ある奇人の生涯

54. BBC日本語放送の黎明期

1943年2月、ジョン・モリスは日本語放送開始のために実質的な指揮をとるべく初代日本語部局長に就任した。そんなモリスの最初の仕事は、英文原稿を正確な日本文原稿に翻訳でき、しかも、日本人が聴いてもとくに不自然に感じないような発音でその原稿の読み上げができるスタッフを探し出すことだった。平時においてさえもそのような人材を探し出すのは容易でないというのに、折からの戦時下とあってはなおさら事は困難であった。英国籍をもつか英国人と結婚している日本出身者とも何人か面接してはみたが、その人たちの日本語は古くさくイントネーションも不自然だった。

モリスはアメリカにも渡り日系二世で日本語に堪能な若者を探し出そうと努めたが、それでもなお、これという適切な人材は見つからなかった。実のところは、その時点において、的確に日本語の会話や日本文の読み書きのできる二世たちは皆アメリカの情報機関などに吸い上げられていたのである。それでもモリスは数人の民間人日系二世と契約を交わして帰国し、彼らはロンドンにやってきて放送準備活動に参加するところまでいったのだが、結局、その二世たちが日本語放送のスタッフとして実際に活躍することはなかった。戦時中という特殊な状況下にあったので、彼らがイギリス国籍をもたないことなどがなにかと障害となったのだという。

モリスは度重なる苦労の末にイギリス国籍の日本人女性とめぐり逢い、彼女を起用することによって、1943年7月4日ついに念願の第1回日本語放送を実現することができた。ただ、モリス自身はこの時、戦争が終焉し戦後の混乱が収まって日英関係が再び安定したら、BBCによる日本向けの放送は自動的に消滅するだろうと考えていた。現実には、モリスの予想に反しBBCの海外放送部門にあって日本語部局は重要な位置を占めるようになり、さらなる発展を遂げてくことになったのだった。その状況や経緯については、大蔵雄之助著の「こちらロンドンBBC――BBC日本語部の歩み」(サイマル出版会)に詳しく紹介されている。

このBBC日本語放送黎明期のスタッフは、モリス、トンキン、ホーリー、そしてクラークの4人で、モリスとトンキンが英語で原稿を書き、ホーリーとクラークが日本語への翻訳を担当した。そして、実際に日本語で放送原稿を読み上げたのはミセス・クラークで、ホーリーのほうはクラークが原稿通りに読まなかった場合に放送を中断する、いわゆるスイッチ・センサーの役割を受け持っていた。

戦時中ということもあって、ミセス・クラークは日本向けの放送では「メリー」と名のっていたが、もともとは伊藤愛子という東京・京橋の海産物問屋の一人娘であった。東京女学館を卒業したあと結婚して男児を生んだが離婚し、さらに英国の貿易商クラークと再婚して英国籍を取得した。戦時中に交換船で夫クラークとともに英国に渡り、その後クラークとも離婚したが、周囲からはずっとミセス・クラークと呼ばれていた。クラークはロンドン大学の東洋・アフリカ研究所で日本語を教えてもいて、教え子のひとりで作家のリチャード・メイスンはのちに彼女をモデルした小説「The Wind Cannot Read(風は知らない)」を執筆した。

ミセス・クラーク、すなわち伊藤愛子はたいへんな才媛だったようで、その英語はイギリス人も舌を巻くほどの流暢さで、しかも横書きの英文をみるみるうちに縦書きの正確な日本文に直すことができた。容姿端麗なうえにチェスや社交ダンスの腕前も一流で、しかもインテリア・デザイナーやスタイリストとしてのセンスも抜群であったという。日本舞踊と生花の師範の資格をもっていたばかりでなく、書道やペン字の腕もたいへんなもので、彼女の草書体の筆跡はあまりにも見事なものであったためにのちの日本人スタッフをすくなからず悩ませもしたと伝えられている。終戦も間近な1945年7月3日付けのイヴニング・スタンダード紙は、「黒髪でオリーブ色の肌をもつ日本女性」として彼女のことを紹介し、故国日本に両親と実子を残してきたそのイギリスでの姿と生活ぶりを温かく報じたりもした。

BBCの48番目の外国語放送にあたる第1回の日本語放送は、正味15分間というたいへん短いものでその内容はすべてニュースであった。原稿を書くにあたって、モリスは過度に日本人を刺激するようなことは避けなければならないと考えた。そして、そのためにはヨーロッパやアフリカで何が起こっているかを客観的に伝えるのがよい、また、日本国内の人々よりは、短波用受信機をもつ最前線の日本軍将兵や日本船舶の乗船員などを対象にした放送をしたほうが効果的だと判断した。

アナウンスを担当したミセス・クラークの声は緊張のためにすこしうわずっていて素人くさかったが、電波に乗って流れ出る初アナウンスの声自体は明瞭そのものであった。この初回の放送の翌日、ドイツのベルリン放送は、「そんなことをやってみても、肝心の日本では誰一人聴いてなんかいないよ」と揶揄するコメントを流したりもした。日本語要員が足りなかったために日本語放送は週4日にかぎられ、残りの3日は英語による放送がおこなわれたが、そのアナウンスはモリス自身が担当した。思うところがあって、モリスはかつて日本の大学で学生たちに講義をしていた時のような調子でニュースを読むことにした。のちになって明らかになったことではあるが、モリスの思惑通り、何人かの日本での教え子たちは彼の声を聴きわけ、密かにそのニュースに耳を傾けたのだった。

