石田が上海に渡った翌年の一九四一年には満州映画協会の専属女優李香蘭と東宝の人気スター長谷川一夫とが共演した映画「支那の夜」が日本国内で大ヒットし、その哀調を秘めた主題歌「蘇州夜曲」は国内外で大流行をきたした。その頃すでに上海を拠点に活動していた李香蘭はこの年の二月に東京日劇に出演したが、各種規制の厳しくなってきていた国内事情にもかかわらず開場一時間前から観衆が殺到し、劇場周辺は大混乱に陥った。
その顔立ちからして当時は中国人だと思われていた彼女は、李香蘭という女優名で一世を風靡したのだが、実は満州生まれの日本人であった。山口淑子という本名が明かされたのは戦後になってからのことで、その後彼女は母国で国会議員となって活躍するようになるのだが、当時はまだごく一部の関係者を除いてその素顔を知る者はいなかった。のちに上海で李香蘭と直に接する機会に恵まれることになる石田にとっても、その時はまだ彼女は雲の上の存在に等しかった。
上海に渡った翌年の秋のこと、海軍武官府上司の配慮によって、石田は海軍の飛行艇に乗り一時的に本国に帰国する機会を得た。初めて乗る飛行艇の乗り心地は想像していたほどに快適とは言えなかったし、眼下の眺望を存分に楽しむことのできるような状況でもなかったが、現代と違い航空兵をのぞいて特別なポストにでも就いていないかぎり航空機に搭乗することなど不可能な時代だったので、彼の感動はひとしおだった。荒波を掻き分けて海上を航行する船などとは違って、驚くほど短時間で眼下に広がる東シナ海を一跨ぎし、本土上空へと到達したのも驚きだった。
ごく短期の本土滞在ではあったが、この時久々に目にした日本社会の変容ぶりに石田は少なからず衝撃を覚えた。彼が大陸に渡って生活するようになってから四年足らずのうちに、日本の社会は信じ難いほどに厳しい統制下におかれてしまっていたからだった。新聞報道や人々の噂によってある程度予想はしていたものの、上海という当時東アジアで一、二を誇る国際都市に住みはじめた者の目からすれば、軍国色一色に染まった日本社会の有様は善くも悪しくも異様そのものに感じられた。
それまでの小学校は国民学校と改名され、「皇国民の錬成」が初等教育の第一目標に掲げられるいっぽう、児童らは少国民などと呼ばれ、錬成の名のもとに学校生活のすべてを管理統制されるようになっていた。また、日中戦争の長期化と拡大にともなう物資統制や大量徴兵のため、各種肥料や農業労働力が極度に不足し、それに旱魃による不作なども加わって米穀の生産量が激減していた。そのため厳しい配給制度が設けられ、米穀類ばかりでなく、木炭、酒、砂糖、マッチ、食用油などの生活用品すべての流通が通帳制や切符制によって管理されるようになっていた。
巷では「八紘一宇」の精神とその延長上にある「進め一億、火の玉だ!」のスローガンが高らかに唱えられ、共同体の強化と思想統制、国民の相互監視を狙った隣組制度なども発足していた。また、厚生省は「優生結婚報国」の文字入りポスターの掲示を全国的に展開し、強壮な日本国民を育てるため「健全な男女同士の結婚」を奨励、そのために国民優生法という法律を制定施行するまでに至っていた。
そんな国内の変貌ぶりをつぶさに目にした石田は、内心、もしも自分のような人間がこのまま本土に定住し生活するようになったりしたら、軟弱な敵性思想をもつ非国民として徹底的に糾弾されることは間違いないだろうと思うのだった。そして、奇跡とも思われる気まぐれな運命の導きによってたまたま自分が上海という異郷の地に在留していることを心底有り難く感じもした。本国の人々の容易ならぬ生活状況を無言の内に察知した彼は、息苦しく逼迫した日々を送る母親と妹二人の心中を想い、彼女らを上海に呼ぼうと決意した。いったんそう意を固めると三人を説得しただちにその手筈を整えるのにそう時間はかからなかった。
幸いこの時期邦人が大陸に移住することは国策として奨励されてもいたし、とくに身内が先に大陸に居留している場合などはとくに渡航が容易だったから、格別問題になるようなことは何もなかった。当面、経済的にも安定はしていたから、しばらくは家族の面倒をみることも可能であった。一時帰国を終え石田が上海へと戻ってしばらくしてから、彼の家族三人は上海へと渡ってきた。彼は家族との同居は考えず、別に部屋を探してやりそこに彼女らを住まわせた。異国の地への突然の移住であったにもかかわらず、家族らの顔が本土にいる時よりも明るく生気に満ちて見えることが彼にはとても嬉しかった。
しかしながら、石田の家族が上海に移ってきて間もないこの年の十月、日本国内で想わぬ事態が発生した。いわゆる、ゾルゲ・スパイ事件の発覚と、それに伴う二人の大物被疑者の逮捕がそれであった。朝日新聞社の特派員として上海に派遣されていた尾崎秀実は、コミンテルンから対日情報収集のために同じく上海に派遣され、中国の左翼文化運動にも加わっていたリヒャルト・ゾルゲと知り合い、深く意を通じ合うようになった。その後日本に渡ったゾルゲは駐日ドイツ大使館顧問の要職におさまり、いっぽうの尾崎は近衛内閣の嘱託となった。
