大福餅や中華饅頭売りの仕事がはかばかしくないこともあったので、石田は時間をみてはほかにもいろいろなことをやってみた。生涯を通じて四十余種にのぼるとかいう彼の無茶苦茶な職業遍歴のなかで、就業していた期間が最短だったと本人が笑う職業がひとつある。それがこの大連時代にたまたま体験したチンドン屋の仕事だった。その役回りは太鼓打ちだったのだそうで、太鼓担当の男が突然に急病で倒れたため、急遽、石田が代役として借り出されたようなわけだった。太鼓打ちの役柄は結構体力が要るかというので、当時としては大柄な身長百七十六センチの彼に白羽の矢が立ったものらしかった。
音感やリズム感はけっして悪いほうではないと自負していた石田は、なんとかなるだろうと思いその仕事を引き受けることにした。晩年の石田翁を見るかぎりでもその音楽センスは相当なものだったから、その話を持ちかけられたとき彼がそう思ったのも無理のないことではあったかもしれない。身のほど知らずと言ってしまえばそれまでなのだが、ともかくもそんなわけで、クラリネットや笛、鐘などを担当する仲間三人と共にチンチンドンドン、チンドンドンとやりながら大連の中心街に威勢良く繰り出していったのだった。
「結構大きな太鼓でしたからね、それなりに重量もあったんですよ。でもまあ所詮太鼓のことだから、ちょっとだけ練習すればなんとか様にはなるだろうってタカを括ってました」
石田はそう言ってしばし苦笑したあと、即席チンドンマンのその後の経緯を正直に語ってくれた。
「ところがね、そこはやはり素人のこととあって、年期の入った他の三人と呼吸を合わせるのがとても難しいんですよ。しかも、歩きながらのことですから、うまくリズムがとれないんです」
「チンチンチン、ドンドンドン、チンチンチンチンドンドンドンって三・三・七拍子の応援調になってしまったりして?」
「それだったらまだよかったんですが、へんなタイミングでドンドンと太鼓を打ち鳴らすものだから、まるで調子はずれの演奏になり、他の三人がしらけてしまってね…」
「あらかじめ、ちょっとくらいは練習したんでしょ?」
「練習するにはしたんですがね、あくまでもその時は静止した状態だったうえに、他の三人が私に音を合わせてくれてもいましたからね」
「実際に街中を練り歩きながら演奏するとなると、そうそう上手くはいかなかったってわけですね」
「それなりに重い太鼓を身体の前に抱え、前方に注意を払いながら全身でバランスをとってバチを揮いながら進むわけですから、初心者には容易なことではありません。歩くのだって必死ですから、他の仲間三人の演奏に合わせるどころか、その楽器の音でさえ聴き取れなくなってしまう……」
「営業妨害もいいところですね、それじゃ!」
「通りすがりの人たちが、私の調子はずれの太鼓の音を聴いて笑い出す始末でね」
「やっぱり、新米チンドン屋に見えたんでしょうね。でもせめてもの救いは、そのメチャクチャ下手な太鼓担当の若い男が背のスラっとしたハンサムボーイだったことだとか?」
「街の人々にどんな風に思われたのかはわかりませんが、ひとりだけ浮き上がって見えたことは確かでしょうね」
「それで結局どうなったんですか?」
「どうにもならなかったんですよ。まだ、調子はずれでも太鼓を打ち鳴らしながら歩けるうちはよかったんです。実際には想像していた以上の重労働でしてね、二、三時間もすると息切れさえしてきました。太鼓を支える背中や首筋は痛くなるし、バチを持つ手は上がらなくなってくるし・・…」
「想像以上に大変だったんですね!」
「その激務に耐えるのは並の体力では無理だということを痛感しました。そうこうするうちに全身にひどい疲れが出てまるで仕事にならなくなり、結局、二日間働いただけで首になってしました」
「で、二日分のアルバイト料はもらえたんですか?」
「うーん、どうでしたかねえ、はっきりとは憶えていないんですが、まったく仕事にはならなかったわけですから、たとえ日当を支払ってくれるって言われたって辞退したんじゃないかって思いますよ」
「石田さんにしてはなんと謙虚な!」
「いまだったら、人材採用時におけるあなた方の判断ミスだから、二日分の日当はしっかり頂戴致しますって開き直ったりしてねえ」
「ははははは・・…、それ以前に、いまの石田さんだったら誰も雇ってなんかくれはしないでしょうけどね!」
大福餅や中華饅頭の販売をはじめとし、手を染めた仕事がどれもこれもうまくいかないことなどもあって、美しく豊かな町であるはずのこの大連での生活に石田はどうしても馴染むことはできないでいた。そして、とうとうある日突然、何もかもが嫌になってしまった石田は、思い立ったように大連駅で列車に飛び乗ると、奉天すなわち現在の瀋陽(シエンヤン)方面に出かけていった。奉天で下車した彼は市街を急ぎ足で通り抜けると、なるようになれという開き直った気分になってひたすら北に向かって歩き出した。当時の満州ならではの広大な畑地のなかを体力と気力の赴くままにあてどもなく突進しはじめたのだった。
