ある奇人の生涯

114. 新天地松本へ移住

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

一九五九年は明るいニュースの多い年であった。この年から翌々年の一九六一年にかけて、日本の産業界には再び一大好況の時代が訪れた。史上まれに見るようなこの時代の大繁栄ぶりは「岩戸景気」と名づけられた。それに先立つ一九五六年の「神武景気」を受け、さらにそれを上回る高天原の天岩戸神話以来の好景気という意味を込めてそんな呼び名がつけられたのであった。産業界の設備投資は神武景気の時代よりも一段と活発になり、輸出額や個人消費額も飛躍的に増大し、社会の需要も多様化の一途を辿りはじめた。岸内閣の蔵相池田隼人が政財界さらには国民に向けて所得倍増計画の推進を提唱しはじめたのもこの年のことであった。まるで近年の中国の状況さながらの経済成長と社会の発展ぶりであった。

前年の十一月に婚約が発表されていた皇太子明仁親王(現天皇)と民間実業家の息女正田美智子嬢(現皇后)との御成婚の儀が催されたのはこの年の四月十日のことだった。その模様は大々的にテレビ中継されると報じられていたことも影響したのであろう、四月を前にして国内のテレビの保有台数は二倍に増加し、御成婚当日は千五百万人もの国民がテレビの前に釘付けになる有様だった。もちろん、石田もテレビでその盛大な儀式の一部始終を見守っていたが、エリザベス女王の戴冠式参列のために渡英した若い皇太子を案内し、ロンドンの街中を共に歩きまわった想い出をもつ彼にすれば、なんとも感慨深い出来事であった。

実業界に名を知られるそれなりの家柄の出であったとはいえ、元華族などの出身者からではなく、一般国民の中から、それも皇太子ご自身の意思で美智子妃を選ばれたということには、石田もたいへんに好感を覚えたものだった。国民の一部には、「皇太子が平民出身のお妃をもらうなんて、もう日本も終わりだ」といったごとき悲憤の言葉を発しながら、一時代前の階級差別意識を剥き出しにしてその御成婚を批判する旧態然とした類の人々もなお存在していたが、大多数の国民がその御成婚を心から祝っているのは傍目にも明らかだった。ましてや、国民に開かれたイギリス王室の姿を長年にわたって直接に取材し続け、ロンドンの街中を嬉々として自由に歩きまわる人間皇太子の姿をも目にしたことのある石田には、今後の日本の皇室のありかたに新風を吹き込む意味でも、画期的な出来事であるように思われてならなかった。

国内の好景気を反映してか、社会文化や社会風俗にさまざまな変化が生じたのもこの年の特徴だった。「黒いブーム」とでも呼ぶべきか、スキーの名選手でもあったトニー・ザイラー主演の映画「黒い稲妻」は、ザイラー自身の来日もあって熱狂的なザイラー・ブームを惹き起こし、水原弘のデビュー曲「黒いはなびら」が一世を風靡したりもした。また、松本清張の推理作品シリーズ「黒い画集」が大ベストセラーとなり、米軍のスパイ偵察機U2が「黒いジェット機」として大いに世間を騒がせた。

経済繁栄にともない都市部などに形成されはじめた富裕階層の子息や子女を対象に、幼稚園から大学までを入学試験なしでエスカレータ式に進学できる慶応、学習院、立教などの名門私学コースが誕生、それらの私学に我が子を入学させようとやっきになる特権階層の親たちは、羨望と皮肉とを交えてエスカレ族などとも呼ばれるようになった。だが、そのいっぽうで、大学進学熱もまた全国的に高まりを見せるようになり、大学受験競争はそれまでになく熾烈をきわめるようになっていった。三時間睡眠で受験勉強に取り組めば合格するが、四時間睡眠の場合だと不合格になってしまうという意味の「三当四落」という言葉や、一年浪人合格者を表す「イチロー君」、二年浪人合格者のことをさす「ジロー君」といった言葉が流行したのはそんな社会背景があってのことだった。ただ、どんな熾烈な競争があるにしろ、またどんなに苦学を強いられる状況におかれるにしろ、大学進学の門戸が広く庶民にも開かれるようになった新時代の到来を、自らの青春期の状況を顧みながら、石田は羨ましくも思うのだった。

カミナリ族と呼ばれるのちの暴走族の元祖ともいうべき若者集団の出現にもこの時代の高度経済繁栄は一役買っていた。ナナハンと呼ばれるエンジン容量七五〇CCの大型バイクをはじめとする各種バイクが続々と登場、轟音を立てながら集団でそれらのバイクに乗って街中を走り回る若者らの姿は、良くも悪くもその時代を反映するものであった。彼らカミナリ族の撒き散らす騒音はやがて社会問題にもなっていったが、生来好奇心旺盛で若者の文化には極力柔軟な対応を見せてきた石田自身は、自らもバイクに跨って路上を疾走したい気分に駆られることもなくはなかった。だが、おのれの歳を考えるとさすがにそれだけは断念せざるをえなかった。また、そんな若者らがとくに愛読するようになったのが、やはりこの年に創刊された初の少年漫画週刊誌「少年マガジン」と「少年サンデー」であった。講談社と小学館が三月に同時発売したこの二誌は、少年ばかりでなく成人層にも広く読み親しまれるようになり、やがて漫画誌全盛の時代を築き上げていくことになった。

