ある奇人の生涯

3. 偉大なる創造空間?

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

駐車場に戻り車の座席にすわると、老人は、今夜は自分の家に泊まっていかないかとあらためて尋ねてきた。この老人が何者かを知りたいという思いが先に立ちはじめていた私には、もはやその誘いを断る理由などなかった。それまでの会話の端々から、相手が並々ならぬ語学力をそなえもっているらしいことだけは推察できた。ただ、質素な独り暮しだが、毎週三日働き残り四日は精神を満たすためにのんびりと遊び楽しんで暮していると笑う老人の真の姿は、まだ私にはまったく見えてこなかった。

まずは夕食をとろうということになり、老人の案内で「天満沢」という穂高町の西部山麓道路沿いにある老舗の蕎麦屋に行くことにした。老人の住まいはその蕎麦屋から遠くない赤松林の中にあるという。天満沢に向う間も彼はウィットと風刺に富んだ言葉を連発し続けた。体内から自然に湧き上がってくる感じの示唆に富んだそれらの言葉に、日本人離れした発音のかなり特殊な英語やフランス語の単語が織り混ぜられることからすると、この奇妙な人物が海外での生活経験を豊かにそなえもつことは明らかだった。

大ザルに盛って出される天満沢の蕎麦は、さすがに美味だった。お店の座敷の窓越しに夕闇の迫る安曇野を眺めやると、灯りはじめたばかりの民家の明かりが、どこか愁いを漂わせながら点々と瞬き輝いて見えた。

蕎麦を食べながら、老人はごく最近も通りすがりの大学生をからかった話をした。穂高駅から大きなザックを背負って山麓方向へと向う見知らぬ若者に、「あなたは横浜国大の横沢さんですね。これから穂高ユースホステルにいらっしゃるんでしょう?」といきなり話かけたというのである。一面識もない老人に名前や所属大学、さらにはその時の行き先まで当てられた大学生のほうはさすがに仰天したらしい。穂高駅からザック姿の若者が夕刻に向う場所は十中八九はユースホステルに間違いないし、ザックには大学名と当人の名前がマジックで記されていたからというのがその一件のタネ明かしなのだが、老人はどうやらいつもこの調子で「旅人を食って」いるらしかった。

「僕はシャーロック・ホームズが好きでね。ホームズ流に言えば、 『My dear Watson, this is just elementary!(ワトソン君、これはごく初歩的なことでねえ!)』という訳ですよ」

相手は簡単に事の次第を説明したあと、笑いながらそう話を結んだが、この最後のさりげない一言には、ずっとあとになって思うと、この老人の不思議な人生の解明に役立つ重要なヒントが隠されていたのだった。しかしながら、その時の私にはまだその言葉の背景を的確に読み取ることはできなかった。現代のホームズにはとてもなれそうにないというのはこの一事からしても明らかだった。

そば屋を出た私は案内されるままに老人の家へと向った。北アルプス山麓の深い赤松林の中にある洋風の屋敷には見るからに妖しげな気配が立ち込めていた。一瞬私はドラキュラ屋敷を連想したが、いまさら引き返す訳にもいかない。意を決した私は玄関の扉をおもむろに引き開けて家の中へと入っていった。

平屋造りの建物の中は簡素だが天井の高い洋風の構えになっていた。調度類もアンティークなものから現代風のものまでがいろいろと並んでいたが、明きらかに異国風のものが多かった。ただ西洋風の調度品ばかりでなく、東南アジアや中東風、さらにはアフリカ風やラテンアメリカ風の調度類までがいりまじっている感じでもあった。そして、この雰囲気からするとだとすくなくとも和風の妖怪は棲みついていように思われた。また、極力明るさを抑えた照明が室内に絶妙な陰翳を生み出しているのを見れば、この老人の美的センスの高さがおのずから偲ばれもするのだった。

いったんロングチェアに腰をおろして短い会話を交えたあと、私はトイレに立とうとした。すると、老人は、「この家のトイレにはいったら一時間は出てこられませんよ!」と言って意味ありげに笑った。案内されたトイレの前に立つと、なんとドアに「WORKS CREATIVE」と記されているではないか。WとCだけは赤い文字にしてもある。おなじ「W・C」でもこの「W・C」は、「創造的な作品群」あるいは「創造的な仕事の産物」であり、また「創造的な仕事の場」でもあるということらしいのだ。どれどれとばかりにドアを開けて一歩中に踏み込んだ私は、思わず驚嘆の声をあげそうになった。

広々とした造りのトイレの中央には西洋式の便器があり、その左手には木の棚があって、面白そうな本が何冊も並んでいた。簡単なメモ用ノートらしいものもある。便座にすわったままで本を手に取って読書に耽ったり、思策のすえにウーンとばかりに絞り出した独創的なアイディアをメモしたりもできるわけだ。ただ、そこまでならたまにある話で、そう驚くほどのことではない。私が目を奪われたのはドアの裏面を含めた前後左右の壁面と天井の五面の様相だった。

