世間から隔絶されたその小島のあちこちには、ちょっとした木陰や直射日光を避けて横になるのにほどよい岩陰などもあった。一通り小島の散策を終えると、石田とナーシャは日の当たる平らな岩の上におもいおもいの格好で寝そべり、こころゆくまで日光浴を楽しんだ。夏の太陽は強烈だったが、二人の若い肌はその刺すような陽光の一部をほどよく吸収し、そしてまたその一部をほどよく弾き返しもした。この日の太陽は、まるでそんな二人の輝くような肢体だけを照らし出すために存在でもしているかのようであった。
日光浴を終えると、木陰になっているところへと移り、そこの岩に二人並んで横になった。そして、これまでに観たり聴いたりしたことのある音楽や映画の話をしたり、お互いの身にまつわる昔話を交わしたりした。お互いの将来の抱負などについてもあれこれと語り合った。他の誰にも邪魔されることなく、そんなふうにして二人だけで過ごしたひと時はこのうえなく満ち足りたものであった。いや、石田自身は心底そう感じていたが、真に満ち足りた時を送ることができたと考えていたのは、実際には彼のほうだけだったのであろう。
いっぽうのナーシャの胸中には、容易には鎮めがたい深い想いと、のるかそるかの賭けに托す彼女なりの緻密な計算とが人知れぬ底流となってうごめいていた。だが、石田はそんな複雑な彼女の胸中にまったく気がついていなかった。見方を変えれば、それほど見事にこの日のナーシャは自らの本心を押し隠し通し、何事もなく振舞う自分を演じきってみせていた。
日はまだ高かったが、そろそろ老虎灘の磯辺へと泳ぎ戻ったほうがよいのではないかと考えた石田は、「そろそろ帰ろうか……」とナーシャを促しおもむろに立ち上がった。彼女はちょっとだけ躊躇いの表情を浮かべたが、それでもとくに彼の言葉に逆らうこともなく、あとに続いて身を起こした。先に立った石田は来たときのルートを逆に辿り水辺へと降りるつもりで、午前中によじ登ってきたあたりの断崖の上へと出た。そして、下へと降りるための足場を確認しようとして何気なく海面を覗き込んだ。
次ぎの瞬間、思わず石田は我が目を疑った。彼らが二人だけの静かな時を送っている間に、小島のまわりではとても信じられないようなことが起こっていた。こともあろうに、海面が十数メートルも下方へと移動してしまっていたのである。
「こ、こんな馬鹿なことが……」と呟きながら、慌てふためいた様子で彼はうしろにいるナーシャのほうを振り返った。すると、そんな彼の困惑したような様子を見て、彼女は不思議そうに訊ねた。
「いったいどうしたのよ、石田?」
「そのう……なんて言うか、海が、海面がずいぶんと下のほうになっちゃってるんだよ!」
「そんなにひどく海面がさがっちゃってるの?」
「うん、ほらナーシャ、見てごらんよ、目も眩むような高さになっちまってるんだ!」
石田にそう声をかけられるのを待って、彼女のほうもそろそろと眼下はるかなところにある海面を眺めやった。
「ほんとねえ、いつのまにかずいぶんと……」
「驚いたなあ……こんな大変なことになっちゃってるなんて思ってもみなかったよ!」
「そうねえ石田、これじゃ、危なくてとても海面までは降りられそうにないわね」
「うっかりしてたなあ……、干潮時になると大きく海面下がることはわかってたんだけど、そんなことすっかり忘れてしまってたよ。いったいどうしたものかなあ……」
「そうだわねえ、いますぐにここから降りるのはちょっと……」
石田の言葉に合わせでもするかのように一言だけそう口を開くと、なぜかナーシャはそのまま黙り込んでしまった。彼のほうもそんな彼女の戸惑った心中を察して、一瞬黙り込んだ。
地理的な関係もあって、黄海北部沿岸一帯の干満の差は世界でも一、二を競うほどに大きいことで知られている。大潮の頃にはとくに干満の差は著しく、時にはゆうに十メートを超えることもあった。老虎灘で暮らすようになってからは、干満時のそんな海面の変化を幾度となく目にはしてきていたが、それは直接自分の生活に大きな影響を及ぼすようなことはなかった。まして小島を取り巻く海面の水位が干潮時になると極端に下がることなど、彼にとってはまったく関心外かつ計算外のことだった。
さらにまた運の悪いことに、その日はたまたま大潮の時期に重なってもいたから、干満の差が著しく大きかった。だから、石田らが戻ろうとしたときにはすっかり潮が引いてしまい、午前中この島に泳ぎ渡った時に比べると、海面は十メートル以上も低くなってしまっていたのである。
