ある奇人の生涯

22. 老虎灘での至福な生活

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

ナショナル・シティ・バンクに勤務当時、石田は大連郊外にある老虎灘(ラオフータン)というところに住んでいた。大連中心街の南東方向六、七キロのところに位置する老虎灘は現在では開発整備が進み近代的な観光地になっているが、その頃はまだ豊かな自然がそのまま残る風光明媚な入江で、実に落ち着いた雰囲気の漂う土地柄であった。アメリカ人やイギリス人のほか、ロシア人やフランス人、ギリシャ人、中国人などが混住するとても国際色豊かな地域で、満鉄関係者などのような日本人家族らの多く住む大連中心部の住宅街などとはずいぶんと趣きを異にしていた。だから、日々の通勤に際しては、まず馬車に乗って最寄りの路面電車の駅まで出向き、そこから電車に乗って銀行のある大連市の中心部まで通っていた。

石田がわざわざ日本人居住者の少ない老虎灘を選んだのは、ひとつには、彼の勤務する銀行の何人かの行員やその家族らが住んでおり、それらの人々との日常的な交流を保つにはそのほうが好都合だからであった。だが、それ以上に大きな理由は、せっかくの機会なので、日本的な環境や雰囲気に支配されている地域を極力避け、国際性豊かなところで自分とは価値観の異なる多くの外国人と接しながら暮らしたいと考えていたからだった。猛勉強の成果もあってすでに英語は不自由なく使いこなせるようになっていたから英語中心の生活にまったく不便は感じなかったし、また、フランス語やロシア語などのような外国語を日常生活を通じて自然に修得するうえでも老虎灘は格好の場所であった。

日中戦争の激化や、それに伴う国際社会からの日本に対する批判が日毎に高まるなか、日本社会はますます閉鎖性を強めていきつつあったから、その息苦しさから逃れることができるという意味でも老虎灘での生活は彼にとって大きな救いではあった。

予想にたがわず、老虎灘での生活は石田にとってこのうえなく甘美で充実したものとなった。休みの日や、そうではなくても夜になると近くに住むロシア人やフランス人、ギリシャ人、中国人などが彼の家に次々と遊びにやってきた。すっかり経済的にも安定したおかげで広い庭のある立派な家を借りて住むことができるようになっていたから、来訪者たちと毎晩のようにその庭で盛大なパーティを催すことができた。豊富な食材を用いてバーベキューなどをやりながら、友人のロシア人の演奏する素晴らしいバラライカの音色に耳を傾けたり、皆で様々な国の歌や民謡を唄い合ったり、諸々のゲームに時を忘れて興じたりする満ち足りた日々の生活は、文字通り夢とも幻ともまがうばかりではあった。

とにかく、皆が驚くほどの高給を取っていたから、客人や友人たちに心ゆくまで振舞っても経済的に困るようなことはまったくなかった。何かの時に備えてそれまでになく十分な貯えをもつこともできた。こんなにも幸せな日々がいつまでも続いていていいものだろうか?――実際何度もなんども自分自身にそう問いかけもしたほどに、老虎灘での生活は恵まれたものであった。

もちろん、石田は高給をよいことに遊びほうけてばかりいたわけではなかった。銀行での実務や欧米人行員との日常的な付き合いを通して彼は英語力を磨きに磨き、またそのいっぽうで老虎灘在住の多くの外国人たちとの親交を重ねながら、ロシア語、フランス語、中国語などを次々とマスターしていった。もともと語学に対する資質に人一倍恵まれていた彼は、この時期にのちの一大飛躍につながる高い語学力を身につけることに成功したわけなのだが、それが将来どのように役立ちどのような展開につながるかなど、まだ当人には想像もつかないことであった。

しかし、大連における石田の平穏で満ち足りた生活とは裏腹に、国際情勢の不穏かつ複雑な動きはやがて第二次世界大戦の勃発へとつながる緊張を生み出していきつつもあった。一九四〇年九月、ベルリンで日独伊三国同盟が調印成立すると、国際間の緊張の度は一触即発の状態にまで高まった。すでに日本軍は南方資源の確保を目的に北部仏印(フランス領北ヴェトナム)を侵略し、国際戦線の拡大をはかりつつあった。三国による軍事同盟の合意内容は、日本、ドイツ、イタリアがアジアとヨーロッパにおける新秩序確立のための国家的活動をすること、つまりは周辺国家を侵略することを相互に認め合い、日中戦争や欧州の戦争にまだ参加していない第三国から日独伊同盟三国のいずれかが攻撃や干渉を受けた場合には相互に援助協力し合うことを約したものであった。

この日独伊三国軍事同盟の成立を境に米国の対日姿勢はいっきに硬化し、日米関係の悪化は決定的になってしまった。そしてその影響は徐々にだが石田の身辺にも及びはじめた。まだ日米開戦前年のことでもあったので、石田の勤める銀行の業務に直接的な支障は生じていなかったけれども、ますます日米関係の亀裂が深まり近々戦争さえも起こりかねないという状況になってきていたので、場合によってはナショナル・シティ・バンクの閉鎖や大連からの撤退もやむをえないとする空気が銀行幹部たちの間に流れはじめたことは確かだった。

