しかしながら、憧れの地中海に天国を重ね見た石田のそんな夢は無残に打ち砕かれてしまうことになった。彼の文学少年的なイマジネーションは想わぬ天候不順のためにすっかり裏切られてしまったのだった。地中海式気候として特別に区分されるほどに乾燥して晴れた日の多い地中海であるにもかかわらず、飛行艇がアレクサンドリア沖を離水してまもなく一帯の天候は雨模様に変り視界がほとんどきかなくなった。青い空も青い海も美しい島々もまったく見えず、灰色の雲と霧と窓に打ちつける雨だけが彼の目に入るすべてであった。飛行艇はそんな地中海上空を西へと飛び続け、その日の夕刻にシシリー島のオーガスタに着水した。オーガスタに到着したときも依然として雨はやすみなく降り続いていた。
天候のゆえとはいえ、期待していた地中海に対する第一印象が結果的に好ましいものではなかったせいだろう、石田はオーガスタのことをほとんど記憶にとどめていなかった。雨に濡れた古い石畳の続く坂道と軒を連ねて並ぶ小さな酒場、そしてそれらの酒場から漏れ聞こえる甲高いイタリア語の響きだけが記憶に残るすべてであった。宿泊したホテルでは当地産のワインなども飲んだはずなのであるが、その味もその時の様子もまったく憶えていなかった。エスコート役のミスター・グッドマンことルイス・ブッシュに薦められて免税品の高級キューラソー酒を一本だけ買い求め、それをロンドンまで持っていったことだけは確かなのだが、それを自分で飲んだおぼえはなかったし、だからといって誰かにプレゼントしたというような記憶もなかった。
残念なことに地中海のご機嫌は翌日になってもなおらなかった。石田の落胆をよそに小雨の降るなかを飛び立った飛行艇はシシリー島からさらに西方に向かって飛行を続け、イベリア半島の東側付け根に位置するスペインのバルセロナに着水した。降雨量のすくない地中海地域にあって年間降雨量のもっとも多い地域といわれるカタルーニャ地方の中心地バルセロナに着いた時には、なんとも皮肉なことにすっかり雨はやんでいた。いくらなんでもちょっと可哀想すぎるから、石田の期待にすこしくらいは応えてやろうという天の思し召しかもしれなかった。
カルカッタでの不慮のエンジン故障などもあって一行の旅程はすっかり狂ってしまっていたため、すこしでも遅れを取り戻す必要があるということで、翌朝早くバルセロナを発ち最終目的地イギリスのサウサンプトンに向かうことになった。そのため市内をゆっくり観光する時間はなかったが、石田はホテルに着くとすぐに独り外出し、寸刻を惜しむようにして周辺を見物してまわった。語学が得意な彼もスペイン語はまったくだめだったが、看板の文字の意味くらいならなんとなく推測がつくのに加え地域柄フランス語もいくらか通じはしたし、いざとなったらボディ・ランゲージという手もあったから、言葉の問題はほとんど気にならなかった。
2000年をはるかに超える歴史をもち、古来海洋交易の一大基地として栄えたバルセロナの旧市街のたたずまいは石田の心を瞬時に捉えて放さなかった。長い歴史に彩られた古い建物をひとつひとつ見る暇などまるでない駆け足の慌しい市街地めぐりではあったのだが、これぞ初めて直に目にするヨーロッパ文化、地中海文化という想いが石田の体内を駆けめぐった。巨匠ピカソがその青年期を送り、またフランコ政権の圧政に激しく抵抗したという土地柄にある種の親しみを覚えながら、モンジュイックの丘にのぼり眼下に広がる地中海を眺めやった。
建築家ガウディの名声とともにいまもその名を世界に馳せるサグラダファミリア聖堂の偉容も石田にとっては衝撃的なものであった。時間の関係もあって外から一瞥しただけではあったが、完成まで100年も200年もかかるというこの未完成の斬新な構造物には、既成の建築概念に真っ向から挑戦して憚らない不可思議な迫力がそなわっているように感じられてならなかった。絶間なく変容し続けるこの世界の本質は未完であることによってしか表現できない、時間を取り込みさらにまた時間を超えて自らの表現が生き抜くにはその作品自体が刻々と変化し常に未完であり続けなければならない――そんなガウディの心の呟きが石田には聞こえてきそうであった。
その夜、彼はほとんど眠ることができなかった。駆け足でめぐり垣間見たバルセロナの街の景観を通してもたらされた感動と、明日はいよいよ憧れのイギリス本土に自らの足跡を刻むことができるという興奮のために、ベッドには横たわってみたものの、どうやってもどう足掻いても寝つけなかったからだった。やむなくして深夜に彼はベッドから起き上がり、窓のカーテンを開いて淡い月光に照らし出される街並みを眺めやった。俺はいま間違いなく西欧の一角に立っている、一時は生涯行くことなどできないだろうと考えてきたヨーロッパの地にこうしてやってきているんだ!――そんな想いが激しくその胸を突上げた。
