ある奇人の生涯

77. ロンドンの夏空の下で

石田がロンドン暮らしをするようになってからまる3カ月ほどがすぎたある日のこと、BBC日本語部のオフィスに突然一本の電話がかかってきた。たまたまその電話の近くにいた石田はベルの音を聞くとすぐにその受話器をとった。

「Hello, this is BBC’s Japanese Section.」

手短かに英語でそう伝えると、「Hello, this is…」と言いかけた相手は、そのあとなにか戸惑い考え込みでもするかのようにしばし口ごもった。明かにそれはまだ若い女性の声であった。

「Hello, what’s happened to you?」

受話器の向こうの人物にあらためて石田がそう言葉を促すと、一呼吸おいてからいきなり相手はまるで予想もしていなかった一言を発した。

「タッツンでしょ?、私よ!」

なんとそれは日本語であった。自分のことをタッツアンと呼ぶのは後にも先にもただ一人の人物しか存在しないはずだった。

「えっ、なんだって!、誰かと思ったらミサなのかい?」

石田のほうも反射的に日本語でそう応答した。そんな驚きの声を耳にしたオフィスの仲間たちは皆、興味津々といった面持ちで石田のほうを眺めやった。そこに居合わせた誰もが日本語がわかるだけに、それぞれに聞き耳を立てている感じだった。

「そうよ、ミサよ、お久しぶりだわね。電話の声を聞いたとき、すぐタッツンじゃないかって思ったのよ」

「道理でなんだか変な話ぶりだと思ったよ。それで、ミサはロンドンにはいつ頃やって来たんだい?……ごく最近のこと?」

「いいえ、もうこちらに来てから2ヶ月近く経つんだけど、いろいろあって落着くまでに時間がかかってしまったの。だから、なかなかタッツアンにも連絡できなかったのよ」

「僕が日本を立つ直前に銀座で会った時、ミサもすぐにあとからイギリスに来るって聞いていたんで、そのあとどうなったのか気にはなっていたんだけどね。ただ、こちらからは連絡の取りようもなかったし……。それで御主人のネダーマン氏とのロンドンでの生活はうまくいってるのかい?」

「ご期待にそえなくって残念だけど、もちろんうまくいってるわよ。夫のネダーマンはとても穏やかな人だしね。もう間違ってもタッツアンところに転がり込むようなことはないから安心していいわ。もっとも上海でもタッツアンとことに転がりこんだことはなかったわよね。タッツアンが上海引き揚げ時まで住んでた部屋を、そのあとで私が使わせてもらうように便宜をはからってもらったことはあったけど……」

電話の向こうのミサはすぐさま昔ながらの口の悪さを発揮しはじめた。

「でもさ、今度は僕のほうがミサのところに転がり込むようなことだってあるかもしれないよ。そうならないように、いまのうちにしっかりガードを固めておいたほうがいいんじゃないかのかな?」

オフィス仲間の存在を気にしながらも石田はそう軽口を叩いた。

「家の四方がガタガタになるほどにガードを緩めておくことにするわよ。そうしたら、たとえタッツアンが転がり込んできたとしても反対側からすぐに転がり出てしまうからちょうどいいでしょう?」

久しぶりの電話にもかかわらず、二人の会話は相変わらずの調子だった。日本人の渡英がきわめて困難だった終戦直後のその時代、不可思議な運命の糸に操られるままに相次いでロンドンへと渡ってきたた2人にしてはなんとも醒めた会話であったが、実のところ、その裏に秘められたそれぞれの想いと感慨はひとしおだった。

「それで、タッツアン、BBCでの仕事は順調なのよね?」

「まあなんとか大きなミスもせずにうまくやってるよ。最近になってようやくロンドンの生活にも慣れてきたんで、へんに緊張したり周囲の人々の目を気にしたりすることはなくなってきたね。だから万事に自然体で臨むことができるようにはなってきたよ」

「自然体が聞いて呆れるわよ。もともとタッツアンは自然体の権化みたいなもんでしょうが!……そうそう、最近のあの新聞の記事読んだわ。さすがタッツアンらしいって思ったんだけど、ひとつにはそのこともあって、このぶんならそろそろコンタクトしても大丈夫かなって考えたわけなの……」

「なんだ、ミサもあの記事を読んでくれたのかい。なにせ僕は残忍で名高い日本人なんだからね。ミサだって同類なんだぞ!」

「私はネダーマンと結婚しちゃったからもうれっきとしたイギリス人なんだもん!」

「じゃ、グランド・ギニョールの残酷劇を最後まで楽しんでいたイギリスの淑女たちと同類なんだ!」

「フフフフフ……、その通りかもね。それはそうとしてね、どう?、近いうちにまた一度ゆっくり逢って話でもすることにしない?、なんだったら我が家に来てもらってもいいわよ、夫のジョンも諒解してくれていることだから……」

「うん、僕のほうはかまわないよ。でもまあ、まずはどこかのカフェあたりで逢って話すことにするかい。今度の休日あたりはどうなんだろう?」

「たぶん大丈夫だと思うわ」

「そう……、それじゃ、僕の住まいのほうの連絡先も教えるからミサのほうも連絡先を教えてくれないかい。いまはまだ仕事中だから、逢う日時や逢う場所はあらためて相談することにしようか」

