ある奇人の生涯

82. オックスフォードへ

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

石田がロンドンで迎えた2回目の冬のスモッグはとくにひどいものだった。ロンドンの大スモッグとしてのちのちまで語りぐさになった異常な濃霧には石田も神谷もつくづく閉口した。小説や映画の中によく登場する「黒い霧」という表現は、政治家の汚職の実態などが隠蔽されている状況をいう比喩だが、シャツの襟や袖口はいうにおよばず、鼻孔や耳孔までもがちょっと外出しただけで黒くなってしまう文字通りの黒い霧に、彼らは驚き呆れるばかりだった。石田は前年の冬の経験があったからまだよかったが、新任の神谷の動転ぶりはひとかたならぬものだった。

とりわけスモッグのひどい時などは、日中街を歩いていても突然濃霧に包み込まれ、あたりは真っ暗になってしまった。車の排気ガスや石炭ガスの異臭が漂い呼吸が苦しくなるとともに、べたべたした空気が耳の穴の奥まで流れ込んできた。午後2時頃だというのにバスや自動車は最徐行せざるをえなくなり、黄色のフォグライトが点滅するのがボーッとかすんで見えるありさまだった。当然、喘息をはじめ呼吸器障害を起こす人々が急増し、老人や病弱な人々のあいだでは死者が続出する事態となった。それでもロンドンのほとんどの市民たちは声高になって口々に不平不満を漏らすようなこともなく、いつもの冬と同様に坦々とした生活を送っていた。どうやら、それは、やむをえないとあらばどんな苦境にも黙々として堪えるイギリス人生来の辛抱強さのなせる業のようでもあった。

年が明けて1951年に入り、スモッグ騒動の頻発したロンドンの冬もようやく終わりに近づいたころ、石田はオックスフォード大学の一部有志学生らから日本について講演をしてくれないかという依頼を受けた。日本の戦前と戦後の相違や、戦後の日本が抱える問題についてなにかと率直な意見を聞かせてほしいというのが先方からの要請だった。突然に講師役として白羽の矢が立ったのは、むろん、石田がBBC日本語部に勤務する戦後初めての民間日本人渡英者であると学生たちが承知していたからでもあった。聴講者30名ほどのごくささやかな講演会だということではあったが、石田はその申し出を受け入れオックスフォードへと出向くことを快諾した。英国最古の大学として歴史と伝統を誇るオックスフォードにおいて講演をすることができるというのは、たとえそれがどんなに小さな講演の場であったとしてもこのうえなく名誉なことであった。

池をはさんでハイドパークに隣接するケンジントン・パレス・ガーデンズのすぐ北側のパディントン駅からオックスフォード駅までは、列車で一時間半ほどの旅であった。ロンドン郊外に広がる晩冬の風景をのんびりと車窓越しに眺めながら、石田はその日の講演の構想を練った。もっとも、あるがままの自然体で講演の場に臨もうと思っていたから、とくに気負いのようなものは感じなかった。だから構想を練るといっても、アイス・ブレーカー、すなわち、聴衆を瞬時に魅了し自らの心をも和ませる講演冒頭のジョークをどう切れ味鋭くきめるかという程度のものだった。あとは持ち前の当意即妙な話術をもって流れのおもむくがままに話を進め、それを通じて日本の状況をありのままに伝えればよいと考えていた。

イギリスに渡ってすでに2年近くが経っていたので、石田がオックスフォードの町を訪ねるのはこの時が初めてではなかった。だから、講演会場のあるカレッジへと向かうにあたって地理的な戸惑いなどはまったくなかった。だが、ロンドンにやってきて間もない頃、休日を利用して初めてオックスフォード大学を訪ねたときの戸惑いにはすくなからぬものがあった。オックスフォード駅に降り立ったその時の石田は、駅の東側に広がる古く大きな街並みを眺め歩きながら、しばし困惑を覚えるありさまだった。

いまではさまざまな旅行ガイドブックがあるから、日本人の旅行者は予備知識をもってこの学術のメッカを訪ねることができる。だから、オックスフォード駅に到着したあと、地元の人に「オックスフォード大学はどこですか?」と尋ねる人などほとんどいない。しかし、なんの事前情報も予備知識もないまま、我が目で直に世界の名門オックスフォード大学を見てやろうと勇み立っていたその時の彼は、半ば狐につままれたような思いでオックスフォードの街中をうろうろと歩きまわるばかりだった。

有名な大学だからその所在はすぐにわかるだろうとたかをくくっていたのだが、オックスフォードの町のどこをどう探してみてもオックスフォード大学などという大学は見当らなかったからである。それまで石田の頭の中にあった名門大学のイメージは、日本の旧東京帝国大学や旧京都帝国大学に象徴されるような、重々しい塀で敷地全体を囲われ、大学名を表示した看板の掛かるいかにもそれらしい正門を構えもつ大学のそれであった。ところが、「オックスフォード大学」などと大きく表示された校門のあるそれらしい施設や建物はどこにも存在していなかった。

ただ、街々のいたるところには、尖塔をもつ教会風の大きな建物や中世風の城や宮殿を想わせる壮麗な建物が立ち並んでいた。また町の中心とおぼしきあたりにはカーファックス塔という尖塔がひときわ高く聳え立っていた。それら数々の教会風あるいは城砦や宮殿風建物こそが実はオックスフォード大学を構成するカレッジ群なのだと彼が納得するまでには、しばしの時間が必要だった。

