引き揚げ船に振り当てられた駆逐艦「楠木」が上海の埠頭を離岸したのは黄昏時が過ぎ、もう宵闇が迫ってこようかという時刻のことだった。出航を告げる高く鋭い汽笛の音をあたりに響きわたらせながら、駆逐艦は黄浦江へと進み出た。もう二度と上海の街並みを目にすることなどないだろうと思うと、悲しくもあり淋しくもあった。上海での六年間にも及ぶ生活の中で起こった様々な出来事が、彼の脳裏を慌しく駆け巡った。船尾方向へと徐々に遠ざかり宵闇の中へと消えて去っていく摩天楼群の影を眺めやりながら、「さらば上海、我が愛しの上海……」と彼は胸のなかで呟いていた。そしてまた、その呟きの中の「上海」という一語には、毅然として上海に残ることを決意したミサや、上海ではついに再会することなく終わったあのナーシャの姿なども重ねられていた。
不可思議な運命の糸の導くところによって、ミサとはのちに意外なかたちで再会することになるのであったが、この時の二人にすれば、いずれ再会の日が訪れることになろうなどとは想像もつかないことであった。また、上海という都市に話をかぎるなら、実際問題としても石田にとってはこの日がその見納めともなったのであった。その後の生涯を通じて、二度と彼が上海の地を踏むことはなかったからである。ましてやナーシャについてはいまさら言うまでもないことではあった。
石田らの乗ったその駆逐艦は実戦配備こそされなかったものの、終戦直後に完成したばかりの最新鋭艦だというだけのことはあって、時速二〇ノット前後の高速での航行することができた。だから、速度という点においては、石田かつて乗っていた貨物船などとは雲泥の差があった。エンジン音を高らかに響かせなら他の船をどんどん追い抜いていく有様は爽快そのものだったが、狭いスペースに身を寄せ合いながら立膝をして固い鉄の甲板の上にじっと坐っているのはけっして容易なことではなかった。一等船客となって大連から上海へとやってきたときの優雅な船旅に較べると、それは悲惨このうえないものであったが、それでも、新兵として召集されたあと南京から漢口まで長江伝いに運ばれたときの船旅にくらべればまだしもましなように思われた。
高速で走る駆逐艦の甲板に坐らされていた関係で、引き揚げ者で鮨詰め状態たっだにもかかわらず、折々吹き抜ける風に身を委ねることができたのは幸いだった。南京から漢口へ向かった際の大盥状トイレに泣かされた石田は、この引き揚げ船のトイレはどうなっているのだろうと乗船時からいささか気になっていたが、その問題についてはそれほど危惧するには及ばなかった。もちろん、もともと駆逐艦に設置されているトイレでは間に合うはずもなかったので、多数の引き揚げ者の乗船にそなえ船尾には特別に臨時トイレが用意されていた。
船尾から両舷端外側の海上に突き出す感じで複数の仮設トイレが設置されていて、正規の乗員以外の乗船者たちはそのトイレを使うようにと指示された。ちょっとした緊張を味わいながら、しっかり張られた太いロープ伝いにこのトイレに辿り着き、便座下の長方形の穴を覗くと、真下には猛烈な勢いで泡立ち流れ走り去る河水や海水が見えた。穴から下に落っこちたらそれこそ一巻の終わりだったが、便座もしっかりしており不意の揺れにそなえて掴まる取っ手もついていたから、よほどふざけたことでもしないかぎりまずそのような心配はなかった。
後方へと激しく流動する河水や海水とそれらの飛沫の跳ね交う様を眼下に眺めながら、雑念を払うがごとくに大小の用足しをするのはなんとも爽快な気分ではあった。だがそのいっぽうで、塘沽、天津、青島、大連、上海、南京、漢口、上海と移り暮らしながら築き上げた過去八年間にわたる中国大陸での想い出までがそれと同時に己の体内から一挙に流れ消え去るような、奇妙な幻覚に陥ったりもした。
駆逐艦はいっきに長江を下り東シナ海に入ると、ほぼ東に向かって進路をとりはじめた。すでに夜が更けてからのことだったので、ほとんどの者にはその船がどちらの方角に進んでいるのか皆目見当がつかなかったけれども、東シナ海を航行する貨物船の乗組員を務めた経験をもつ石田にはすぐにおおよその航路の推測はついた。たまたま夜空には北極星をはじめとする星々が出てもいたので、それらの位置をもとにして船の進行方向をつかむのは容易なことだった。また引き揚げ船の入港先が佐世保であることもあらかじめわかっていたから、海図を思い浮べながら上海から佐世保までの航路全体の概要を予測するのに手間はかからなかった。
長江の河口から東シナ海をはさんで真東の方向に位置するのは九州の薩摩半島のあたりである。ところが、東シナ海のなかほどから九州西岸寄りにかけての海域を黒潮の分流である対馬海流が絶間なく北上し続けているから、真東に向かう船は緩やかなカーブを描いて自然に北へと流される。そして、九州西岸の天草諸島沖合いあたりに到達したところでいっきに対馬海流に乗って北上すれば、目指す佐世保港はすぐである。上海から佐世保までおよそ千キロ前後、この高速の駆逐艦ならまる一日ほどの船旅だろうと思われた。