いっぱんに断崖というものは登るよりも降りるほうが難しい。しかも、ほぼ垂直に切り立つ岩壁にしがみつくようにして十数メートルも下まで降りきらなければならないとあっては、何事もなく眼下の海面にまで到達するのは容易なことではなさそうだった。それでなくても断崖の基底部には鋭い角をもつ大小の岩々が露出していたから、無理して降りる途中で滑落でもしたら到底無事にはすみそうにもなかった。たとえ石田のほうがなんとかその断崖を伝い降りることができたとしても、体力に劣る女性のナーシャにはそんなことなど土台不可能なことのようにも思われた。
予想だにせぬ成り行きにすっかり困り果てた石田は、不慮の事態を眼前にして不安に襲われているに違いない彼女の顔を、自らは平静を装いながらおそるおそる振り返った。下手にそこで慌てふためいたりしたのでは男としての顔が立たないばかりか、いっそう彼女の心を不安に陥れるばかりでもあった。だから、彼はおのれの心を落ち着けようと必死だったが、その実は、なんとか打開策を見つけることができないものかと焦るあまり、パニック寸前といってもよいような心理状態にあった。
石田は内心の動揺を押し隠しながら、囁くような調子でナーシャに言った。
「ここから降りるのはちょっと難しそうだね。仕方がないから、べつのところに行ってどこかもうすこし降りやすい場所を探してみようよ。きっとそんなところが見つかるさ。まあ、そんなに焦ることなんかないさ」
むろんそんな彼の言葉は、その胸中のあたふたした思いとはまるで逆の、その場しのぎの慰めにすぎなかった。そもそも、この断崖上に登ってくるのでさえも、いま自分たちが立っている地点へと向うルートしかないことは、この小島の地形に詳しいナーシャが誰よりも熟知しているところだった。
石田はナーシャがその言葉に応じてくるのを期待してなどいなかった。ところが、驚いたことに、彼女は彼の顔を真っ直ぐに見つめなおすと、思わぬ言葉を返してきた。
「なにもそんなに慌てることなんかないでしょ?、どうせなら、また潮が満ちてくるまでここで待っていましょうよ!」
「えっ……、また潮が満ちてくるまでだって?」
そんなことなどまるで念頭になかった彼が、意表を突くナーシャのその一言に一瞬戸惑いを覚えながらそう問い返すと、彼女はきっぱりと言ってのけた。
「潮が満ちてくるまでまだずいぶんと時間があるでしょ……、せっかくだからそれまでの時間を二人だけで存分に楽しむことにしましょうよ!」
燃えるような瞳の輝きをともなって放たれたその言葉の矢は、石田の心臓をまがうことなく貫いた。その必殺の一矢のために彼の心身が完全に麻痺したのを見て取った彼女は、「いいでしょう、石田?」とだけ短く言うと、もう相手に逃げようがないことを確めでもするかのように、彼のそばにぴったりと身を寄せた。そして、どこか思い詰めた表情のなかにも静かな微笑を湛えながら、澄んだ両の瞳で彼の顔をじっと見上げた。
まるで見えない糸に五体を操られている人形でもあるかのように、石田はその両手をナーシャの背中にまわすと、そのしなやかな身体をこのうえなく優しく、しかも不思議なまでに力強く抱き寄せた。男というものをまだ一度も受け入れたことのない少女に特有な芳香が、石田の心をいやがうえにも掻きたてた。相手の心のすべてを捉えきったと確信したナーシャは、さりげなく目をつむると、これがとどめとばかりに、その美しく引き締まった唇をそっと彼の口元に差し出した。
妖麗なひとりの女への脱皮を決意し、その変身の時はこの場をおいてはありえないと思い定めた美少女は、全身から目に見えない魔法の銀糸をこれでもかと言わんばかりに繰り出し続けた。そして、その妖艶な糸に心身をからめとられた石田に、もはや行動の選択の余地などあろうはずもなかった。彼は吸い寄せられるようにして、いつしか自分の唇を相手の唇に重ねていた。
それは、それぞれの体内に長きにわたって堰き止め蓄積されていた切なく激しい二つの感情が自制という名の堤を切り破っていっきに融合した瞬間だった。しばらくして一度そっと唇を離したあと、石田は無言でナーシャの顔を見つめやった。彼女の目はこころなしか潤み、右頬には一筋の涙が流れていた。「ナーシャ……」、そっと囁きかけるようにそう言うと、彼はもう一度力を込めて彼女の肢体を腕の中に強く引寄せた。ひたすらうち震えるような切なさと愛おしさがそんな石田の全身を激しく貫いた。