思惑通りには運ばないうえに拘束ばかり多い仕事も嫌、迫り来る戦争の足音も嫌というやり場のない思いが募り、自暴自棄の状態になってしまってもいたから、真の意味で我が身の自由と精神の解放が得られるなら野原の中で人知れず野垂れ死んでも本望だとさえ考えかけていた。悪運が強いと豪語することの多い石田の常の姿からすれば想像もつかないことではあったが、この時ばかりは実際にそんな追い詰められた心理状態にあったらしい。ひとつには、その時点ではまだ彼は自らの運の強さというもに確信を持てる段階に至ってはいなかったからなのだろう。
石田はどこまでも続く広大なコーリャン畑の中を歩きに歩いた。何時間くらい歩き続けたのかはいまとなっては定かでないとのことであったが、ともかく太陽が西の地平線に沈むのも気にせずにどこまでもさまよい歩き続けたのだった。歩き始めたときには、もうどうなっても構わないという気持ちだけがひどく先走ってしまっていたから、文字通り身ひとつのままで飲み物も食べ物もなにひとつ携行してはいなかった。
歩けども歩けどもコーリャン畑が尽き果てることはなかった。コーリャン畑が続いているということは、すくなくとも人跡があるということを意味してはいたのだが、奉天市街をあとにしてからというもの、人馬の影を目にすることも人家を見かけることも実際問題としては皆無の有様だった。そんな状況の中を夜空に舞う北斗の輝きを標(しるべ)にして北へ北へとしゃにむに歩き続ける石田の胸中に、突然、それまで予想だにしていなかった奇妙な想念が渦巻きはじめたのだった。それは、「人間にとっての自由の大きさと人間にとっての孤独の大きさとは、互いに正比例するものである」というなんとも切実かつ体感的な思いであった。そのくらいのことは理屈でならこれまでも十分すぎるくらいにわかってはいたが、自らの身体をもってこれほどまでにそのことを痛感するのは初めてのことであった。
世間のしがらみを逃れようとしてコーリャン畑の中をより遠くへと進んで行けば行くほどに、自由の度は増すものの、その代償としてやり場のない寂しさと深い孤独感とがどんどん大きくなっていく――その極限にあるのは、たぶん、道に迷った砂漠の旅人同様の孤独な中での死にほかならないことだろう。だからといって世俗の中へと引き返せば、寂しさや孤独感は少なくなるかわりに、そのぶん自由が失われる。おのれの胸中深くで右へ左へと大きく揺れ動くそんな心理的振り子の振動は、もはや彼自身の力では制御不可能な状態にまで至っていた。
あたりはすっかり暗くなり冷たい夜風が吹きぬけるばかりで、三百六十度どちらを見渡しても人工の明かりらしいものはまったく見当たらなかった。そのまま行き倒れになってしまっても誰にも見つけてなどもらえそうになかったし、盗賊などに襲われたりしても助けなど求めようがない状況でもあった。しばらくするうちに、石田には自分を取巻く夜のコーリャン畑がそのまま地獄の果てまで続いているかのように感じられはじめた。いや、もはやその真っ暗なコーリャン畑そのものが無間孤独地獄にほかならないように思われてならなかった。
そのとき初めて彼は真の意味での人間の孤独というものがなんたるかを察知した。見えないところで他人に支えられる経験をしてきたにもかかわらず、さらにまた、過去何度かいざというときに様々な人に助けられてきたにもかかわらず、なお心の底のどこかでは独力で生き抜いてきたと錯覚していたおのれの傲慢さがいまさらながら無性に悔やまれてならなかった。なんとも皮肉な展開ではあったが、そう思う彼の両目にはうっすら涙さえも浮かんできた。そして、その時点で石田はもういちど奉天に引き返すことを決意したのだった。体力の限りを尽くして彼は夜のコーリャン畑の中を奉天の町のあるとおもわれる方角に向かって走りに走った。それでもなかなか奉天の街の明かりは見えてこなかった。
ようやく遠くに市街の灯が見えてきたとき、石田はわれにもなく胸が熱くなるのを感じていた。無事に戻ってきてよかったという思いが沸々と身体中に込み上げ、それに伴うようにして両目からとめどもなく涙が溢れ出てくるのをどうすることもできなかった。奉天の市内に戻り着き、街をゆく人の姿を目にした時には、それがどんな相手であろうとも即座に抱きつき、その温もりを確かめたい思いであった。
この時の経験はその後の人生にずいぶんと役立ったと、石田はあるときしみじみと語ってくれたものだった。複雑な人間関係や面倒な仕事などがもとで大きなトラブルがあったときなどでも、あの孤独地獄に較べればこの程度のことはたいしたことないと辛抱することができるようになったとのことであったが、実際、この出来事を契機にして彼は大きく変貌を遂げたのだった。