「そうだわね。じゃ我が家の電話番号とアドレス教えるからちょっとメモをとってもらえるかしら」

「うん、いいよ」

そのあと二人はお互いの住まいと電話番号を伝え合い、近々の再会を約束していったん電話を切った。そのアドレスから推測するとミサ夫妻が住んでいるのはロンドン近郊の高級住宅街の一角らしかった。

北緯50から60度あたりにかけて南北にのび広がるイギリスは、緯度的にいうと北海道などよりもずっと北側に位置している。だが、ブリテン島の西岸を洗う暖流、メキシコ湾流の影響などもあって、高緯度にあるにもかかわらず気候のほうは一年を通じて比較的温暖で年間の気温較差も日本より小さい。西岸海洋性気候とも呼ばれている気候をもつイギリスの夏は6月から8月くらいの間なのだが、日本の夏ほどには暑くはない。そんなイギリスの夏の一日、石田とミサはピカデリー・サーカスの一隅にあるカフェで待ち合わせ、そこでしばらくお茶を飲みながら談笑した。

石田より1歳年長のレゲット部長と同年齢のミサはもう34歳になっていたが、淡いグリーンのスーツをスマートに着こなしたその姿は相変わらず若々しくそして魅力的だった。女盛りという言葉は眼前の彼女のためにあるのではないかと内心思いたくなるほどに、その全身から発せられる輝きには惚れぼれとするような品格が感じられた。

「それにしても、ロンドンまでやってきてまたこうしてミサと逢っているなんてねえ……」

「そうだわね、不思議としか言いようがないわ。私たちってやっぱり腐れ縁なのかしら。どちらかが一足先に天国にでもいかないかぎり縁を切るのは難しそうね」

「じゃミサは天国にいきなよ、僕のほうは地獄にいくからさ! 天国でも腐れ縁というんじゃお互いのためにならないからね」

「フフフフフ……。それはそうと、タッツアン、ロンドンでの日常的な生活にはもう慣れたの? 例の記事のこともそうだけど、日本人だっていうことでいろいろ風当たりも強いんじゃない?」

「はじめは神経質になってたけど、同じ人間じゃないかってもう開きなおっちゃったからね。それにイギリス人って一見冷淡そうに思われるけど、ほんとうはシャイなだけで皆とても温かいしね。他人の生活にあれこれ余計な干渉をしないっていうか、要するに大人なんだよね。まあ、ある程度の誤解や偏見、先の戦争が原因のちょっとした憎悪などにさらされるのは仕方のないことだから……。ミサのほうは実際のところはどうなんだい?」

「そうだわね。夫のジョンもその周囲の人たちもとても優しくしてくれるし、自分が日本人だからってとくに辛い思いをすることなんかないわ。ジョンと結婚してよかったわ」

「まあ折角こういう成り行きになったんだから、お互いイギリス暮らしを楽しむしかないもんな」

「そうだわね。今度、あらためて夫のジョンを紹介するわ。是非一度我が家に来てよ」

「うん、そうさせてもらうよ。そして、先々独身の僕がパーティに招待されることがあるときなどには、パートナーとしてミサを貸してもらえるようにお願いするさ!」

「ハハハハハ……、たぶん、ジョンはOKすると思うわよ。そのへんのところはとても寛大な人なんだから」

しばらくしてからカフェを出た二人は、散策をかねてすぐ近くのセント・ジェイムズ・パークへと向かって歩きだした。もともとは16世紀頃にヘンリー8世が狩猟場として設けたものだというセント・ジェイムズ・パークは緑に囲まれた美しい公園で、中央部には細長いかたちの池があった。その池を泳ぎまわる水鳥たちの姿を眺めたり、木陰のベンチに腰掛けてカフェでの会話の続きを楽しんだりしながら、彼らはゆっくりとセント・ジェイムズ・パークを抜け、バッキンガム宮殿のそばへと出た。

そして高々と聳え立つクイーン・ヴィクトリア・メモリアルを仰ぎやり、それから衛兵らの立つ宮殿の正面へと足を運んだ。英国王は通常パッキンガム宮殿か、さもなければロンドン郊外にあるウィンザー城で暮らしているのであるが、この日のバッキンガム宮殿のポールには国王の滞在を示す国旗が掲げられていた。

真っ赤な上着に濃紺のズボンをまとい、熊の毛でつくられた黒い帽子を深々とかぶる衛兵たちの姿を微笑ましい思いで見つめやりながら、あらためて二人はここがイギリスの地であることを確認するのだった。そんな石田とミサの間にはもはやかつてのような激しい感情の昂ぶりこそなかったが、それにかわって目には見えない一本の信頼の絆のようなものがしっかりと培かいあげられている感じだった。ほどよく寄り添って立つ彼らの後姿からはある種の超越的な雰囲気とでも言い表わすべきものが漂い流れ出ているみたいだった。

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