それらの面には珍しい大小のポスターや写真類、絵葉書類などが見事な構成と配列で貼りめぐらされていたのである。詩情豊かな自然の風物や海外の名所旧跡などの絵や写真、それぞれに物語を秘めた様々な男女の珍しい写真、さらに、見るからに独創的な芸術作品の写真や何枚かの美術展の酒落たポスターと、どの一枚いちまいをとっても、なんともいえないほどに味のあるものばかりだった。大小合わせれば二、三百枚はあろうかと思われる絵葉書や写真、ポスターなどが、オランダあたりの美しい花壇を連想させる構成とデザインで五つの面いっぱいに貼られている有様は、壮観の一語に尽きた。右側の壁面には手造りの文字盤をもつ花時計風の時計まで備えられており、まさにそれは「創造的作品」とでも呼ぶにふさわしいものであった。

私はとりあえず便座に腰掛けはしたものの、本来のその空間の用途など忘れてしまった状態で天井や四方の壁を順々に見回した。なるほど、こんな調子で絵や写真の一枚いちまいを眺めていたら、それだけでも一時間くらいはすぐに経ってしまうに違いない。そんなことを考えながら前方を見上げると、一枚の大きなポスター風写真が目にとまった。黒いグラスをかけた老人とおぼしき人物が風のような動きを見せて地上を走っている風変わりな写真である。写真の中の人物は不思議なまでの存在感と、それとは相反する不気味なほどに変幻自在な多様性とを同時に持ち具えているかのようだった。

しかも、驚いたことに、よく見るとその人物はほかならぬこの家の当主そのものだったのだ。老人の本質を見事に撮りきった写真家もさるものなら、このような不思議な動きを苦もなくやってのけるモデルのほうも相当なものである。私の好奇心はいやがうえにも掻き立てられるばかりだった。「トポスの復権」というタイトルの入ったポスターに目が行ったときも、私は思わずニヤリとした。「トポス」とは「場所」という意味である。老人はその美学に即し「トイレという場所の復権」を暗に唱えようとしていたのだろう。

ようやく本来の目的を想い出した私は、その一件を片付けたあと、何気なくロールペーパーに手を伸ばし、その一部をちぎりとった。そしてそれに目をやった途端、呆気にとられて、またもや息を呑み込む有様だった。なんとその紙片には青い色で英語のクロスワードパズルが印刷されていたのである。チャレンジされたからには受けて立つほかはない。かくして私はトイレからの脱出をはかるために難解なパズルに挑むという思わぬ事態に追い込まれるはめになった。

日本語のものだってクロスワードパズルはそれなりに難しい。まして英語のクロスワードパズルとなると、短時間での完答は容易ではない。しばらく考えてはみたが、どうしてもわからないところがある。このままだと夜が明けるまでこの便座に腰かけたままでいなければならない。この「WORKS・CREATIVE」空間のなかで、いつまでもロダンの「考える人」をみっともなくデフォルメしたような格好を続けていたら、私自身が老人の芸術作品の一部と化してしまうだろう。やむなく意を決した私は、三、四シート分のクロスワードパズルを犠牲にすると、新たにちぎりとった一枚のクロスワードパズルを手にしてトイレを出た。

おそらくは内心でニヤニヤしながらお茶の用意をしていた老人は、クロスワードパズルつきのロールペパーの切れ端を手にした私の姿を目にすると、
「ずいぶんとごゆっくりでしたねえ……私の創造空間を楽しんでもらえましたか?」
と愉快そうに訊ねてきた。

「ええ、存分に……。もうちょっとで便座にすわったまま硬直していたら、新作『考えるアホ』になってしまうところでした」
「ははは……で、そのクロスワードパズルは解けたんですか?」 
「いや、それがまだなんですよ。せっかくですからお茶でも頂戴しながらゆっくり解いて、それからまたトイレに戻って排泄口を拭いてくることにします。その間しばし御迷惑をおかけしますが……」 
「せっかく万水川の水で身についた泥を落としてもらいましたのにねえ。困ったもんですねえ……」
「こちらもちょっとくらいは防御策を講じておきませんとねえ」

そんなとりとめもないそんな言葉を交わしながら、我々はテーブルに着いた。紅茶を出してくれた老人は、カップの中のお湯にティーバッグをしばらく浸したあと、スプーンの先にティーバッグ本体をのせ、その上に馴れた手つきで付属の糸をぐるぐると巻きつけた。そして器用にティーバッグに残る水分を絞り出してみせた。
「ティーバッグ紅茶を使うときは、こうすると成分がうまく外に出るし、カップから出したあともベチャベチャしない。よく水切れしているから、もう一度使うときも都合がいいんですよ。まあ、以前は向こうにもティーバッグなんてものはありませんでしたけれどね。私も紅茶にはずいぶんとお世話になりましたから……」

感心してその手捌きを見つめる私に、相手はそう説明してくれた。ティーカップを持つときの慣れた手つきや「向こうにも」というその言葉のあやからしても、この老人が海外生活、おそらくは英国での生活体験をもつことは推測できた。

