ある奇人の生涯

59. 偶然という名の奇跡

「やっぱりタッツアンだったのね!、よかったわ、会えてほんとうによかったわ……」

駆け寄りざまに石田の右手をしっかりと掴み、心底嬉しそうにそう話しかけるミサの顔を街灯の光がほのかに照らし出した。

「ミサ!、なんでまたこんなところに?……てっきりまだ上海あたりにいるもんだと思っていたのに……」

想像だにしなかった突然のミサの出現に、石田のほうは戸惑いながらそう言うのがやっとだった。なんとも無粋なかぎりではあったが、胸中の驚きをうまく言い表す言葉がそのほかには見つからなかった。懐かしいミサの手の温もりを自らの掌や指先に感じながらも、彼にはなおそれがミサであるとは信じ難い思いだった。

「そう言うと思ったわ、でも私は正真正銘のミサよ……お化けでも幽霊でもないわ!」

「だってあれほど日本に帰るのは嫌だって言ってたじゃない、中国人になりきってそのまま上海に残るなんて……」

日本に戻ってからも彼女のその後の様子が気になって仕方なかったにもかかわらず、彼の言葉そのものは表向きなお淡々としていて、どこか冷たくそっけない感じでさえあった。ただ、その言葉とは裏腹に、相手の素振りの奥に深い安堵のかげが漂い秘められているのをミサは見落としていなかった。

「そう、上海にあのまま残って死んでも日本には戻らないつもりだったわ」

「でも、死なないでちゃんと日本に戻ってきてるんじゃない?」

「フフフフフ、まあ、そう言われればそうなんだけど……、じゃ、タッツアンはお化けか幽霊に変わり果てた私のほうがよかったっていうわけなの?」

「いや、どうせなら、安達が原の鬼婆みたいなほうがよかったかもなあ……」

「まだ宵の口だからこんな姿しているけど、丑三つの刻にでもなったらタッツアンのご期待にそえるかもしれないわよ」

石田にかつてのような軽口が戻ってきたのを内心嬉しく思いながら、ミサはそう受け流した。そんなミサの対応振りに石田のほうもすっかり気分がほぐれてきた。

「このまま立ち話するのもなんだから、ミサが鬼婆になってしまうまえにちょっとだけ近くのカフェにでも寄ってゆっくり話そうか……時間はあるよね?」

「そうだわね、1時間かそこらくらいだったら大丈夫よ」

「だって身の毛もよだつような鬼女に変身するのは丑三つの刻なんだろう。それじゃべつに1時間そこらってかぎらなくっても……」

山ほどに積もる話もあると思った石田は、時間など気にせずに2人だけの時間を楽しんでいた上海時代のことを想い起こしながらそう水を向けた。するとミサは彼にぴったり寄り添って歩きながら、さりげない口調で言った。

「でもあんまり遅くなったりしたら誰かさんがドラキュラに変身するかもしれないわ。そうなると困るからから……」

ミサがそんな一言を吐いたのは、そのあとの話の展開にそなえてそれとなく伏線を張っておく意図があったからだった。だが、石田のほうはいささかその真意を取り違えてしまったようだった。

「近頃はなぜかドラキュラに変身するのが億劫でね。牙を剥いて美女の首筋を狙うのにもそれなりのエネルギーが要るからね」

「……」

石田のそんな言葉に対してミサはただ押し黙ったままだった。

当時銀座の裏通りにあった洒落た造りのカフェに入ると、2人はその片隅のテーブルに向かい合って腰を下ろした。ショパンのピアノ曲が静かに流れる落ち着いた雰囲気の店内には3、4人先客がいるだけだった。ウエイトレスを呼んでコーヒーを注文し終えると、あらためて石田はミサの顔をじっとみやった。黄橙色の明かりの中に浮かぶミサの笑顔は相変わらず美しく魅惑的であった。しかも、気のせいか、彼女が全身からさりげなく醸し出す雰囲気には上海時代にはなかったような不思議な落ち着きと、それゆえのエロスが感じられてならなかった。