石田が東京を離れ、信州松本に移り住むことを決意したのは、そんな日本社会の流れが加速し、それにともなう様々な問題なども浮上しはじめた一九五九年の終わりも近い頃のことであった。翌年早々に東京での生活絡みの雑事を整理し終えた石田は、松本市内の状況に詳しい加島からのアドバイスのもと、信州大学からも遠くない松本市北東部浅間温泉周辺の高台の一角に転居した。そして、そこで加島祥造や東京の大久保康雄から依頼される各種翻訳の仕事に精を出すようになっていった。また、「鈴木メソッド」として知られる英才教育法を確立し、バイオリンなどをはじめとする音楽の英才教育実践者として世界的に名を馳せるようになっていた鈴木慎一の知遇を得、その英才教育の一端を自ら担うようにもなった。

石田が担当したのは英語教育部門で、幼稚園児からその父兄らにいたるまでの英会話指導や英文講読を担当した。当時、地方にはちゃんとした英会話を指導できる人材が皆無に近い状況だったし、鈴木慎一の英才教育の一環ということもあって、石田の担当するその英語教育部門は予想以上に評判を呼んだ。口こみその他で噂が広まると、周辺家庭の子供たちは言うに及ばず、信州大学教授夫人や助教授夫人らのような松本の知識階級に属するような人々までが彼のもとに通ってくるようになり、ほどなく生活には困らないくらいの収入を得ることができるようにもなった。

松本を中心とする安曇野の風土や、そこに住む人々の気質は石田の好みに十分応えてくれるようなものだった。東京などに較べて水も空気も各段に美味かったし、街中や野山の散策を気ままに楽しんだり、のんびりと近くの温泉につかったりしながら、とことん心のやすらぎを求めることもできた。松本城周辺や松本深志一帯の落ち着いた街並みの雰囲気も思いのほか気に入った。朝な夕な目にする北アルプス連峰の雄大な山影も、またその稜線上に広がる朝焼け空や夕焼け空の神々しい輝きも、そして野の緑も大小の清流も彼にはこのうえなく素晴らしいものに感じられた。もともと一帯には新鮮な食材が豊富だったし、英語を習いに通う人々がいろいろと地元の産物などを持参してくれるので、手料理がとても得意な石田には好都合なことこのうえなかった。信州全体に言えることでもあるようだったが、人々が教育に熱心で、その職業や生活レベルなどにかかわりなく、家庭を持つようになっても何かを学び続けようとする気概をけっして失うことがないのも石田がすくなからず感銘を覚えたところだった。

石田があとにしてきた東京では、経済繁栄のいっぽうで岸内閣による日米安全保障条約改定の動きに対し、国民的な激しい反対運動、いわゆる安保闘争が巻き起こっていた。国内外からの猛烈な批判などもあって安保改定案の審議は難航、業を煮やした岸内閣は五月二十日未明、衆議院本会議においてついに同案の強行採決に踏み切った。そして、そのために大々的な抗議デモが起こり、国会議事堂周辺は連日多数のデモ隊に取り巻かれ、警備にあたる警察機動隊との間で激しい衝突が繰り返されるようになった。運命の六月十五日には全国で五八〇万人もの人々が抗議デモに参加し、全学連主流派が国会突入をはかって警官隊と激突し、当時の東大生かんば樺美智子が死亡するという大事件が発生した。結局、新たな安全保障条約は多くの国民の反対の声を押し切るかたちで十九日午前零時を期して自然成立をみたが、その直後に国をあげての一連の安保騒動の責任をとるかたちで岸内閣は総辞職した。

岸信介のあとうけて内閣総理大臣に就任した池田隼人は、安保騒動の余波を巧みにかわすかのように持ち前の所得倍増論を本格的に打ち出し、国民にバラ色ムードを振り撒いた。国民総生産の年平均成長率が十・九%という驚異的なまでの高度成長はともかくも物的な貧困から人々を解放し、それを契機に、欧米諸国をも凌ぐ経済大国の実現を目指して全国民が一丸となって走り出す結果になったため、この時期を境にして全学連の若者たちを主体にした政治の季節は盛りを過ぎ、安保問題で最大の盛り上がりをみせた反政府運動は次第に下火へと向かうことになったのだった。

すでに松本に移っていた石田は、かつてイギリスで見聞したさまざまな社会運動や抗議運動の様子と、新聞やテレビ・ラジオによって報じられる一連の安保騒動の有様とを想い較べつつ、その成り行きを遠くから眺めるばかりだった。そして、そうしながら、今後自分は新たな社会の流れからは一定の距離を保ち、一時的な世の動向などにはいっさい左右されることなく、身辺を取り巻く日々のささやかな出来事のなかに楽しみや生き甲斐を見出しながら暮していこうと決意するのだった。それは、彼の人生観と行動理念の「動」から「静」への一大転換を意味していた。

この年の十月十二日、東京日比谷の公会堂では自民、社会、民社各党の三党首による立会演説会が開催されていた。そして、社会党委員長浅沼稲次郎は、演説中に突如壇上に駆け上った十七歳の右翼少年山口おとや二矢によって刺殺された。山口はそれからほどなく獄中で自害し、その事件の政治的背景は闇の中へと葬り去られた。浅沼稲次郎は庶民の間できわめて人気の高い、理念も実行力もある政治家だっただけにその損失は甚だ大きく、その死によって国民の間に期待されていたその後の政治改革の流は大きく阻害されることになった。

松本に転居した年の秋に起こったそんな大事件の報道に接しながら、自分が現役の報道記者ならどんな風にその悲しく腹立たしいニュースを伝えようとするか、胸中であれこれと想い描いたりもしてみたが、いまさら世相の激しい変転に石田が関わる余地などどこにも残されていなかったし、むろん、そんな気もなかった。まだ、老いを自認するほどの年齢ではなかったけれど、「老兵はただ去るのみ」というあのマッカーサーの有名な言葉が、一瞬そんな彼の脳裏をよぎっていった。

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