抗議に怯むようなことはなかった。ある英国の歴史家などは、「大胆かつ率直なやりかたで真実を告げることによって、BBCは開設したばかりのアラビア語放送においてのちのちの信用にもつながる一石を投じ、自らの理念の高さを示しておきたかったのだろう」とその対応を評価したくらいだった。
この年のうちにラテン・アメリカに向けてスペイン語放送とポルトガル語放送とがおこなわれるようにもなった。もちろん、ナチス・ドイツのラテン・アメリカ向け宣伝放送に対抗したいというイギリス政府の思惑もはたらいたうえでのことではあったが、むろんここでもリース指揮下のBBC海外放送部は極力公正中立の方針を守り通した。そして、ファシズムの脅威が日毎に強まりつつあるヨーロッパ本土に向けて真実かつ客観的なニュースを伝えることを目指して、やはりこの年の終わりまでには、フランス語、ドイツ語、イタリア語による放送も実施されるようになった。
BBC外国語放送がおこなわれるようになったこの年の6月半ばのこと、現在の英国航空の前身である帝国航空の会長を引き受けてもらえないかという話が当時の首相チェンバレンの側近を通してリースのところへと持ち込まれた。BBCの時事解説におけるチェンバレン批判があまりにも厳しいので、心象を害した首相サイドがリースをBBCから引き離すために一策を講じた結果だともいわれているが、ことの真相はいまとなっては不明である。ともかくも、リースはその要請を受け入れることを決断し、BBCの経営委員会にその旨を報告した。経営委員一同は突然のことにショックをうけ、帝国航空会長とBBC会長との兼任はどうかとか、ノーマン経営委員長の後任を務めるのはどうかとかいった善後策をもちかけた。
帝国航空の会長は他の事業の役職兼任が禁じられているためBBCの会長にそのまま留まることは不可能であるが、BBCの経営委員長を兼任するという話のほうは帝国航空側の内規がゆるめられるなら可能かもしれないとリースは答えた。それからしばらく経った6月29日のこと、BBCの経営委員会はリースの後任会長を決める会議を開いた。後任者を決定するにあたってはリースにも隣席してもらったほうがよいのではないかという意見も出されたが、結局会議はそのまま続行され、彼の知らない間に後任会長が選定された。
ノーマン委員長からその報告を受けたリースは激怒した。そして直ちにチェンバレン首相に電話をかけると、BBCの経営委員に就任する気持ちはまったくなくなってしまったと告げた。そして、自分の秘書に自宅にすえつけてあるBBCの特別な受信機をすぐさま撤去するようにと命じた。自分のために送別セレモニーのようなものが催されることを潔しとしなかったリースは、その日の夕方ひとり静かにBBC本部局社を退出した。そして、二、三人のごく親しい友人とともに車でドロイトウイッチにあるBBCの送信所に出向くと、深夜放送終了時に自らの手で送信機と発電機のスイッチを切断させてもらった。BBCに入社する前の一技師としての彼の姿がそこにはあった。
そのあとリースは訪問者名簿に自分の名前を記載した――J・C・W・リース、元BBC職員――彼なりの美学あってのことだったのだろう、「元BBC会長」などとは記さなかった。それから10年以上の間、リースはBBC関係の建物の中にいっさい立ち入ろうとはしなかった。むろん、ひとつには、自分が去ったあと新たな指導者のもとでいっそうの発展を目指すであろうBBCに直接間接の影響を与えることを避けようとする配慮があったからで、単に会長退任時の経営委員会の不手際に対する怒りが原因だったわけではなかった。リースの退任後、BBCにおいては彼が会長であった当時は実施できなかった組織上および番組編成上の大改革がおこなわれたが、リースによって確立された「権力におもねらぬ、しかし真の権威をそなえたBBC」という基本理念は微動だにすることはなかった。
1940年リースは男爵の爵位を授けられ、戦中と戦後において何度も大臣の椅子についた。身分と格式の厳しい英国社会において自らの手で道を切り開きそれ相応の栄誉をうけたリースであったが、強固な信念をもつ人間の常として終世彼は孤独であったし、当然、その政敵となった人物もすくなくなかった。のちにイギリスの英雄となったウインストン・チャーチルが他界したとき、公共の建物はみな半旗を掲げ、英国中の新聞がすでに伝説ともなっていたその偉大な業績を称える記事を載せ、その死を悼み悲しんだ。ところが、それら一連の記事のなかにただひとつだけ例外的な発言が載せられていた。それは「チャーチルの悪影響がイギリスから消え去るまでには今後百年はかかるだろう」というものであったが、いうまでもなく、そのコメントの主はリースその人であった。
リースのコメントにも一理はあったし、勇気をもって真実を語ることをモットーにして生き抜いた彼らしい意見でもあったが、国葬が催されたほどの国民的英雄の死に際しわざわざそんな発言をしなくてもよいだろうと批判する者もすくなくなかった。リースの死後、その生前の風評を訊ねられた人々の中に、「ああ、リース男爵ですか、あのBBCの……。1971年に亡くなりましたが、昔からひどく評判の悪い人でしたよね!」といったような感想を述べる者がすくなくなかったのももっともなことだったのかもしれない。
ザ・タイムズ紙はリース送る一文のなかで、「イギリス国民はリース卿の並外れた頑固さにも感謝しなければならない」と書いたのであるが、確かに、善くも悪しくもその頑迷なまでの信念がなかったならばBBCはまったく異なる方向へと押し流されてしまっていたのかもしれない。すくなくとも、世界の良心として称えられもする現在のその地位を確立することはできなかったに違いない。