しばしの沈黙のあと、再び口を開いたのはミサのほうが先だった。

「タッツアンさあ、日本に戻ってからどうしてたの?……てっきり博多に戻っているものと思ったんで、引き揚げ者援護局を通じて所在を調べようとしたんだけど、結局よくわからなくってね。まあ、タッツアンのことだから、簡単に死んだりはしないだろうと思ってはいたんだけど……。でも、それがこんなところでバッタリまた逢えるなんて驚いたわ。これって腐れ縁とでも言うのかしら?」

口は悪いけれどそう話すミサの表情は心からの喜びに溢れていた。

「いったん博多に戻ったんだけど、どうにも埒があきそうにないんですぐに上京したんだよ。でもねえ、東京は一面焼け野原になってしまっていて、実際どうしたものか途方に暮れかかっていたんだよね。ちょうどその時にお堀端でBBCのジョン・モリスと偶然に出逢ってね」

「BBCってあのイギリスのBBC?」

「BBCがアメリカやフランスにあるわけないだろう。ミサらしくないなあ!……、まあそれはともかく、そのジョン・モリスからイギリスに渡ってBBCで働かないかって誘われてね」

「信じられないわ、ほんとなの?……行ったらいいじゃない!」

そう言うミサの顔はなぜか興奮気味だった。彼女のそんな様子を目にしながら、石田は運ばれてきたコーヒーをすすり一呼吸おくと、さらに続けた。

「もちろんそうしようと思ったんだけどさ、2年半前のことだったからどうしてもマッカーサーが出国を許可してくれなくってね。年が明けると、こんどはイギリスが戦後の経済危機に陥って、BBCサイドに受け入れの余裕がないということになっちゃって……」

「そうだったの……残念だわ!……なんとかならなかったのかしら?」

ちょっと前まで興奮気味だったミサの顔がたちまち落胆したような表情へと変った。

「いや、それでね、英国大使館に預けられ報道モニターの仕事をしながら渡英時期を待っていたんだけど、なんだかやりきれなくなって大使館を辞め、そのあとしばらく進駐軍関係の仕事をやっていたのさ。そこへ河口湖ホテルのフロント勤務と翻訳の話が飛び込んできてね、そんなわけで去年の十一月までは河口湖ホテルにいたんだよ」

「それでタッツアンはいま東京で何をやってるの?」

「それがねえ、去年の11月末に英国大使館から河口湖ホテルに電話があってね。まだイギリスに渡ってBBCに勤務する気があるかって尋ねてきたんだよ。もちろん、喜んで行きますって返事したけどね!」

「それで、その話、いまどうなっているのかしら?」

そう問いかけるミサの顔がまたパッと明るくなった。

「そのあとすぐに上京してGHQに渡航許可を申請し、そのうえで日本政府からパスポートを発給してもらったわけさ。実を言うとね、BOACの航空便の関係もあって出発日時はまだ最終決定していないんだけど、あと一週間くらいのうちにはイギリスに向かうことになってるんだ。目下出発待機中の身なんだけど、ちょっと時間があったから、しばしの見納めと銀ぶらにやってきたわけさ。そしたら、なんとミサが……」

そこまで聞き終えたミサは、コーヒーカップを手にすると嬉しくてたまらないといった様子でコーヒーを飲んだ。それから、いたずらっぽい微笑みを浮かべながらあらためで石田の顔をじっと見やると、思わせぶりな口調で言った。

「じゃ、タッツアン、近いうちにまたロンドンでまた逢えるわね!」

「えっ、そんなっ?……ミサを連れていくわけにはいかないよ。独身であることも条件のひとつだしね」

「でもさ、私が勝手に行けばいいわけでしょ?」

「だって、そんな簡単にロンドンなんかには行けないよ。まだ日本は事実上GHQの支配下にあるから政治家だって容易には海外渡航できないんだよ」

「でもね、実を言うとね、私の場合それが可能なのよ。タッツアンが戦後初めてイギリスに渡る日本人民間人ということになるなら、たぶん私は戦後二番目にイギリスの地を踏む日本人民間人ということになるわね、フフフフフ……」