1944年の末頃になると日本語放送の時間は30分に延長されるようになり、翌年の8月15日に日本がポツダム宣言を受諾するとその翌日からは日本向けの英語放送は廃止された。そして毎日30分の放送時間全部が日本語放送にあてられるようになった。ジョン・モリスは1944年の9月に極東地域全体の統括責任者に昇格し、二代目の日本語部長にはP・R・C・レンが就任した。

終戦直後の1945年9月、ジョン・モリスはBBCの特派員として愛する日本へと戻ってきた。そして年末までの短い滞在期間中にNHKと交渉し、同放送局からBBC日本語部局へスタッフ派遣してもらおうと奔走した。ところが、NHKの組織そのものがマッカーサー指揮下のGHQからの命令でBBCをモデルにした運営の民主化に取り組んでいる真っ最中であったため、日本人スタッフ派遣の話は実現せず、モリスはいったんイギリスに帰国した。

終戦翌年の1946年7月、第三代の日本語部長に就任したのはこれまた知日家のトレバー・レゲットであった。のちに講道館六段の柔道家としても知られるようになったばかりでなく、「禅入門」や「虎穴」の翻訳に携わるほどの日本語能力をそなえもっていた彼は、BBC日本語部長にこれ以上の適任者はいないというような人物であった。モリスはこのレゲットとともに日本語放送部局のその後の発展と充実のために文字通り精魂を傾けた。

モリスとレゲットは彼らが戦前日本に滞在していた頃からの知り合いであった。モリスが戦時中イギリスに帰国しBBC日本語部長になってからも二人は昼食などを共にすることがすくなくなかった。そのためもあって、レゲットはBBCの海外放送部門の仕組みにはよく通じていた。

――イギリス政府は特定の国の言語を用いたその国向けの放送をBBCに委託し、その費用を負担する。いっぽう、放送を委託される側のBBCは番組内容の構成に関してはまったく干渉も拘束もされないことを条件にその放送業務を引き受ける。したがって、放送内容については完全に政府から独立した状況が保たれる――おおまかに述べると、その放送理念と運営の仕組みはそのようなものであった。

レゲットが第三代の日本語部長に就任する頃までにはこのルールは完全に確立されたものとなっていた。またそのゆえにこそ、BBC放送はどんな状況下にあっても真実を伝える放送としての名声と評価を高め、世界中の人々からひとかたならぬ信頼を勝ち得てきたのであった。

しかし、それでもなお、レゲットは日本語部長という重責を担うにあたり、内心密かに危惧していることがなくはなかった。それは、もしも放送における自分の思想や政治的立場がその時の政府のそれと真っ向から対立するような事態が生じた場合にはどうなるだろうという懸念であった。

レゲットが部長に就任した頃の日本向けのニュースはすべて日本語部長が選択編集し、それを翻訳して放送するようになっていた。何度にもわたって「内容に関しては干渉されることはまったくない」と上司から伝えられていた彼ではあったが、念を押す意味であるときモリスに率直に尋ねてみた。

「もしも、もしも外務省や政府筋の高官などが電話をかけてきて、あの一件に関してはいっさい放送してはならないとか、なんとしてもこの問題を最優先で扱ってほしいとか指示してきたとすれば、私はいったいどうすればよいのでしょうか?」

するとモリスはなんの躊躇いもなく即座に答えた。

「そんな時には、『ご忠告には感謝致します。でも私はあくまでBBCの伝統的な理念にのっとり自主的な判断にしたがって放送をやらせていただくことにします』と言えばいいにきまっているよ!」

そこでさらにレゲットはたたみかけるように問いかけた。

「だが、それでもなおしつこく指示に従うように要求されたり、脅迫まがいの強要を受けたりしたとしたら?」

すると、モリスは確たる調子で平然と言ってのけた。

「そのようなことが起こったら、君は机に向かって辞表を書けばよい。もちろん、僕も辞表を書くさ。そして、BBCの会長から給仕まで、全職員が辞表を書くことになるさ!」

その言葉に意を強くしたレゲットは、実にその後23年6ヶ月にわたって日本語部長を務めることになったのだった。モリス同様に深く日本を愛していた彼は、数々の栄転や昇進のチャンスがあったにもかかわらず断固としてそれらを拒絶し、BBCを退職し年金生活に入るまで日本語部長に留まり続けたのだった。

レゲットが新たな日本語部長に就任し部局の責任者としての仕事に慣れるのを見はからってから、ジョン・モリスは一ヶ月ほどの滞在予定のもと再び日本へとやってきた。彼ら二人が理想として思い描くほどまでに日本語部局を充実させるには、複数の有能な日本人スタッフの確保が不可欠だった。そこでモリスはBBC上層部にもその旨を伝え、イギリス政府にそのために必要な予算を申請するように願い出た。そして、ほぼ内諾を得たうえで、適切な人材を探すべく来日していたようなわけであった。前年の来日の際にはNHKからスタッフを派遣してもらおうと奔走したのだがうまくいかなかったので、この時のモリスは、相手が有能な人物でありさえすれば放送業界に直接関係ないところから人材抜擢してもかまわないと考えていたのだった。天運に導かれるままにモリスと石田とが月下のお堀端で劇的なめぐり逢いをしたのは、たまたまそんな折の出来事であった。

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