ある奇人の生涯

97. シェークスピアの生誕祭

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

4月下旬にもなると、エリザベス女王の戴冠式参列のため、日本の皇太子をはじめとする各国の元首や王族、代表者らが続々と渡英しはじめた。ちょうどその時期に重なる4月23日のこと、石田は毎年恒例の催物を取材するためにストラトフォード・アポン・エイヴォンへと出向いた。ロンドンの北西方向150キロほどのところに位置し、市内のパディントン駅から列車に乗り、オックスフォード経由で3時間ほどのところにあるこの町は、英国の誇る大文豪ウィリアム・シェークスピアの誕生の地にほかならなかった。4月23日はそのシェークスピアの生誕日にあたっており、毎年その日には生誕記念パレードやシェークスピア劇の記念公演などが大々的に催されることになっていた。

1564年の4月23日、静かに流れるエイヴォン川ぞいのこの町で、シェークスピアは羊毛商を営む父ジョンの三男として生まれたのだという。そして、1616年の4月23日に52歳で生誕地でもあるこの町でその生涯を終えたことになっている。生誕の日と死去の日がまったく同じ日付けになっているのは、実際には洗礼を受けた日と埋葬された日の記録しか残されていないため正確なことがわからず、やむなくして、意図的に誕生日と命日とを同じ日付けにしたものであるらしい。あまりにも偉大な文豪であるがゆえに、誕生日と命日とを別々にすると記念の催物ひとつをおこなうにしてもどちらの日にするべきかといったようなことで混乱なども生じかねなかっただろうから、おそらくは誰かが知恵をはたらかせ、そのような裁定をしたとによるものだったのだろう。

ストラトフォード・アポン・エイヴォンのホーリー・トリニティ教会に残されているシェークスピア一族の生誕洗礼記録に基づくと、彼は8人兄弟の3番目であったようである。当時としてはそれなりに裕福な家庭の生まれではあったようだが、兄弟が多かったせいもあってか高度な教育が受けられず、初等教育を終えるとすぐに家計を支えるために父親の仕事を手伝わされるようになっていたという。そのためであろうか、当時のヨーロッパの文学者には不可欠な教養でもあったラテン語の力は不十分で、ギリシャ語にいたってはほとんど理解できない状況であったらしい。後世のシェークスピアの姿からはまったく想像もつかないような悶々とした時代が彼にもあったようなのである。

シェークスピアは18歳のときに地元ハサウエイ家の出身で8歳年上のアンと結婚するが、20代半ばの頃に突然に単身で首都ロンドンに上ったのだった。その詳しい理由についてはいまもなお不明のままであるようだが、ロンドンに上った当初は劇場で馬の番人などを務めており、それがきっかけとなって演劇の世界にかかわるようになっていったという。やがてロンドンで大劇作家として名を成したシェークスピアは、33歳のときに当時のストラトフォード・アポン・エイヴォンで最も豪華だといわれていたニュー・プレイスを買い取った。そしてそれから13年を経た46歳の頃に帰郷し、それから他界するまでの6年間をストラトフォードのその邸宅で過ごしたのだった。

英国にやってきてからもう4年以上になっていたので、石田にすればシェークスピアゆかりのその地を訪ねるのは初めてのことではなかったが、静かで落ち着いたこの町の雰囲気はいつ訪ねても彼の心を深くやすらわせてくれるものではあった。ストラトフォード・アポン・エイヴォン駅のすぐ南側にある大通りにそって東のほうへと1キロほど進むと、町の名ともゆかりのあるエイヴォン川のほとりに出た。

エイヴォン川の河畔には赤レンガ造りのロイヤル・シェークスピア劇場があって、そのどことなくモダンなたたずまいはいつもながらに石田の心を魅了してやまなかった。クロプトン橋やバンクロフト・ガーデン付近の河岸からシェークスピア一族の眠るホーリー・トリニティー教会のある方角を眺めやると、両岸を緑の喬木で覆われたエイヴォン川の美しい水面の向こうに同教会の尖塔が鋭く天を指すように聳え立って見えた。何から何まで計算し尽くされたような構図をもつその光景に、この地を訪れた者は皆思わず息を呑むのが常でもあった。シェークスピアの作品中には聖書からの言葉の引用が多数見られもすることから、キリスト教の影響が色濃く影を落としているのが読み取れもするのだが、そんな作品を書いた彼を培い育てもしたこの町の精神風土の中核に、この教会の存在があったことは疑うべくもないことだった。

エイヴォン河畔のそんな風景にしばしのあいだ見惚れたあと、石田はもう一度駅方向へと引き返し、途中からシェークスピアの生家のあるヘンリー・ストリートへと足を向けた。ヘンリー・ストリート一帯に建ち並ぶチューダー王朝様式の家並みは見るからにノスタルジックな風情に彩られ、訪れる旅人の心をどこまでも惹きつけてやまなかった。2階建て木骨造りのシェークスピアの生家は当時の中産階級の住居の典型ともいうべきもので、彼はその家の2階で生まれたのだとのことだった。

その後は転々と人手に渡ったこともあって、外観はともかく、屋内は時代に合わせて改造に改造が加えられ、19世紀に至る頃にはシェークスピア一族が生活したときの状態はほとんど残されていなかった。しかし、1847年に英国政府の管理下におかれるようになってからは再改装がおこなわれ、シェークスピアが暮らしていた頃の住居の内装が忠実に再現されて、当時の生活の雰囲気の一端を偲ぶことができるようになった。シェークスピア劇の中の名文句のいくつかを想い起こしながら、石田はシェークスピアが18歳までを過ごしたというその建物のあちこちをこころゆくまで眺め回った。生誕祭の当日のこととあって普段よりは観光客の数も多かったが、まだ戦後8年ほどしか経っていない時期のこととあって、各国からの観光客がひっきりなしに押し寄せてくる現在のような賑いにはまだ程遠い時代のことであったから、それなりに落ち着いたひとときを過ごすこともできた。

