ある奇人の生涯

13. 上海特急のロマンはいずこに?

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

石田はかねがね自分は人一倍悪運が強いのだと言ってはばからなかったが、天津で窮地に追い込まれたこのときでさえも天運はまだ彼を見放しはしなかった。もっとも、そんな強運の背景には、並外れた状況適応能力の高さと、非常事態に直面するほどに冷静さと沈着さを増すという彼の性格的な特質があったと言うことはできるかもしれない。裏を返せば、それは「行き当たりばったり」に振舞うことをなんとも思わない天性の資質でもあったのかもしれないが……。

石田はふるびた記憶の糸を丁寧に繋ぎ手繰るようにしながら、その後の事態の推移についてさらに語り続けた。

「頭を冷やしながらとりあえず天津の街を歩きまわりました。大金はすっかり盗まれてしまったんですが、幸いなことに、洋服のポケットの奥に盗られずにすんだお金がいくらか残ってましてね」
「その中国人の女性にも温情のかけらはなお残っていたということでしょうか?」
「さあ、それは……。ただ、そのお金のおかげで一時的に飢えだけは凌ぐことができました。人間、胃袋の中に何かはいっていさえたらそれほど絶望的になるものではありません」
「でもですねえ、現代では当面食べるだけのものはあっても近い将来の生活不安におののいて絶望する人々が少なくないですからねえ」
「まあ、時代や社会背景の違いということもあるんでしょうけれどね」
「それで、どうやってその窮地から?」
「知人はまったくいないし、たとえ誰かいたとしても下手に日本人と接触すればかえってまずい展開になってしまうかもしれませんでしたからね。でも、所持金も残りわずかということになると、当然、なんとかしなきゃならいっていう気持ちにはなります」
「まさか、また山下公園のときみたいに行き倒れになったんじゃないでしょうね!」
「自然と足は天津駅へと向かっていました。駅というものはいつも何かの始まりを暗示してくれますからね。終着駅っていう言葉もありますけど、その場合でも駅そのものが目的地であることはない……やっぱりそこから何かが始まるのが普通です」
「人生の終着駅は天国や地獄への旅路の始発駅っていうこともありますしね」
「駅のベンチに腰掛けてしばらく考えていました。特急で上海までいくつもりだったんですが、もうそれだけのお金の持ち合わせがない……、当面、上海行きはあきらめなければなりませんでした。もっとも、だからといって塘沽に近い天津に長居しているのは危険でしたしね」
 そう言い終えてから一口か二口紅茶をすすると、石田は再び口を開いた。相手に合わせてティー・カップを手にしていたこちらも、また耳をそばだてた。
「駅であらためて鉄道路線図や時刻表を見ているうちに、一刻も早く列車に乗ってとにかく持っているお金で行けるところまで行こう……あとのことはそれから考えることにしようかって……」
「また例の石田流の行き当たりばったり主義ですね!……あとは野となれ山となれっていうわけですか?」
「時刻表で確認すると、憧れの上海特急がまもなく発車することになっている。慌てて切符売場に行くと、有り金をはたいて青島(チンダオ)までの乗車券を買い求めました。上海行きはあきらめるしかないけど、せめて日本人が多く住む青島(チンダオ)まで行ければなんとかなるんじゃないかと考えたわけですね」
「それって、やっぱり、例のマリーネ・デイトリッヒ主演の映画『上海特急』の影響だったんでしょう?、映画の力って凄いですね!」
「もちろんあの映画のせいだったわけなんです。途中の済南(チーナン)まで上海特急に乗って南下し、済南で山東半島方面行きの普通列車に乗り換え、そこからひたすら東に向かうと青島に着くわけですが、そこまでの切符を買うと文字通りの文無しになってしまいました。天津から済南までの区間の上海特急も一番安い席にしたんですが……」
「それでも、とにかく念願の上海特急に乗ることができたわけですね。石田さんにすれば、満願成就じゃなくって半願成就ってところだったんでしょうが……」
「あの映画の助演者にアンナ・メイ・ウォンというすごく魅力的な中国人女優がいましてね。上海特急に乗ったらあんな素敵な女性に会えるんじゃないかって期待もしたわけです」

その言葉を聞いた途端、思わず意地悪な質問が口から飛び出した。

「だって石田さん、前夜、チャーミングな若い中国人女性にコロッと騙され大金を盗られたばかりだったんでしょう、なのに性懲りもなくそんな期待をもったんですか?……もう二度と中国美人の魅力的な笑顔には騙されないぞと心を引き締めたのかと思ったら!」
「ふふふふふ……、まあ男っていうものは何回騙されても懲りないものですからね。それに、中国人女性だってやっぱりほんとうに素敵な人もいますから……」
「それにしても立ち直りがあんまり早過ぎません?」
「いやいや、実を言いますとね、あそのあとが大変だったんですよ。マリーネ・デートリッヒもアンナ・メイ・ウォンもどっかいっちゃいましてね」
「とにかく石田さんが夢にまで見た上海特急に乗れたわけですね」
「ええ、切符を買ったのが発車五分前で、発車時刻ぎりぎりに列車に乗り込みました」

そこまで話を進めると、石田はあらためて記憶の整理でもするかのようにしばし口をつぐみ、遠い目をしてなにやら深い想いに沈んでいった。ビデオフィルムを前後に巻き動かしながらその中のある映像をを引き出すときのように、石田の脳裏では記憶の中の映像が時間軸にそって激しく行きつ戻りつしている感じだった。その様子をさりげなく眺めながら勝手に相手の胸中に想像をめぐらせていると、過去の時空への往復を終えたらしい石田は、あらためてこちらの顔を見つめなおすと再びその口を開いた。