ふと思い立って、石田は、民間人の立ち入りが厳しく制限されている大連西隣の軍港、旅順港周辺にも足を伸ばしてみることがあったが、遠目にもただならぬ緊張ぶりが窺われるばかりであった。平穏そのものの大連老虎灘での生活の背後に忍び寄る戦乱の影に、さしもの石田も次第に心を重くしていくばかりだった。だが、それでもまだ、数年後の母国日本やその国外占領地の悲惨このうえない姿にまでは想いを及ぼすことができなかった。

大連でのそんな石田の生活に大きな転換を迫る思わぬ出来事が起こったのは、それからほどなくのことであった。その当時、石田の勤める銀行では日本人を妻にもつコーカサス系の男性がブックキーパーとして働いていた。なかなかに有能な人物で、やはり老虎灘に住むその銀行員夫妻と若い石田との間には年齢差を超えた親交があった。そしてその夫妻の間には当時十八歳になるとても利発な美しい一人娘が存在した。その娘は日本語がうまかったうえに、二十四歳の石田とは年齢もそう違わなかったことから、二人はよくウマが合い、なにかにつけて一緒に遊んだり行動したりもしたものだった。彼女の両親もそんな二人を終始温かく見守り、とくにその行動をあれこれと干渉するようなことはなかった。

三方を山に囲まれた深い入江の老虎灘はこのうえなく変化に富んだ奇岩奇勝にも恵まれ、水がとても綺麗で海水浴や磯遊びなどにもってこいだったから、石田たちは周辺の磯辺でよく一緒に泳いだり、探検家気取りであちこちを散策をしてまわったりしたものだった。そのハーフの娘は美人だったばかりでなくとても気だてもよくて、口にこそ出しはしなかったものの、石田の胸中では彼女に対するひとかたならぬおもいが徐々にだが募っていきつつはあった。いっぽう、彼女のほうも、相手が知性的でハンサムなうえに若く有能な銀行マンとあっては何の不満のあろうはずもなく、時を追うに連れて内心では石田にぞっこんという感じになっていった。

だが、互いに好感を抱き合いながらも、ともに理知的で抑制のきく一面をもそなえていた二人は、一線を越えることはもちろん、ひとかたならぬお互いの慕いさえも伝え合うことはなく、いたずらに時を送るばかりであった。胸の内で真剣に相手のことを慕い合う男女の心理というものはもともとそういうものなのかもしれないが、石田のほうは彼女に対してはこれまでになく慎重だった。彼にすれば、相手が親しい職場の同僚のまだ純真な愛娘とあっては、そうそう安易に軽率な振舞いに出るわけにもいかないという事情もあって、いつになくおのれの心を律することしきりであった。

昭和十五年(一九四〇年)の夏も終わりに近いある休日のこと、彼女は、石田に向かって、二人だけで一日ゆっくり泳ぎにでもでかけないかと誘いかけてきた。よく晴れた静かな日のことで波も穏やかだったし、その無邪気にも見える呼びかけを断るような理由もとくになかったので、いつもの調子で彼は喜んで彼女の誘いに応じることにした。

すでに述べたように、黄海から寄せる荒潮によって侵食された奇岩が多数屹立する老虎灘一帯の景観は当時なかなかの偉容を呈してもいた。現在では近代的な観光地として道路や各種設備の整備が進み、大連周辺のリゾート地のひとつとして国内外から訪れる観光客も跡を絶たない状況になっているが、風光明媚で海水浴の適地であったとはいっても、その頃はたいへんに静かなところで特別な日をのぞいては人影もまばらであった。

軽食を用意し早朝に集落をあとにした石田たちは、入江沿いの静かな磯辺へと出た。そして、とくに人目につきにくい岩陰の地点を選んで水着に着替えると、二人並んで仲良く沖のほうへと泳ぎ出した。たまたま満潮前後の時間帯だったこともあって潮の流れは緩やかだった。

二人は互いに手を繋いだり離したりしてはしゃぎ戯れ合いながら、岸辺から少し離れたところに浮かぶ岩の小島へと泳ぎ渡った。小島に泳ぎ着くとすぐさま先に立った彼女は、意外なことに、水際からほぼ垂直に切り立つ高さ五メートルほどの崖をよじ登りはじめた。いったいどうするつもりなのだろうと石田のほうは一瞬戸惑いを覚えもしたが、彼女に促されるままにそのあとに続いた。まるであらかじめルートハンティングをすませてあったかのような彼女の軽やかで的確な動きの意味するところを、迂闊(うかつ)にもその時の石田はまだ察知していなかった。彼女のあとを追って這い上がったその小島の上部はやはり巨大な岩盤によって形成されてはいたが、予想外に小広くしかも平坦な地形になっていた。

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