BBC日本語部を通しての紹介ということもあって、下宿屋のおかみは戦時中敵国であった日本出身の青年を快く受け入れてくれた。異様な目で見られるのではないかと最初は不安だった石田のほうもすぐにおかみと親しくなり、軽口を叩き合えるようになった。ひとつにはBBCという名の一種の免罪符があってのことだったのかもしれないが、あれこれと細かな詮索をされたり、私生活について干渉されたりするようなことが皆無に近かったのはイギリス社会ならではのことだともいえた。
ロンドンの様々な地域に住んでみたいという願望があったうえに、もともと引っ越し魔の資質をそなえていた石田は、5年余にわたるその後の英国生活の間に高級住宅街からイーストエンドの貧民街にいたるまで20回近くの引越しを体験した。我が国とも交戦し敗戦国となった日本は、いまではまったく新しい政治体制のもと、民主的制度にのっとった平和で自由な国つくりがおこなわれているところである。
BBCの出社時刻は午前9時であった。よほどひどい悪天候かなにかでないかぎり石田はこの下宿屋からBBC日本語部まで歩いて出社した。むろんバスなどもあるにはあったが、すこし早目に下宿屋を出て徒歩で朝のロンドン市街を抜けオフィスへと向かうのが常だった。そのほうが適度の運動にもなって健康のためにもよかったし、その日の気分に応じて通勤コースを変えることもできたから、その点でも好都合だった。
勤務しはじめてしばらくは、BBCの英文ニュース原文やその他放送に必要な英語記事などを的確な日本語に翻訳するのが彼の主な仕事となった。当時BBCの日本語放送はグリニッジ時刻の午前11時から11時30分までの30分間にわたっておこなわれていた。この時間帯は日本標準時の午後8時から8時30分の間に相当する時間帯だった。そして、通常はその30分間のうちはじめの10分から15分間はニュース放送に割り当てられ、残りの時間に各国語部門独自の文化番組が放送された。
そのため石田はオフィスに着くとすぐ11時の放送開始時刻にそなえて翻訳作業にとりかかった。仕上がった日本語訳原稿を放送が開始されるまでにイギリス人主事のカニンガムとデイヴィスが交代でチェックしなければならなかったので、翻訳作業は迅速かつ的確におこなう必要があった。ニュース文特有のちょっとした表現上のコツを呑み込み、手際よく翻訳をおこなえるようになるまでにいくらか時間はかかったが、もともと言語能力が高く日英両国語に精通していた石田にとって仕事の大筋をマスターするのはそう難しいことではなかった。
ニュースの翻訳は当直の者が分担してその処理にあたった。できあがったニュースの翻訳原稿は放送順に並べられ、それぞれの見出しを配列した一覧表がつくられた。そしてそれをイギリス人の主事、すなわち、ニュースデスクが検閲し承認がおりるとその日の放送担当者がアナウンスするという流れになっていた。石田自身もそれからほどなく担当することになった日本語部独自の文化番組のほうは、毎週きまった曜日にきまった番組が放送される仕組みになっていて、取材から英語による原文作成、日本語への翻訳、アナウンスまでのすべてを特定の担当者がひとりでおこなうのが通例になっていた。日本語のできるスタッフが直接日本語で放送原案や原文を作成するのではなく、それらを英語で作成してから日本語へと翻訳するのは、主事によるチェックの便宜をはかるためのほか英文による放送記録の保存をはかる目的もあったからだった。
いったん慣れてしまいさえすれば通常の場合とくに問題はなかったが、放送直前や放送中にビッグニュースが飛び込んできたとなると話はまったくべつであった。いつもの何倍もの速度で翻訳作業をすませたあと、日本語部オフィスビルの階段を大急ぎで駆け下り、サリーストリーの緩やかな坂道を駆けのぼってストランド通りに出、その大通りを小走りに横切ってブッシュハウスの放送スタジオへと飛び込まなければならなかった。その日のニュースの読み上げ担当者はそのビッグニュースのはじめのほうの原稿のおおまかなところを頭の中に叩き込みながらスタジオに向かって先に走り、残りの部分を追加翻訳したスタッフが原稿を手にして何分か遅れでスタジオに駆け込むという有様だった。
日本語放送の終了時刻午前11時30分が過ぎると、日本語部スタッフはオフィスを離れて自由にロンドンのあちこちを訪ね歩き、自分が担当する文化番組の取材をすることを許された。オフィスでの拘束時間は各国語部門でまちまちでその判断はその部門の部長に一任されていたが、日本語部門のレゲット部長はその点きわめて寛大あった。レゲットは、英国人の書いた様々な記事などをもとに放送原稿をまとめることも必要だが、なるべくなら自分の目や耳で実際に見聞きした事柄をもとに番組原稿を作成することが望ましいと考えていたからだった。
