ある奇人の生涯

81. NHKからのスタッフ派遣

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

石田はしばらくイースト・エンドでの生活を続け、春の季節の到来を待ってからロンドンの西部地域へと引っ越すことにした。イースト・エンド地区での暮らしは彼の性分に合ってはいたが、自分が担当しかけている「ロンドン今日此の頃」という番組の内容を充実させるためにもロンドンのいろいろな場所に実際に住んでみて、その地域ならではの生活体験を積むようにしたいという思いがいっぽうにあった。だから、彼は大家をはじめとする親しくなった何人かの人々にやむをえない事情を納得してもらい、そのうえであえて転居を試みようとしたのだった。

イースト・エンドでの生活にほどなく一区切りつけようとするなかで、石田にはいまひとつ思わぬ発見があった。それはこの地域に昔から伝わる「パイ・アンド・マッシュ」という名物料理との出合いだった。地中海沿岸のいくつかの地域では鰻が食されるということは話に聞いてはいたのだが、ロンドンに鰻を素材にした名物料理があるなどとはそれまでまったく知らなかった。日本では鰻というと蒲焼か鰻重、あるいは鰻丼と相場が決まってしまっている。いずれにしろ鰻を開きさばいてタレをつけて焼き上げることになるわけで、そのほかにうまい調理法があるなんて想像もつかないことだった。

鰻をまるごとぶつ切りにし、パセリを入れて塩と胡椒で十分煮込む。そのあと骨を取り去り、それをパイ生地に入れ肉汁を加えて焼き上げる。また煮出した鰻のゼラチン質をもとにゼリーをつくる。要するに一種の鰻パイや鰻ゼリーをこしらえるわけである。そしてそれらにジャガイモのマッシュを添えてやればパイ・アンド・マッシュができあがる。こうしてつくられた庶民的な鰻料理は日本の蒲焼や鰻重などの味とは異質のものではあったが、それはそれで実に珍しくまた美味しくもあった。

イースト・エンドから引っ越したあとも石田は折々このパイ・アンド・マッシュを売り物にするお店に足を運び、その味にこころゆくまで舌鼓を打った。ある休日のこと、彼はまだパイ・アンド・マッシュを食べたことのないミサを誘って行きつけのお店にでかけたのだが、その帰りのバスの中でちょっとした珍事が発生した。それは、パイ・アンド・マッシュのつくりかたやその味についての会話が二人の間で一段落し、それに続いてミサが自分の知り合いのあるおばあさんについての話をよく通る声でしゃべりはじめた時のことだった。

――そのおばあさんが飼っていた豚が子どもを産んだのだが、出生後ほどなくして子豚は死んでしまった。だが、その子豚はまだ登録されてはいなかったし、特別な病気が原因で死んでしまったわけでもなさそうだったので、おばあさんの家族はその子豚を料理して食べてしまった――ミサの話の要旨はそんなことだった。ただ、その時二人はたまたま英語でしゃべっていたために、彼女はその会話の中でとくにそれと意識をすることもなく「baby」という表現を何度となく連発した。

なんとなくおかしな空気が流れていることに気がついた石田がバスの中を見回すと、お客の視線が一斉に二人のほうに注がれている感じだった。一瞬なにごとかと戸惑いを覚えた石田だったが、すぐに彼にはその事態の原因がぴんときた。どうやらバスの乗客たちは、人間の赤ちゃんをミサが食べてしまったのだというふうにすっかり勘違いをしているらしかった。日本人や中国人をはじめとする極東地域のアジア人に対するもともとの偏見や、第二次世界大戦中や大戦後の日本人に対する悪感情がもとになって、一部のイギリス庶民の間などでは黄色人種は平気で人肉を食べるなどという噂がまことしたかに囁かれもしていた。そんな背景などがあったために、ミサの話を部分的に漏れ聞いた車中の人々は、こんな可愛い顔をした日本人女性までが赤子を食べるのかというとんでもない誤解をしてしまっているようだった。

それと悟った石田は、わざと同乗のお客らに聞こえるような大声で、「ミサ、周囲の人たちはどうやら子豚を食べたという話を赤子を食べたというふうに取り違えてしまっているようだよ!」と話しかけた。彼のそんな言葉によって初めて想わぬ事態の展開に気づいたミサは、次の瞬間、周囲の人々の目もはばからずその場でけらけらと笑い転げた。そして、そんな二人の様子を見届けたお客らも自分たちが大きな誤解をしていたことを悟って誰からともなく笑い声をあげた。

石田がイギリスにやってきてから1年が過ぎ、やがてその年の秋も終わりに近づいた。そして彼の渡英から1年半余を経た1950年11月初めのこと、NHKから一人の人物がBBC日本語部に派遣されてきた。石田に続き日本からやってきたその新人スタッフは神谷勝太郎といった。ジョン・モリスは終戦直後に訪日した時もNHKと接触しBBCへの要員派遣を要請したが、そのときは連合軍司令部もNHK側もその要請に応じてはくれず招聘を断念した経緯があった。それから3年余が過ぎた時点で再び渡日したジョン・モリスはもう一度NHKを訪ねて当時の古垣鉄郎会長に会い、あらためて要員の派遣を要請した。その結果、ようやく神谷の渡英が実現したのだった。