夜空には星々が美しく輝きわたっていたが、海上には相当なうねりがあった。そのため、細身の駆逐艦はひどいローリング(横揺れ)を繰り返した。舳先で鋭く大浪を切り分けながら高速で前進できるような構造になっているせいか、ピッチング(縦揺れ)は想いのほかすくなかった。だが、それはあくまで船に乗りなれた石田にとってのことで、めったに船に乗る機会などなかった一般引き揚げ者たちにしてみれば、どちらの揺れであろうとも拷問以外のなにものでもなかった。まして、立膝をして互いに身をすぼめた状態でそのままじっと坐り続けなければならないときていたから、病弱者でなくても、船酔いその他のために気分の悪くなる者が続出した。婦女子や子供らをはじめとする者たちの泣き声や苦悶の声が飛び交うなかではあったが、それでもなんとか大事にはいたることなく船上の夜は明けた。
やがて舳先方向の水平線から朝の太陽が昇ってきて海上を照らし出した。しかし、「見よ東海の空高く旭日高く昇る時」などという愛国行進曲の勇ましい冒頭の一節が単なる皮肉にしか聞こえないほどに、どこか無残な朝の太陽の輝きだった。東海ならぬ西海にあって、朝日に照らされる船上に半ば無言のままぐったりとして坐り込むのは、旭日の名のもとに夢を追って大陸に送り出され、旭日の名の衰えのゆえにすべての夢を捨て、追われるようにして大陸をあとにした人々の一群にほかならなかった。
朝食の時間がくると艦員によってピッ、ピッ、ピッ、ピッ……という呼子が鳴らされ、一斉に食事をとるようにとの指示が出されたが、喜んでその指示に従うものはかならずしも多くはなかった。しかもその反応の鈍さは、ただ単に船酔いや一時的な疲労のために食欲がないからというよりは、敗戦により大陸での生活基盤をすべて失った悲しみと、帰国後の暮らしに対する不安との二重の苦悩に根差しているのは明らかだった。
それなりに揺れはしたものの船はエンジン音も高らかに佐世保へと向かって走り続けた。石田はトイレに立ったついでに右舷側へと足を運び、手すりに身を寄せながら海上を眺めやった。もうかなり九州本土に近づいているはずだったが、まだその遠影らしいものは見えなかった。どうせ見えないなら、このままずっと見えないままでいるほうがいいという、いささか屈曲した想いなども胸中に渦巻いていた。
時折、舷側近くの水面までイルカらしいものの影が近づくのが見られたが、かつてずいぶんと見なれた光景だったので、石田自身はそう興奮するようなこともなかった。ただ、たまたま船と並行するかたちで海面上を滑空する飛魚の姿は面白かった。かつて石田が乗っていた貨物船などの場合には、船と同方向にむかって飛魚が飛ぶとどんどん船を追い越す感じで滑空していったものだが、ほんらい駆逐艦として設計されたその引き揚げ船上から眺める飛魚の様子はいささか異なるものだった。飛魚たちはまるで石田の乗る船と並んで飛行するような飛び方をした。なかには船よりもすこし速く飛び去るものあったが、逆に遅れをとり、海面に着水してしまうものもあった。
べつに飛魚らが船と速さ較べをしているわけでもなかったが、そんな飛魚の飛行様態ははからずも引き揚げ船の船速の大きさを物語っているのだった。さすが駆逐艦というおもいもしたが、いっぽうでは、その速度に遅れをとる一部の飛魚がまるで世界の時流に取り残されるであろう自分の姿を象徴でもしているかのように感じられてならなかった。
太陽も西の空へと大きく移動しかかった頃のことだったろうか、進行方向左手にいくつかの青く大きな島影が見えてきた。それらの島影を一瞥した石田には、それらの島々が五島列島であるとすぐにわかった。貨物船に乗って小樽と台湾の基隆の間を往復していた当時、同列島の沖合いを何度となく通過したことがあったからだった。口々にあれはどこの島だろうと問い尋ねる引き揚げ者たちに、石田は何度となくあれは五島列島だという説明を繰り返した。大陸での生活が長く、どちらかというと褐色に近い風景を見慣れてきた引き揚げ者らの目には、青々とした五島列島の島影があらためて鮮烈なものに映ったようだった。甲板のあちこちに坐る引き揚げ者たちのなかには、なんとか無事に祖国へと辿り着いたことを知って感極まり、本土上陸に先だって歓喜の涙に咽ぶ人々もすくなくなかった。
上海を出てほぼ二十四時間を経た頃、引き揚げ船は船寄鼻と高後崎にに挟まれた狭い水道を通って佐世保湾に入った。そして湾内をほぼそのまま東進し、佐世保軍港とはすこし離れたところに位置する東彼崎針尾村浦頭港(現在の佐世保市針尾北町)の沖合いに碇泊した。その頃、佐世保湾内の浦頭は舞鶴港などと並んで、中国大陸各地や朝鮮半島、台湾、東南アジアなどから母国帰還者を乗せて入港する引き揚げ船の専用港となっていた。いったん佐世保湾内に碇泊はしたもののすぐに埠頭に接岸し下船することは許されず、何日もそのまま船上で過ごさなければならなかった。入国手続きの処理能力やそれにともなう検疫の態勢などには一定の限界があったため、次々に入港する引き揚げ船にはどうしても接岸の順番待ちをしてもらわなければならないからだった。