その言葉の真意を汲みかね呆気にとられる石田をまえにちょっと含み笑いをすると、彼女はおもむろに言い放った。

「タッツアン、実を言うとね、私、いまはもうミサ・ネダーマンなの。さっきね、あんまり遅くなると誰かさんがドラキュラに変身するかもしれないって言ったでしょ、その誰かさんてジョン・ネダーマン、すなわち、私の夫のことだったの……。いまはホテルにいて私の帰りをまっているはずなんだけど」

あまりに唐突なミサの言葉に石田はフーッとひとつ大きな溜息をつき、返答に窮して沈黙の底にしずんだ。

「タッツアンが日本に引き揚げたあと、猿がオナニーしている姿の描いてあるあの部屋にしばらくは独りで住んでたわ。『You bitch!』っていうあの文字を毎日眺めながら、あとに残る私のためにあの部屋を残しておいてくれたタッツアンに感謝もしてたの……」

「……」

「でもね、いくら中国人になりすまして上海に残るっていってみたって、私の過去は現地の中国人の間に知れ渡っていたから、せいぜい意気込んではみたもの所詮それは無理なことだったわ。生活そのものが厳しくなるばかりでなく、日本人というだけで拘束され、たとえ殺されるまではいかないにしても、思うがままに蹂躙されたり辱めを受けたりする危険が迫ってきたわけなの。ほんとうに一時はどうなるかと思ったわ」

「だから言ったろう?、とにかく日本に引き揚げようって……」

ようやく石田はそう口を利いた。

「でもね、そのまま日本には帰りたくなかったの。敗戦国になった日本に戻ったらもう国外になんか出られなくなってしまうでしょ。そんなときにたまたま現れ、真剣に私にプロポーズしてくれたのが英国人のジョン・ネダーマンだったの」

「そう……、それでその英国人のプロポーズを受け入れ結婚したっていうわけなんだ」

それなりに達観しているつもりではあったが、いざ結婚したと言われてみると石田の胸中は複雑だった。そしてその複雑さがミサをいっそう美しく輝かせて見せた。ジェラシイと呼ぶべきものであったのかどうかはともかく、それに近い感情が彼の心の奥底で一瞬うごめいたのは確かだった。

「ジョンは真面目な技術者で、とても穏やかな性格の持ち主なの。ドラキュラ云々って冗談言ったけど、ほんとはずいぶんと寛容な人でね」

「それで、日本に戻ってきたのはなにか訳があって?」

「もちろんよ。日本の役所に出向いてイギリス人との婚姻に必要な手続きを済ませてから、英国大使館を通じてイギリス国籍の取得を申請し、パスポートを発給してもらって近々彼の母国に渡るためなの。だからタッツアンのすぐあとを追いかけて私もイギリスに渡ることになるわ……、とにかくロンドンで再会することにしましょうよ!」

「ロンドンでねえ……」

「私が渡英し落ち着いたら、BBCの日本語部局のほうに連絡をとるわ」

そこまで話し終えるとミサは先に席を立ち静かにそのカフェを出て、夫ジョンの待つホテルへと戻っていった。独りあとに残された石田のほうは、あまりにも予想外のことの成り行きに心の整理のつかぬまま、なおしばらくその場に坐し続けていた。

目に見えない運命の糸で結ばれた人間同士の関係というものは、もともとこういうものなのかもしれなかった。だが、かつて恋人同士だった男のほうが戦後初の日本人民間人として先に渡英し、女のほうがまったくの別ルートで戦後二番目の日本人民間人として男のあとを追うようにして渡英するというのは、いくら偶然とはいっても奇跡に近い出来事だった。文字通り「事実は小説よりも奇なり」の諺を地でいくような話であった。

2人が相継いで英国に渡ったあと、上海時代の2人の関係をよく知る一部の人々の間では、石田の子供を宿したミサが石田のあとを追いかけて渡英したという噂がまことしやかに囁かれた。だが、事実はまったく違っていた。ミサの夫となった英国人ジョン・ネダーマンは実際たいへん優秀な技術者で、ずっとのちに日本の電力業界と切っても切れない重要な関わりをもつことになるのだが、それもまた運命というものの不思議としか言いようのない話ではあった。

カテゴリー ある奇人の生涯. Bookmark the permalink.