チャペル・ストリートを南方向にすこしばかり下ったところには、シェークスピアが晩年の生活を送ったニュー・プレイスの屋敷跡があった。当時、ストラトフォード・アポン・エイヴォン随一の豪邸であったというその建物は1759年に取り壊されてしまい、すでにその土台とチューダー朝様式の庭園が残されているだけではあった。だが、永眠に至るまでの6年間に及ぶシェークスピアの生活ぶりに想いを馳せる石田にとっては、そのぶんだけかえって自由に想像力をめぐらせることもできるという側面もあったりした。

シェークスピアの時代のさまざまな住民の姿に扮したり、シェークスピア劇のいろいろな登場人物に扮したりした人々が、楽隊の奏でる音楽に合わせてそれぞれの役柄を演じながら古い街並みをパレードしたり、エイヴォン河畔の公園で当時の優雅な民族舞踊を繰り広げたりする有様は、日本人の石田にとってはことさら趣き深いものに感じられた。日本の伝統的なお祭りなどと一脈通じるところもあるかと思えば、逆にまったく異質な部分もあったりして、生来野次馬精神の旺盛な石田などは、その場に居合わせた多くのイギリス人観衆とは一味違う角度からその記念パレードの様子を楽しむこともできた。

もちろん、この日、ロイヤル・シェークスピア劇場ではシェークスピア劇が上演され、ロイヤルボックスにはマーガレット王女や訪英中の各国貴賓客らの姿なども見かけられた。ロイヤル・シェークスピア劇団によって生誕記念日に演じられる演目は一般にも広く知られている「リヤ王」「ロミオとジュリエット」「マクベス」。「ヘンリー四世」などといったような有名な作品中から選ばれるのが普通だった。日本歌舞伎をはじめとしもともと大の演劇好きだった石田は、渡英してからというもの、取材がらみでなくても折をみては何度もこの劇場に通い、シェークスピア劇の演目のほとんどを鑑賞していた。だから、この日の石田は、舞台上で演じられる演目の全体的なストーリーや華麗な演出の流れよりも、主役と脇役を含めた劇団俳優たちそれぞれの演技力や歌唱力に注目しながら観劇していた。

シェークスピア劇場の特別公演においてはいつもながらのことであったが、舞台上の演技者と観客とが完全に一体化したような独特の雰囲気が劇場全体に漂い、本場ならではの迫力と熱気と感動とがあますところなく醸し出されもしていた。そんな中で、彼がこの日とくに心惹かれたのは、脇役の一人ではあったが、デイヴィッドという若者の豊かな表現力と聴く者の胸に染み透るようなその美声であった。

観劇を終えロイヤル・シェークスピア劇場をあとにした石田は、エイヴォン川のほとりに出だ。そして、夕暮れ時の静かな水面に浮かぶ白鳥の姿をじっと眺めやっていた。すると、突然、彼の耳にどこからともなく聞き覚えのある美しい歌声が響いてきた。顔をあげてあたりを見回すと、ジーンズ姿の一人の若者が身体全体で調子をとり高らかな歌声を発しながら、石田が佇む河畔のほうへと近づいてくるところだった。なんと驚いたことに、その人物は先刻までシェークスピア劇場の舞台の上で熱演を披露していたあの若者にほかならなかった。

「デイヴィッド!」――石田がそう呼びかけると、その若者は歌うのをやめ、心底びっくりしたような表情を浮かべながら石田の顔にまじまじと見入った。この見知らぬ東洋人風の男がなぜ自分の名前を知っているのかと訝る様子がありありと読み取れた。

「さっきまで僕は、劇場であなたの演技に見惚れ、とくにその美声に惚れぼれとしながら聴き入っていたんですよ。だから、役柄のリストを見てあなたの名がデイヴィッドだということも知っていたんです」

石田がそう説明すると、相手の若者もすぐに表情をゆるめながらそれに応じた。

「なんだ!、そういうわけだったんですか。びっくりしましたよ。でも、いきなり僕の本名で呼びかけるなんて人が悪いですね」

「それにしても、舞台終演直後にあなたとこんなかたちでお会いできるなんて、ちょっとした奇跡ですねこれは……」

「ハハハハ……、そうですね。もし僕が歩きながら歌をうたっていなかったら、あなたも僕がシェークスピア劇団の一員だって気づかなかったかもしれませんよね」

「そうですね。僕のほうはエイヴォン川の白鳥に感謝しなきゃ……。ところで、僕はBBC日本語部の放送記者で、今日はシェークスピアの生誕祭の取材にやってきたんです。よかったら、ちょっと話でも聞かせてもらえませんか?」

「もちろん、OKですよ。これはもう奇遇としかいいようがありませんから」

意気投合した彼ら2人は、そのあと連れ立って近くのパブに入ってグラスを交わし、愉快な会話を延々と繰り広げながら、忘れ難い出逢いのひとときを送ったのだった。この若者ばかりでなく、ロイヤル・シェークスピア劇団の俳優らは主役脇役を問わずみなすこしも気取ったところなどなく、いったん舞台を離れると、庶民と同じごく質素な身なりに戻り、謙虚にそして気さくに振舞うのが常のようであった。

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