ある奇人の生涯

65. BBC日本語部オフィス

ジョン・モリスに教わったとおりにストランド・ストリートを横切り、サリー・ストリートという細い街路をテームズ川方向に下っていくと、ほどなく3階建ての小さなビルの前に出た。それが目指す建物に間違いないことを確かめると、石田はおもむろにそのビルの中にはいり、石造りの狭い階段を最上階へとのぼりつめていった。

ビル三階の奥のほうにはBBC日本語部がオフィスとして使用している部屋が3室あった。「ご用の方はこちらに」という意味の英文表示のある部屋のドアを軽くノックするとすぐに秘書が現れた。そして、来訪者が石田だということがわかると、ただちに一番奥のレゲット部長の執務室へと案内してくれた。

通された部屋の奥で待っていてくれたのは、身長176センチの石田より背丈も体格も一回り大きく、しかも見るからに頑強そうな人物だった。長く大きないわゆる馬面の顔面上部3分の1ほどを広い額が占め、長く突き出た下顎をもつその人物は、意志の強さを感じさせる眉毛の下の両目を細めながら、静かにしかし心から温かく新人の石田を迎え入れてくれた。その髪の毛は生来のものなのだろうか銀髪に近い色をしていた。もちろん、それがトレバー・レゲット日本語部長だった。

「はじめまして……、このたびBBC放送日本語部に勤務するため日本からやってまいりました石田達夫です。海外部門ゼネラル・マネージャーのジョン・モリスさんの指示にしたがってこちらに伺いました。よろしくお願い致します」

石田はそう言いながらレゲット部長のほうへ近づくと、右手を軽く差し出した。

「ようこそロンドンへ……。私が日本語部長のトレバー・レゲットです。我々BBC日本語部員一同はあなたの到来を心から歓迎致します」

そんな鄭重な言葉とともに差し出された相手の手は、小ぶりのバナナの房を連想させるほどにがっしりとして大きかった。その手を握る石田の指先と掌に、レゲット部長の真心が目には見えない流れとなってじわじわと伝わってきた。大の知日家で当時すでに講道館柔道の高段者でもあったこの人物の風格は、そう歳の違わないはずの石田をすくなからず驚嘆させた。レゲットが1914年生まれであるのに対し石田のほうは1916年生まれだったから、レゲットが2歳年長であるだけで、ほぼ同世代だといってよかった。だが、石田には相手が自分よりもずっと年長で、しかも知的にも人格的にも数段大きな存在であるように感じられてならなかった。まだ若く、ずいぶんと鼻っ柱も強かった石田が素直にそんなおもいを抱くなどたいへん珍しいことでもあった。

互いに簡単な自己紹介を終えると、レゲット部長は他のスタッフの紹介や業務内容の説明にとりかかった。

「いまこの日本語部には7人の正規スタッフがいます。まず私、そして秘書のドロシー・ブリトン、カニンガム、デイヴィス、ミセス・クラーク、山本二三一、アラブえみ子の7人です。そのほかにオケージョナル・コントリビューター(臨時に仕事に協力してもらうアルバイト的スタッフ)が何人かいまず」

「そうですか。それで、それぞれの方はどのような業務を担当なさっているのでしょう?」

「ドロシーは私の秘書で、各種渉外業務や事務処理、BBC本部と連絡業務、日本語放送遂行に欠かせない日本関係者との折衝などにあたってもらってます。彼女はイギリス人ですが、日本語を学んだことがあり、日本文を理解することはできます」

レゲット部長はそう言いながら、さきほど石田を案内してくれた知的な女性秘書をあらためて紹介してくれた。

「さきほどお伝えしましたように、このたび日本からやってきた石田達夫です。明日から日本語部のスタッフとして勤務させていただきます」

石田が手短に英語でそう話しかけると、彼女はいささかはにかみ気味に、それでも精一杯の親しみを込め、日本語で挨拶を返してきた。

「ハジメマシテ、イシダサン、BBCニ、ヨウコソ、イラッシャイマシタ。ワタシ、ドロシー・ブリトンデス!」

いささかたどたどしい響きではあったが、石田にすれば、東京を離れて以来はじめて耳にする懐かしい日本語であった。当時はドロシー・ブリトンもまだ若かったが、作曲家、随筆家としての才能をもそなえていたこの女性は、のちに黒柳徹子著「窓際のトットちゃん」の英語版翻訳者となったほか、その他いくつかの日本文学作品の翻訳にも従事するようになった人物だった。

レゲット部長の執務室の隣室を秘書のドロシーとともに使用しているアラブえみ子は、生憎この時はたまたま取材に出ていて不在であった。レゲット部長は、彼女が「ミュージック・アルバム」というディスク・ジョッキー番組を担当し、英国のポップス界の最新情報や日本では知られていないイギリス民謡などの紹介に携わっていることを説明してくれた。ほどなく石田も親しくなったこの快活な女性が日本語部の正規スタッフに就任したのはこの年のはじめのことで、彼女はBBCでは石田のすこしだけ先輩にあたっていた。