刻々と時をきざむ時計の針の動きとともに戸外の闇はどこまでも深まり、その闇の吐き出す黒い霧によってこの屋敷だけが外界から包み隠され、異次元の底へと沈み込んでいくみたいであった。どこか屋敷の近いところを流れているらしい小川のせせらぎの音だけが、この異界を現実界とをつなぐ唯一の細い糸のようにさえ感じられた。

その晩、我々は夜を徹して奇妙な対話を繰り広げた。嘘のなかの嘘にもみえて、この世でいちばんの真実のような、大詐欺師同士の対決にも似て、実は聖なる二人の高談のような、それはそれはなんとも不思議な歓談だった。対話の途中で何気なく席をはずした老人は、上質の厚い黒毛布を二つ折りにし、折り目の中央付近を首穴として切り抜き仕立てた手製のドラキュラ風マントに着替えてふいに現われ、私の背筋をぞくりとさせた。

二本の牙こそはえていなかったが、その風貌には映画で見る晩年のドラキュラ伯爵にも似た凄みがあった。しかも、屋敷の周辺に広がる深い林のどこかでフクロウが鳴くという望外のおまけまでがつく有様だった。どうやら、この魔宮から抜け出し、日常世界へと無事生還を遂げるには、こちらもそれなりの覚悟を決めて相手を化かし返すしかないように思われた。

盤面を激しく跳ねまわるパチンコの玉のように話はあちこちへ飛んだ。老人は想像以上に博識だった。その口からは、戦前の博多、京都、東京、さらには中国の青島、大連、上海での体験談や、戦後間もない頃の英国での生活体験についての話もでた。コナンドイル、アガサ・クリスティ、サマセット・モームなどをはじめとする英米文学作品についての造詣も驚くほどに深かったし、語学一般についての知識も並々ならぬものがあった。また芸術や文化について語るときの一語一語には、カミソリのような鋭さとナタのような重量感とが同時に込められている感じだった。その表現は日本人離れしたウィットとアイロニイに富んでいた。思わぬところで思わぬ有名人との出逢いの話が飛び出したり、歴史的な出来事に遭遇したときの想い出話が出たりして、私は何度も我が耳を疑うばかりだった。しかし、老人の言葉とその口調や表情には、現実にそれらを体験した者にしかもち得ないような、動かし難い真実味と重々しさが秘められていた。

嘘のようにみえて真実のような、真実のようにみえて嘘のような、どちらともつかない言葉のモザイク模様の中をさまよううちに、私は、モームの短編小説の世界の中に迷い込んでしまったような気分にもなってきた。目の前の人物が、嘘を真実に、真実を嘘に見せる天才ストーリー・テラーのサマセット・モームその人ではないかという錯覚さえおぼえるほどだったのだ。

寝室と書斎を兼ねた老人専用の部屋の壁には、国内外で広く活躍する芸術家、谷内庸夫の紙彫刻作品や、雑誌などでも知られる写真家、市川勝弘の作品などが配されていた。どうやらこの二人の若手芸術家たちも折々この穂高の「伏魔殿」に出入りしているらしかった。かつて彼らも、このドラキュラ老人の餌食になったのが縁でここを訪ねるようになったのだという。老人をモデルにしたトイレの中のあの不思議な写真は、カメラマンの市川が彼独特の手法で撮映したものだったのだ。

壁面の一隅には地元で建設業を営む素人カメラマンの作品だというモノクロの写真も飾られていた。花の蜜を吸う一匹の蝶が逆光に浮かぶ様子を撮影したものだが、その作品全体にはなんとも言えない生命の躍動感と体内の奥深いところを揺さぶる不思議なエロスが漂っていた。蝶と花と光と影という個々の構成要素が微妙に作用し合い、全体として美しい女体の肌を連想させるようなこの写真作品を、以前私はどこかで見かけたような気がしたが、その記憶はさだかではなかった。いずれにしろ、このような作品をさりげなく書斎に飾る老人の美的感覚は、なまじのものではないと思われた。

部屋の別の壁面には老人自身の作という一篇の酒落た英語詩「TREE」が黒のマジックでしるされもしていた。そして、その左手には、万歩計で測った日々の歩行の数を独自の処理法で樹形図化した不思議な模様が描かれていた。よく見ると横軸には日付を、縦軸には歩行距離数を配した一種のグラフになっていて、そのグラフの上辺のあちらこちらに赤い小さなマークがついていた。その意味を訊ねた私に、老人はいたずらっぽく笑いながら、本音とも冗談ともつかぬ調子で、それは性的衝動を覚えた日をマークしたものだと答えてくれた。

仕事用のデスクの上にさりげなく目をやると、何冊かの英文学の原書が置かれており、そのうちの一冊は開かれたままになっていた。それは「野郎どもと女たち」などの著作で知られるデーモン・ラニアンの作品のひとつで、どうやら翻訳作業の途中のようだった。話の端々から、英語がらみの仕事に相当関ってきたらしいことは推測できたが、書斎周辺の情況から察すると、どこにでもいるようなレベルのいわゆる「英語屋」ではなさそうだった。私自身も多少は海外著作物の翻訳経験もあり、英語でレポートを書く程度のことはやっていたので、そのことだけはすぐに想像がついた。

カテゴリー ある奇人の生涯. Bookmark the permalink.