現実にはオックスフォード大学という名称の大学は存在などしていなかった。オックスフォードとは800年にもわたるその歴史のなかで次々に創設されてきたカレッジと呼ばれる35もの学寮群の総称なのだった。各カレッジは独立運営されており、それぞれのカレッジにおいては独自の方針にそった教育がおこなわれてきた。そして、学生たちは個々のカレッジでおこなわれている講義を必要に応じてどれでも自由に選び聴講できるシステムになっていた。市内にある大学関係の施設や建物は650近くにものぼり、いうなれば町全体が大学、もっと極端な表現をすれば広大な大学の敷地の中にオックスフォードの街並み全体があるという感じでさえあった。

この地には9世紀のアルフレッド大王の時代すでに修道者の研修の場が設けられていたといわれているが、歴史記録に基づくと1167年にヘンリー二世がオックスフォードの基礎をつくり、1214年に初めて大学への正式な入学受付がはじまったのだということだった。ほどなく各地からノルマン人修道士が集まるようになって自然にカレッジが形成され、それから2年ほどのうちに1,000人以上の学者や教師の集まる学問の場へと発展した。どのカレッジが最初に創設されたのかについては見解がわかれていて、マートン、ベイリオル、ユニバーシティの3校がそれぞれに自校が最古であると主張しているらしかった。

そのなかのひとつで、3階層の荘重な石造りの建物からなるマートン・カレッジは、永続するカレッジとしての最初の定款を1264年に授けられたカレッジで、一般的な定説としてはこのマートン校が英国最古のカレッジだとされているとのことであった。とくに科学分野で優れた人材を輩出してきたというこのマートン・カレッジにはイングランド最古と称される図書館もあったが、その内装はエリザベス朝様式の重厚このうえないもので、蔵書の多さを含めなにもかもが石田の想像を絶するものばかりであった。

ただオックスフォードには規模においても蔵書数においても一段と大きなホドリアン図書館が存在していた。ロンドンの大英図書館に次ぐといわれるこの施設には600万冊にも及ぶ蔵書があり、歴史的に著名な各界の人物たちの手稿類5万部も収蔵されているらしかった。日本の図書館しか知らなかった石田は真の図書館というものが如何なるものかを思い知らされ、ただただ圧倒されるとともに、おのれの存在の小ささを痛感し、ある種の無力感に襲われる始末だった。

マートン・カレッジのすこし西側に位置し、オックスフォードでも最大規模を誇るというカレッジのクライスト・チャーチも初めての石田にはなんとも印象的だった。鋭く天を指す尖塔をもち、教会風とも王宮風とも城砦風ともいえる壮麗な建物からなるクライスト・チャーチは数々の歴代英国首相を輩出したことでも知られるカレッジだった。このカレッジの起源となったのは、12世紀その場所につくられた小さな修道院で、のちにその敷地内に現在のカレッジの前身であるカーディナル・カレッジが創立された。そのため修道院はカレッジ・チャペルに改装され、さらに大聖堂へと改築された。そして16世紀半ばにヘンリー八世によってカレッジと大聖堂がクライスト・チャーチとして再構築され今日に至ったものだった。

華麗なステンドグラスで彩られた大聖堂にはサクソン王女フライズワイドの墓所が設けられており、その天井は流麗かつ繊細このうえない波紋が彫り描かれていた。また、カレッジのすぐ西側にあるセント・アルデイト通りに面するトム・タワーにはグレート・トムと呼ばれる重さ6トンもの鐘が吊るされていた。石田はその音を直接に聞くことはできなかったが、毎夜9時5分になると101回鐘が打ち鳴らされるとのことであった。

19世紀半ばのこと、チャールズ・ラトウィッジ・ドジスンという一人の若者がこのカレッジ、クライスト・チャーチで数学を学び、やがて同じカレッジで数学の教鞭を執るようになった。ほどなくドジスンは当時の数学界において国際的な業績をあげ、一流数学者として世に広く知られるようになった。一説によると、そのドジスンは1862年の夏のことカレッジの寮長の3人の娘たちと一緒にピクニックに出かけたおり、思いつくままにひとつの物語を創作し語り聞かせた。そしてその後もその物語をどんどんと発展させていった。しかも彼は、自分が研究を続けてきている高等数学の世界の難問を形を変えてさりげなくその奇妙な物語の中におりこんだ。カレッジ寮長の3人の娘のうちの一人の名はアリス、そして、ルイス・キャロルというペン・ネームで世に送り出され一世を風靡することになったくだんの物語につけられたタイトルは「不思議の国のアリス」であった。数学のことなどさっぱりわからない石田だったが、その名作の著者が深い思索に耽りながらこのカレッジの構内や付属する庭園を歩いていたのかと思うと、「不思議の国のアリス」ならぬ「不思議の国の石田」になった気分だった。

クライスト・チャーチから北に300メートルほど離れたところにあるシェルドニアン・シアターも言葉には形容し難い存在感をもって石田の心を圧倒した。1669年にローマのマルチェロ劇場を模倣して建てられたというこの大講堂は、カレッジの卒業生への学位授与式などのような重要な儀式が長年にわたって催されてきた場所であった。13個のローマ皇帝の頭部彫刻の飾られたその入口に立つと、建立後350年に近いその歴史の中でこのオックスフォードの学窓を巣立っていった多くの偉人たちのガウン姿が、まるですぐ目の前にあるかのごとくに偲ばれてならなかった。

渡英して間もなくオックスフォード駅に降り立った時の戸惑いや、その折に初めて目にしたこの町の風物に対する驚きを半ば気恥ずかしくそして半ば懐かしく想い起しながら、石田は駅周辺から東へと向かってのびるパーク・エンド・ストリートを中心街のほうへと向かって歩き出した。カーファックス塔の立つ十字路まではちょうど1キロメートルほどの距離であった。

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