神谷はその高い語学能力と以前にジャパン・アドヴァタイザーの記者をしていたという経歴を買われ、1935年にNHKが国際放送を開始するにあたって局員としてスカウトされた。そして1940年頃にニューヨーク支局開設の要員となったが、その直後の日米関係の急速な悪化にともない、実際には国際業務を遂行することなく終わってしまったのだった。

ところが、なんとも皮肉なことに、戦後神谷は別の面できわめて多忙な日々を送らされる羽目になった。敗戦と同時に日本の海外向け放送は全面禁止されてしまっていたが、国内向け放送に関してもNHKはGHQの検閲を受けるべく、放送用のすべての原稿と台本を英文に翻訳して提出しなければならなかった。そのため脚本部翻訳課長として神谷はその業務に忙殺されるようになった。

さらにまた、連合国の占領といっても事実上当時の日本を支配していたのはアメリカだったこともあって、GHQ司令部はNHKがBBCに人材を派遣するのをけっしてよろこばなかった。だから、海外に人材派遣をおこなうならVOA(ボイス・オブ・アメリカ)へ出向すればよいではないかなどという理由をつけたりし、どうしてもBBCへの要員派遣を許可しようとはしなかった。政治権力に左右されないBBCの放送理念を熟知していたマッカーサー支配下のGHQは、その後の対日本外交政策を米国の思惑通りに展開する必要上、将来的にNHKがその影響を受けるのをすこしでも抑えておきたかったのかもしれない。

なかなかNHKからBBCへの人材派遣が実現しないまま時が経つうちに、日本の海外向け放送の再開許可がおりそうだということになり、すぐさまNHK国際部が設けられた。そして神谷はそこの副部長をも兼任することになった。ところが予想外の事態の発生によってNHKの英語圏向け海外は先送りとなってしまった。1950年6月25日朝鮮動乱が勃発したため、GHQは急遽北朝鮮と中国に向けて短波放送をおこなうことを決定し、そのためにNHKのスタッフを総動員しようとしたからだった。

だが、その一連の事態の推移はすくなからず神谷に幸いした。GHQはNHKの国内向け放送を細かく検閲している余裕などなくたったばかりでなく、NHKなどによる自主的な放送を通じて日本国内に反共世論を喚起するようにしたほうが得策だとも考えるようになった。また、英語圏向けの海外放送実施が先送りになったことによって、国際部副部長としての業務もそれほど緊急を要するものではなくなった。しかも、それに加えて英国大使館によるGHQへの粘り強い交渉がそれなりに効を奏しもしたので、ようやく神谷のBBC派遣が承認された。

同年11月6日夜、神谷はBOACの旅客機に乗るために羽田空港へと向かった。当時はまだ羽田はアメリカ空軍の基地になっていたので空港構内では米ドルか米軍の軍票しか通用しなかった。神谷の乗った飛行機は、那覇、香港、ラングーン、カルカッタ、カラチ、バスラ、カイロ、ローマを経由して9日深夜にロンドン効外のヒースロー空港に到着した。現在羽田からヒースローまでの飛行に要する時間に較べれば80時間という空の旅は驚くほどに長いものに感じられもするが、それでも石田が日本からイギリスに行くおりに体験した2週間に近い空の旅からすると、所要時間は大幅に短縮されていた。

ヒースロー空港に神谷を出迎えた石田はすぐに、自らもしばらく逗留していたことのあるリージェント・パーク近くのBBCホステルへと彼を案内した。ホステルに到着したのは真夜中であったが、神谷はホステル関係者からも温かく迎え入れられた。そしてBBCの紹介でウエスト・ケンジントンの下宿に落着くまで、しばらく彼はBBCホステルに滞在した。

すぐに神谷と親しくなった石田は、翌日の夜、彼を案内しながらピカデリー・サーカスをはじめとするロンドンの繁華街を歩きまわった。そしてそうしながら、カフェやパブに立ち寄り、もともと報道のプロである神谷から、過去1年半ほどの間における日本国内の急速な変容ぶりや日本を取り巻く国際情勢についてあれこれと話を聞いた。それは石田にとって願ってもないことだったし、プロの日本人報道マンとしての神谷のロンドンの街に対する率直な見方などもたいへん興味深く、またすくなからず参考にもなった。いっぽうロンドンというところを初めて目にしたばかりの神谷のほうも、日本人としては異例なほどに行動的で、ロンドンの街々にすっかり溶け込んでしまっている石田の案内で各所を訪ねたり、なにかと彼の知恵を借りたりできるのはたいへん有り難いことだった。

神谷はBBC日本語部に着任してほどなく、週間新聞論調とニュース解説を担当するようになったが、石田と二人で相補的な役割を演じることによって日本語放送のレベルは質量ともに一段と向上した。どちらかというと石田は政治経済的なジャンルや軍事問題になどに深く関わるニュースの解説などは得意なほうでなかったから、その意味でも神谷の登場にともなう翻訳業務や放送原稿作成業務の分担はたいへんに助かることだった。そのお蔭で石田は自らが得意とする文化番組やルポルタージュ番組の取材と原稿作成に専念できるようにもなった。

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