イギリスへの旅の最終日の早朝バルセロナを飛び立った飛行艇はほぼ真北へと機首を向け、ピレネー山脈東端を飛び越えてフランス上空へと入った。そしてそのままいっきにフランス西部を北上すると、対独戦の激戦地として知られるノルマンジー地方の上空に到達した。この地方の海岸線一帯に米英連合軍が決死の上陸作戦を敢行したのだという説明を同行者たちからうけながら、石田は促されるようにして眼下に広がる丘陵地帯とその北側にのびる海岸線を眺めやった。
だが、ノルマンジーの海岸線を見つめる彼の視線は空ろだった。正直なところ、その時の彼にしてみればそんな第二次世界大戦の激戦地のことなどどうでもよかった。イギリス海峡をはさんでノルマンジー地方と相対峙する英国本土のブリテン島こそがその関心のすべてであった。そして、そんな彼の期待に応えるかのように、ほどなく飛行艇はイギリス海峡を飛び越えブリテン島に近づいた。
徐々に飛行艇が高度を下げはじめたとき、白く輝く断崖に囲まれた島らしいものが石田の視界に入ってきた。隣席にいた同行者の一人が、それはヨットレースなどで世界的に有名なワイト島だと教えてくれた。そのワイト島上空を通過し終えると飛行艇はぐんぐんと高度を低め、良港をなす深い入江の奥におもむろに着水した。そこが飛行艇の最終目的地サウサンプトンだった。
古来イギリス有数の港湾都市として栄えてきたサウサンプトンの港には大型客船や貨物船から小型漁船やヨットにいたるまで大小さまざまな船舶が碇泊していた。さすがにかつては7つの海を支配していた国の主要港だけのことはあると思いながら、石田は飛行艇を降り、用意されたボートに乗って上陸の途についた。横浜沖を出発してからこのサウサンプトン港に到着するまで10日余りも飛行艇に搭乗し、もう二度と体験することなどできそうにない旅を続けてきただけに、飛行艇に別れを告げるのはなんとも名残惜しかった。
サウサンプトンに上陸しイギリスの地に第一歩を印した石田ではあったが、その感動にひたっている間もそこそこに、すぐさま他の同行者ともども港近くに待機していたロンドン行きのバスに乗車させられ同地をあとにすることになった。サウサンプトンからロンドンまでは130キロ前後の行程だった。緊張もし、興奮もしていた石田は、はじめのうちこそ車窓から外の景色を物珍しそうに眺めていたが、バスがロンドンに近づく頃にはすっかり疲れが出てしまい、全身をシートにもたれかけたままぐっすり眠りこけてしまったのだった。
バスがロンドンに着いたときはもう夜になっていた。もちろん、どこかどこなのかさっぱりわからない石田はエスコート役の英国映画協会々長ルイス・ブッシュに先導されるままにBBCの管理事務所へと向かい、とりあえずそこの担当者に引き合わされた。そして、そこで10余日にわたって何かと世話をやいてくれたルイス・ブッシュといったん別れ、とりあえずは用意されている宿泊所に身を落ち着けることになった。石田の身柄をブッシュから引き継いだその担当者は、彼をそこからそう遠くないところにあるBBCの独身者用ホステルに案内してくれた。
BBC専用のホステルの一室をあてがわれた石田は、ともかくもそこに携行した荷物ともども落ち着くと、シャワールームに入って長期間にわたる旅の汗を洗い流した。そしておもむろにベッドに横たわった。しかしながら、奇妙なことに、どうしても眠ることができなかった。10日を超える長旅の疲れがたまっているはずなのに、そしてまた、サウサンプトンからロンドンまでやってくる途中のバスの中でぐっすり眠りこけてしまったというのに、眠ろうと思えば思うほど逆に彼の意識は冴えわたってくるばかりだった。やむなくして石田はベッドの上で半ば身を起こし、それとなく窓の外を眺めやった。窓越しに見える街灯の明かりは想いのほかに薄暗かった。ロンドン名物の霧がすこしばかり出ていたので周辺の建物はボーッと霞みはっきりとは見えなかった。
いま自分の置かれている状況についてすこしずつ実感が湧いてきたのはそんなときだった。俺はいま間違いなくイギリスにいるんだ!、シェークスピアのイギリスに、シャーロックホームズのイギリスに!、そしてウインストン・チャーチルやバートランド・ラッセルのいるイギリスに!――彼はあらためてその事実を自らに言い聞かせでもするかのように独りそう呟いていた。
霧が薄れたときをみはからい、石田は眼を凝らして遠くの建物のシルエットを見つめやった。そして、もしかしたらあれがビッグベンかな?、こっちのほうのまるい感じの建物がセントポール寺院かな?、バッキンガム宮殿はいったいどっちの方角にあるんだろう?、ロンドンブリッジはあっちかな?――などと、ロンドンの街々のたたずまいにあれこれ想像をめぐらした。そして、そんなとりとめもない思いに駆り立てられながらイギリスはじめての夜をすごすうち刻々と時は過ぎゆき、さしもの興奮もおさまって、彼は知らず知らずのうちに深いふかい眠りの底に沈んでいった。