BBCホステルから下宿屋へと移ってしばらくしてからのこと、石田についての記事がイブニング・ニューズ紙に掲載された。BBCのオフィスでごく簡単な取材を受けただけで、実際に自分のことが新聞に詳しく紹介されるなどおよそ期待してはいなかったから、それには彼もすくなからず驚いた。そして、半ば面映い気持ちでその記事を読み進むうちに、自分の思いとはいささか異なるところがあることに気づき、内心あれあれという気持ちにならざるをえなくなった。なかでもとくに一箇所、事実とはまったく違うところがあるのを目にし、異国の事柄についての報道というもののいい加減さに甚だ呆れ果てるばかりだった。
おおまかに述べるとその記事には、「戦後初めて日本から民間人がイギリスにやってきた。彼は石田達夫という名の青年で、特別に選ばれBBC日本語部門の放送記者として勤務するために今月ロンドンに到着し、いまロンドン市内リージェントパークの近隣に一人で下宿しながら海外放送本部のあるブッシュハウスとそのそばの日本語部オフィスで働いている。我が国とも交戦し敗戦国となった日本は、いまではまったく新しい政治体制のもと、民主的制度にのっとった平和で自由な国つくりがおこなわれているところである。そんな国家の改革の一端を担う日本の放送界の将来のためにも若い放送人の育成は欠かせない。BBCはそういった日本の現在の情況を踏まえ、その青年を放送記者として迎え入れることになった。石田達夫青年は東京・京都帝国大学を卒業した大変優秀な人物でその将来を大いに嘱望されている」といったようなことが書かれていた。
石田自身はべつにNHKその他の日本の放送局に在籍していたわけでもなかったから、ほんとうのところ、BBCでいろいろと経験を積み、それによって将来すぐれた放送人になろうと思ってイギリスにやってきたわけではなかった。皇居前で偶然に当時BBC極東サービス部門のボスをつとめていたジョン・モリスと出逢い、自分の能力を高く評価してくれたモリスの好意と尽力によってBBC日本語部に招聘されたというのが実際のところであった。だからBBC日本語部のために自分の能力のかぎりを尽くそうとは決意していたが、正直なところ、将来の日本の放送界を背負う人物になろうなどとはまるで考えていなかった。もともと個人主義的な思想の持ち主だった彼にすればそんな組織のために貢献することなどまっぴらごめんだったし、そもそも自分にそんな能力があろうなどとも思われなかった。
ただ、まだそこまではよかった。問題なのは、自分が「Tokyo-Kyoto Imperial University、すなわち、東京京都帝国大学を卒業した優秀な人物である」と報じられている部分であった。こればかりは冗談ではすまされない内容だった。旧制福岡高校フランス文学科を卒業してはいたが、そもそも石田は旧制大学の卒業者などではなかった。旧制高校時代とても優秀な成績をおさめていた彼は、もちろん、東京帝国大学などの旧制大学に進学しそこで学びたかったのであるが、父親の急死やそれに伴う家庭の経済的逼迫などの事情で進学を断念せざるをえなかった。旧制高校卒業後働くために上京してすぐに、当時東京帝大赤門前にあったカフェバー勤めをはじめたのも、彼の内面に複雑な思いが渦巻いていたからにほかならなかった。
さらに珍妙なのは「東京京都帝国大学」などという東西二つの旧名門帝国大学の名を繋ぎ合わせた架空の大学を自分が卒業したと伝えている、そのなんともいい加減な報道ぶりであった。自分が受けた簡単な取材では自分の学歴について尋ねられはしなかったし、自分からそんな話をしたおぼえもなかった。いったいどういう経緯でそんな記事が書かれることになったのかは知るすべもなかったが、正直なところ石田は困惑せざるをえなかった。もっとも、その紹介記事はこの先BBCにおいて極力正確な報道を目指すようにしようとこころしていた彼にとって反面教師的な存在となった。自分のよく知らない国についての放送原稿や放送記事を書いたりするときには、細心の注意を払い特別な固有名詞などに関しては二重三重の確認作業が必要であるとつくづく思うのであった。
その報道内容がどうであれ、自分のことが新聞紙上で紹介されてしまった以上、好意的なものであろうがなかろうが、一時的に周囲の人々の視線が自らの一挙一動に向けられるだろうことだけは覚悟しておかなければならなかった。気心の知れたスタッフだけのいるBBC日本語部オフィス内で仕事をするときはさすがに気分は楽だったが、ロンドン市内各所に取材に出たり休日にあちこちを散策したりするときなどは、タバコの吸殻ひとつを処理するのにも用足しをすませるのにも、さらには咳ひとつをするにもひとかたならぬ緊張を覚える有様だった。のちのちになって振り返ってみるとお笑い種にさえなりかねないほどに異常な精神の昂ぶりであったが、それは民間人として戦後初めてイギリスに渡った青年にとっては宿命とでもいうべき試練のひとときであった。文字通りの大人社会である英国においてそれほどまでに身構える必要などなかったのだが、その時の彼にしてみればやむをえないことだった。