「憧れの上海特急に飛び乗ったのはいいんですが、乗ってみて驚いたんですよ。こんなはずじゃなかったってね!」
「といいますと?」
「映画の中の上海特急はもっともっとロマンティックでした。マリーネ・デートリッヒもアンナ・メイ・ウォンもゆったりしたコンパートメントのやわらかいシートに腰をおろして、ほれぼれするほどに長くて美しい両脚をのばしていました。ですが、私の乗った車輛ときたら……」
「ちっともロマンティックなんかじゃなかったとか?」
「映画では、上海特急の機関車には大きな鐘がついていて、汽笛がわりにその鐘がカランカランと音を立てていあたのが印象的でした。牛が一頭前方の線路の真中にすわっていましてね、いくら鐘を鳴らしても動こうとしないシーンなどもありました。いかにも大陸的でのどかな感じの特急ですが、乗っているお客はスパイだのゲリラだので、結構ロマンとスリルとがありました」
「それで、石田さんの乗った現実の上海特急のほうはどうだったんです?」
「ぎゅうぎゅう詰めのゴミ箱みたいなものでした」
「じゃ、石田さんもとうとうゴミになってしまったわけですね。結局、上海特急にまで騙されたってわけですか?」
「ははははは……まあ、そういうことになりますね。ひとつの車輛が十区画くらいに仕切られていましたから、一応はコンパートメントだったのでしょうが、問題はそのお粗末さなんですよ。日本の普通の寝台車から清潔さ、やわらかさ、居心地のよさといったようなものを全部取り除いた状況を想像してみてください。それが私の乗った上海特急だったんですよ」
「うーん、なんとなくは想像がつきますが、いまひとつイメージが……」
「木製の骨組みだけで出来た小部屋といった感じで、寝台車の二段ベッドにあたる部分がベッドのかわりに木製の二段ベンチになっていました。要するに上下二段のベンチが向かい合わせになってになったかたちで、四つベンチが並んでいるわけですよ。みんな粗末な板張りで、もちろカーテンもクッションもありません。座席部の板だってそれ以上汚れようがないくらいに汚れていました」
「そんなにひどかったんですか?」
「しかも、それぞれのベンチには十人くらいの乗客が身を寄せ合うようにして腰掛けていました。だから、下のベンチに腰掛ける人たちの眼前には上のベンチに腰掛けている人たちの足先がぶらさがっている有様でした。しかも、向かい合うベンチとベンチの間の通路にも人が立っていました。そのうえ荷物がそこらじゅうに転がっていましてね。その荷物も、薄汚れた布で包んで簡単に紐でしばっただけのものや剥き出しのものなどがゴチャゴチャと置かれていました。人間と荷物とが区別もつかないほどに混在していたわけです」
「ワン・コンパートメントに人間だけでも四、五十人ですか!……それじゃ夢もロマンも一瞬にして吹き飛んでしまいますよね。それでどうなさったんですか?」
「ただただ呆気にとられて、人間と荷物の間に身を小さくして立ちすくんでいました。いつ列車が動き出したのかさえ憶えていません。列車が天津を出て二、三十分経つうちに、どういうわけか私は徐々に名ばかりのコンパートメントの奥のほうへと押しやられていきました。奥のほうというのは要するに窓ぎわのほうのことなんですが、これは不幸中の幸いでしたね。窓ぎわは多少なりとも空気の流通があるので息苦しさが緩和されたんです」
「憧れの上海特急に乗ったばかりに、酸素不足で息がつまり天国超特急になったりしたんじゃやりきれませんものね」
「本物の天国に行けるんだったら、そりゃ我慢もしましたけどね。アンナ・メイ・ウォンがブルゴーニュ産の高級ワインを注いでくれる秘密の楽園とか……」
「それじゃまるで、昔はやった歌の文句そのまんまの『天国よいとこ一度はおいで、酒はうまいし、姉ちゃんは美人だ……』の世界じゃないですか!」
「ははははは……。天国はともかく、さらにありがたかったのは、上段のベンチに腰掛けていた連中がより一段と身体を寄せ合って一人分のスペースをつくり、私に上がって腰掛けろと言ってくれたことです。言葉はわからなかったんですが、身振り手振りで言わんとするところは察しがつきました」
「そんな状況のもとではアンナ・メイ・ウォンの笑顔よりもそのほうがずっと有難かったとか?……まあ、まるで花より団子みたいな話ですね」
「それで、私は憶えたての片言『謝々』を繰り返しながら上段ベンチの窓ぎわに腰掛けたんです」
「ともかくも座席が確保できて一息つけたわけですね」
「ベンチに腰をおろすことができ、周囲の状況に馴れてくると、それまでの緊張が疲れとなってどっとあらわれ、眠くなってしまったんです。そのまま眠り込んでしまいました」
「気がついたら乗り換え駅の済南を過ぎてしまっていたとか?」
「いや、さすがにそれはなかったんですが、その前にもう一騒動あったんです。なにせ脱走中の身でしたからね」

相手の記憶の根底をできるかぎり揺すぶり、忘却の淵にある想い出をなんとか甦らせようとするこちらの魂胆を知ってか知らずか、次々に当時の出来事を脳裏に呼び戻しはじめたらしい石田の話はさらに続いた。

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