尾崎秀実は日本政府の軍事政策とそれに基づく日本軍の動向を察知して事実上ソ連のスパイだったゾルゲに伝え、ゾルゲを介してその情報はさらにソ連当局へと伝達された。リヒャルト・ゾルゲの最大の任務は、ソ連がドイツと開戦した場合に日本が日ソ中立条約を破棄して背後からソ連侵攻に踏み切るかどうかを探知することであった。ゾルゲは尾崎秀実を通して得られる情報やドイツ大使館の動向、日本国内世論の論調、日本の対米関係などを総合して一九四一年中には少なくとも日本軍の対ソ侵攻はないと判断し、その旨をモスクワのソ連政府に打電通報したのだった。このゾルゲからもたらされた情報により、ソ連は全軍をヨーロッパの対独戦線に投入することができたとも言われている。
関係者の動向を内偵しスパイ容疑を固めた日本政府当局は、まず尾崎秀実を検挙、続いてリヒャルト・ゾルゲを検挙し、治安維持法、国防保安法、軍機密保護法等違反の罪状で告訴した。ゾルゲ・スパイ事件の発覚は必然的に外国人との接触を持つ日本人の監督と監視視強化へとつながり、当然その影響は上海の日本人社会にも及ぶところとなっていった。尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲはそれから二年四ヶ月後の一九九四四年二月に処刑された。
むろんゾルゲ事件の詳細については何も知らされていなかったし、たとえある程度の状況を知っていたとしても、直接その事件が海軍武官府での自分の仕事に影響を及ぼすことになろうなどとは、その時の石田には想像もつかなかいことだった。だが、ずっとあとになってからよく考えてみると、上海の海軍武官府での仕事がなんとなくギクシャクしはじめたのはゾルゲスパイ事件発覚後しばらくしてからのことであった。まず外部から持ち込まれてくる英文関係の情報資料が激減した。さらにまた、なぜか海軍武官府の軍人上司との意思の疎通がそれまでほどスムーズではなくなってきた。時折、上海在住の欧米人と接触して米英両国の世論や軍事的動向についてなんらかの情報を直接聞き出せないかとも持ちかけられたが、その指示にはどこか取ってつけたようなところがあり不自然な感じだった。そもそも、諜報活動のイロハも知らない素人の身に重要情報の収集などできるはずもなかった。
十二月に入ってほどなく、突然石田は海軍武官府での定期的な仕事を解かれた。業務上助力が必要な時は臨時で働いてもらうようにしたいし、なにかの都合で海軍武官府による身分保証等が必要な場合にはいつでも遠慮なく相談にくるようにとのことではあったが、表向きのそんな言葉の裏になにか特別な事情があるらしいという推測だけはついた。ただ、武官府での定期業務を解かれたほんとうの理由については知るよしもなかった。
ずいぶんと時間が経ってからすべての事態が明らかになるのだが、この時期、上海の海軍武官府や日本領事館幹部、駐留日本陸軍幹部らは大変な緊張状態に置かれいた。かなり以前から対米関係が一触即発の状態にあるらしいことがそれとなく伝わってきていたからである。ゾルゲ事件のような事件の芽をあらかじめ摘むためにも、重要情報をもつ日本人が外国人といたずらに接触して情報を流すことや、逆に日本にとって不利な情報などを日本人が外国人から伝え聞くようなことだけはどうしても防がなければならなかった。
また、近々日米が開戦するに至れば、その時点で上海の英米共同租界やフランス租界には日本軍が進駐し、事実上その支配化におかれることは必然だった。そうなると、もはや海軍武官府による上海での米英諸国の情報収集が意味をなさなくなるのも当然の成り行きだった。さらに、上海が完全に日本軍の支配下に入れば、本土からそれまで以上に日本人が大量流入するのは目に見えており、いっそうの情報の管理統制を進めていく必要上からも、海外情報の収集能力の高い民間人が米英メディアなどの重要情報源に接することができるような状況は極力排除しなければならなかった。
石田自身は武官府での定職を解かれた理由を「自分にはジェームズ・ボンドばりのスパイの能力がなかったからですよ」と笑いながら説明してくれたが、突然の解雇通告の背景にはそのような抜き差しならぬ様々な国家的事情があったものと思われる。海軍武官府での高報酬の仕事のため当面の暮らしを凌ぐげるくらいの貯えはあったから、すぐにも別の仕事を探さなければならないような状況ではなかったが、いずれにしても新たな仕事の展開を考えなければならないことだけは確かだった。
そして、「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号打電に続き「トラトラトラ」の暗号返電が空中に飛び交うことになった運命の日、一九四一年十二月八日が訪れたのは、彼が海軍武官府での英文モニターや英文翻訳の任務を解かれてからわずか四日後のことだった。