ある奇人の生涯

60. いざ憧れのイギリスへ!

1949年4月11日は、石田の晴れの出発にふさわしいうららかな春の一日であった。この日の午前中に英国大使館をあとにした石田は、ロンドンに着くまで彼の保護者的な役割を務めてくれる英国映画協会々長のルイス・ブッシュらとともに横浜港へと向かった。 この日の朝、英国大使館において、石田はロンドンまで彼の事実上のエスコート役を務めてくれるルイス・ブッシュに引き合わされた。BBCの日本語放送部局に勤務するため渡英する優秀な日本人青年で、日本の民間人としては戦後初めて渡英を認められた人物である旨を大使館員がルイス・ブッシュに伝えると、ミスター・グッドマンの異名をもつ彼は石田に向かってにこやかに手を差し延べ、固い握手をしながら「コングレチュレーション!」とその前途を祝福してくれた。石田が挨拶を兼ねあらためて自己紹介すると、日本人離れした流暢な英語を耳にしたブッシュはいささか驚いたような様子を見せた。

石田らが向かった先が羽田飛行場でも厚木飛行場でもなく横浜港だったことにはそれなりの理由があった。港といえばすぐに連想されるのは船である。しかし、石田らはべつだん外国航路の船舶に乗るために横浜港へと向かったわけではなかった。横浜港に着き出国手続きを終えると、彼らは他の同行者たちと一緒に小型ボートに乗せられ、港のすこし沖合へと誘導された。なんとそこに浮かんでいたのは、船は船でも二つの巨大な翼と鯨のような艇腹をもつ白いエア・シップ、すなわち超大型飛行艇なのだった。

当時のBOAC(英国海外航空)は、まだ日本と英国間には通常の旅客機の運航を開始してはいなかった。この時期両国間を空路で結んでいたのは、ダグラス社製四発プロペラエンジンの飛行艇だった。ともに飛行艇に乗り込んだその日の同行客は20名ほどであった。飛行艇の内部は上下二階にわかれており上階のほうは座席付き乗客室になっていた。

いっぽうの下の階にはロビーと図書館が設けられ、乗客たちが思いおもいにくつろいだり、読書をしたり、談笑したりすることができるように配慮されていた。離陸ならぬ離水時刻までにはまだすこしばかり時間があったのでさっそく階下に降りてみたが、飛行艇が着水し海面に浮かんでいるときは自重のために下腹部が水中に没するので、完全防水された円形の小窓からはわずかに外の海水らしいものが見えるだけだった。

しばらくして再び上階の乗客室に戻り乗務員の指示に従い座席につくと、飛行艇は轟々とエンジンを唸らせ巨体を振動させながら海面を滑走し始めた。海上を滑走しているにもかかわらず、飛行艇の速度が増すにつれてドシンドシンとまるで固い岩盤の上か何かを走っているかのような衝撃が伝わってきたが、しばらくするとその衝撃音はなくなりそれと同時に機体が空中に浮き上がった。石田の座席はたまたま右手窓際に位置していたので、眼下に広がる青い海面の一部をはっきりと確認することができた。

初めて乗る飛行艇のエンジン音はことのほか大きく少々耳障りな感じがしなくもなかったが、飛行高度が上がり水平飛行に移ってしばらくすると、それもほとんど気にはならなくなった。考えてみるとかつてタリーマンとして乗船していた台湾航路の貨物船のエンジン音とそう大きな変りがあるわけではなかった。

あらかじめ詳細な飛行ルートを知らされてはいなかったし、空を飛ぶ飛行艇の小窓を通して見下す景観は初めてだったから、石田には自分がいまどこをどう飛んでいるのかさっぱり見当がつかなかった。だが、横浜沖を飛び立ってから2、30分ほど経ったかと思われる時、石田は純白の冠雪を戴いた富士山の姿を右手前方にはっきりと確認することができた。そして、その瞬間、彼の体内深くから身体全体を突上げるような激しい感動が込み上げてきた。いよいよ自分は日本をあとにして夢にまで見た憧れの国イギリスへ向かおうとしている、しかも一時は渡航を断念もしかけたシェークスピアの国イギリスへ!――飛行艇の機内から一瞬目にした富士山の姿は不思議なほどに彼の心を煽り立ていつにもなくその胸を昂ぶらせた。

だが、皮肉なことに石田の乗ったBOACの飛行艇はそのままいっきに日本の領空外へと飛行したわけではなかった。日本を離れたあと飛行艇はまず上海に立寄ることになっていたが、不慮の事態にそなえ極力夜間飛行を避ける必要があったことや、航続距離の問題などを考慮しなければならなかったこともあったので、直接に上海へは向かわず、その日の夕刻、いったん広島の呉沖に着水した。江田島をはじめとする旧日本海軍の一大基地のあった呉は当然進駐軍の支配下にあり、英国も同地に多数の駐留軍を送っていた。その英国駐留軍幹部の斡旋で、乗客一同は呉市内の日本旅館に案内され、一晩そこに宿泊することになった。