イギリス人を父に日本人を母にもつアラブえみ子は横浜で生まれた。幼児期から英語を使う家庭環境で育ち在日欧米人子女の通う学校で学んでいたので、彼女の日本語にはいくらか特有の訛りがあった。ただ、黒髪をしたその容姿は母親ゆずりだったこともあって通常の日本人に間違えられることもすくなくなかった。そのため、ショート・パンツをはいて自転車などに乗ったりしていると、「この日支事変下の重大な時局においてなんたる非国民的有様か!」と警察官に怒鳴られたりすることもしばしばだったと、のちのち石田に語ってもくれた。

太平洋戦争開戦前に一家は日本から引き揚げ、開戦後は東南アジアにあったラジオ局の対日宣伝放送のアナウンサーとして起用された。終戦後もしばらくシンガポールなどでアナウンサーを務め、1946年末にイギリスに帰国してから2年ほどニュース原稿のタイピストとして働いたあと、BBC日本語部に本採用された。アラブというのは結婚後の姓であったが、父方の旧姓は日本人には発音しづらいものだったとかで、のちに離婚してからもアラブ姓を名乗っていた。優しくて度量の大きかった彼女は、イギリスに着いたばかりでロンドンの生活に不慣れな石田の面倒をなにかとみてくれたばかりでなく、戦後にBBC日本語部を頼って訪英する公私さまざまな日本人たちを世話するために奔走した。

カニンガムとデイヴィスの役割についてもレゲット部長から簡単な説明があった。通常一日交替で出勤しているという彼ら2人の任務は言語監修とスイッチ・センサーと呼ばれる特別な仕事をおこなうことだとの話だった。この日はカニンガムの担当だったが、彼は真剣な表情で忙しそうに原稿に目を通している最中だったので、お互い軽く握手し会釈を交わす程度で初対面の挨拶をすませた。

その頃のBBCの外国語放送においては、BBC本局が随時構成編集した英文ニュース原稿や各国語部門のスタッフが個別に現地取材し収集作成した文化記事原稿などをそれぞれの言語に翻訳、そうやってつくられた放送原稿を当日のアナウンス担当者がマイクに向かって読み上げていた。カニンガムやデイヴィスの仕事は仕上がった日本語原稿内容が正確かつ適切なものかを最終的に監修することであった。また、実際の放送現場に立会い、その日の担当者が放送原稿にそった正しいアナウンスをおこなっているかどうかをモニターし、不適切だとおもわれるアナウンスがあったり不手際が生じたりした場合に直ちにマイクのスイッチを切るのも彼らの任務になっていた。この言語監修やスイッチ・センサーの仕事は必ずイギリス人スタッフが担当した。もちろん、それは、BBCの理念に反するような思惑がらみの発言や恣意的なアナウンスが外国人スタッフによってなされるのを防ぐためであった。

レゲット部長は時々軽いジョークを交えながらそんな彼らの仕事の内容についても一通り石田に説明してくれた。そして、いたずらっぽくウインクしながら、「カニンガムはあれでいてなかなかうるさいですよ。でもまあ根はとても真面目でいい男ですから……」と耳元で囁くように言った。あとになって石田にもわかったことだが、レゲット部長がそのような言い方をしたのにはそれなりの理由があった。

カニンガムは英国大使館の元参事官だったから実際日本語はよくできた。だが、それだけに、スタッフが仕上げた英文ニュースなどの日本文翻訳原稿に対する彼のチェックは厳格そのものであった。のちに実務に就くようになってから石田もカニンガムの原稿チェックぶりにはしばしば困惑したり往生したりすることもすくなくなかったが、裏を返せばBBCの信用を損なわぬためにそこまで放送内容に責任をもとうという優れた報道者特有の姿勢の現れでもあったから、その生真面目さを笑ってやりすごすわけにもいかなかった。

石田がBBCにやってくる3年前の1946年、英国首相ウインストン・チャーチルは、その演説において有名な「iron curtain」という彼独特の造語を用い、緊迫した東西対立の実情を印象深く表現した。この造語を当時の日本語部スタッフはいったん「鉄のカーテン」と翻訳したのだが、カニンガムはなまじ日本語がわかるだけに「curtain」という英語を「カーテン」と英語の発音がそのまま残るかたちで訳すことを許さなかった。彼は英単語が完全な日本語に翻訳されないままになっていることを大変嫌った。要するに日本文中にカタカナ英語が含まれることが気に入らなかったのであった。そのため彼は、「iron curtain」を「鉄幕」と訳すべきだと主張し、実際にそのように修正して放送された。もちろん、その言葉を初めて聞いた日本人たちは、それがなんのことなのかすぐには理解できなかったに違いない。幸いなことに、石田が渡英してしばらくしてから、「鉄幕」という訳語は「鉄のカーテン」という当初の訳語に戻されることになった。

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