その日の夜旅館の食卓に並べられた御馳走の山を見て、その豪勢さに石田はただただ驚き呆れるばかりだった。エビ、カニ、タイ、アワビ、ウニ、雉、鴨、地鶏などをはじめとする高級食材をふんだんに用いた多種多様な日本料理のほとんどは石田が生まれてはじめて目にするようなものばかりだった。それまでにも河口湖ホテルなどのようなところにも勤めていたし英国大使館にも出入りしてから、それなりの料理を味わう機会はあったのだが、眼前に供された料理の数々はその量といい質といいまるで桁違いのものであった。出された料理の中ではごく地味なものに見える鶏肉・エビ・カニ・カマボコ・茸などの入った茶碗蒸でさえもう10年くらいは口にしたことがなかった。まだ日本中が敗戦後の食料難に喘いでいる時代のことで、一般庶民には日々の粗末な食事さえもままならぬ状況だったから、石田にとってそれはなんとも信じ難い光景だった。

どんな苦しい時代であってもあるとろにはあるものだとつくづく呆れ果てながらも、折角の御馳走にありつかない手はないと思い、石田は有り難く箸をつけさせてもらうことにした。その旅館に宿泊した乗客のうち日本人は彼一人だけで、あとは皆欧米人だった。なかには刺身の味を知っている者もあり、彼らは器用に箸を操りながら喜んで刺身の皿に手を伸ばしたが、当時の欧米人の常であったように大半の者は生魚を敬遠した。そのため、石田は高級魚の刺身を文字通りたらふく食べることができた。もちろん、自分で宿泊費を払うわけではなかったから、その点からしても気楽なことこのうえなかった。

翌朝に呉を発った飛行艇はやはり駐留軍の基地のあった岩国に短時間立ち寄り、そのあとあの懐かしい上海目指して空中高く舞い上がった。眼下に広がる瀬戸内海の光景を眺めやりながら、「さらば日本!、さらば日本!……たとえこれが見納めになろうが俺は遠くの国へ旅立っていく!」と彼は密かに呟いていた。実際彼の胸中にはなんの感傷もなかった。青春の血だけがその体内でかぎりなく騒いでいた。33歳という年齢からすると青春というにはいささかトウがたち過ぎているきらいはあったが、純粋な意味では完全に燃焼することなくそれまで体内でくすぶり続けてきた火種がいっきに燃え上がり、退路のない旅路へと彼を煽り駆りたてたという意味では、それはまごうかたなき青春の旅立ちであった。

BOACの飛行艇はかつて石田が何度となく航海したことのある東シナ海を一息に飛び越え、かつて自らが経営したIshida Language Academyでの出来事やミサとの出逢いなど様々な想い出に満ちた上海の黄浦江に着水した。敗戦にともなう引き揚げのため上海をあとにしてからすでに3年、魔都とも呼ばれたその都市がその後どうのように変貌を遂げたのか彼は知りたくてたまらなかった。だが、終戦後の上海では敵国人であった日本人に対してきわめて厳格な入国規制が敷かれており、たとえ上陸できたとしても身柄を拘束される危険があるというので、ビザを取得していたにもかかわらず、結局、石田だけは飛行艇内に残されることになった。他の乗客らはその夜上海のホテルに宿泊したが、彼は飛行艇の一部乗務員らとともに機内で一夜を明かさざるをえなかった。

飛行艇の乗客室の窓からは想い出深い外灘(バンド)一帯やその周辺の高層ビル群の偉容を指呼の間に望むことができた。夜になると、それらの高層ビル群の窓々から漏れ輝く明かりが彼の心を不思議なほどに掻き立てた。一時は上海社交界の名士としてその名を馳せ、あんなにもドラマティックな日々を送っていた懐かしい上海の街並みをいまはもう河面に浮かぶ機内から眺めやるだけで、その様子を垣間見るどころかただの一歩さえもその地に足跡を刻むことを許されない――日本人であるがゆえに降りかかってきたなんとも皮肉なその現実をまえにして、彼はひとり複雑な思いに沈むばかりだった。

翌日上海黄浦江を飛び立った飛行艇は大陸を沿岸伝いに南下し香港に着水した。東洋の真珠とうたわれた香港はその頃まだイギリスの支配下におかれていたから、乗客一行は当地のホテルに案内され、そこで一晩宿泊することになった。もちろん今度は石田も皆と一緒だった。宿泊したホテルは香港でも一、二を争うなんとも豪華な一流ホテルで、瀟洒な部屋のたたずまいも、美しい夜景をはじめとするラウンジからの景観も、さらにまた出されてくる食事類もみな文句のつけようがないほどに素晴らしいものばかりだった。ターバンを巻いて現れる粋なウエイターや美人揃いのウエイトレスらの身振舞いは実に洗練されており、その優雅な一挙一動を目にするだけでも石田は旅心を深く満たされる思いだった。

当時本国イギリスはまだ終戦後の一大経済危機の余波の中にあり、英国民は皆質素な生活を送っていた。だが、おなじ英国の支配下にあるとはいっても、この香港だけはなお東洋の真珠の名に恥じない繁栄を見せていた。飛行艇に乗って日本からイギリスまで旅するという、この戦後の一時期をおいては後にも先にもありえなかった特異な体験は、その余得として言葉に尽くし難い数々の感動や衝撃を石田の胸中にもたらした。それはまさに、飛行艇という名の魔法の絨毯がつくりだすアラビアンナイトの世界そのものなのであった。

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