ある奇人の生涯

45. 南京から漢口へ

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

一九四五年に入ると国内外各地での戦況は著しく悪化し、日本本国もまたその例外ではなくなっていた。この年の一月十九日には、阪神地方や川崎、明石などの軍需工場がB29による爆撃のために大きな損害を被り、つづいて翌二月の初めには神戸一帯が空爆にさらされ、その被害はますます拡大の一途をたどった。さらに二月の半ばには米軍艦載機二千機による関東、東海地方に対する大空爆が決行され、日本本土の人々は直接戦争の恐怖に直面させられるようになった。

三月中旬に入ると米軍は徹底した焦土作戦をとるようになり、多数のB29が飛来して大量に焼夷弾を投下、東京、名古屋、大阪、神戸などの大都市は次々と猛火に包まれ、人命と建物家屋の双方に甚大な被害が生じる事態となった。また、三月下旬に沖縄戦が始まると圧倒的に優勢な米軍はたちまち周辺各島を制圧して沖縄本島を包囲、四月一日を期して本島に上陸し、多数の民間人を巻き込んだ凄惨このうえない戦闘の火蓋が切って落とされた。そして、この沖縄戦参戦のため決死の航行を続けていた日本海軍の象徴、戦艦大和は、四月七日、沖縄へと向かう途中、薩南諸島西方海域において撃沈された。四月以降はB29による本土各地の空襲も日常化し、連日連夜の空襲警報に日本国民はなすすべもなく怯え逃げ惑う有様ともなった。

いっぽう、たまたま時を同じくするように同盟国ドイツも末期的状況を迎えていた。四月二十七日にソ連軍によってベルリンが包囲されると、その直後の三十日、ヒットラーは愛人エヴァとともに自殺した。そして翌五月二日にはベルリンが陥落し、同月八日にはドイツは全面降伏した。ドイツが降伏した結果、孤立無援となった日本は「一億総玉砕」のスローガンのもとに、もはやまったく成算のない戦いを続けるしか残された道はなかった。その無謀かつ無益な戦いの象徴ともいうべき沖縄本島決戦は、日米両軍と一般住民を合わせ二十余万人の尊い犠牲者を出したすえに、五月二十五日、沖縄守備軍司令部のおかれていた摩文仁ノ丘直下の洞窟内での守備軍令官牛島満中将の自害をもって終結した。

太平洋戦史においてよく知られているように、この時期、米国は密かに開発を続けていた原子爆弾を完成、その実験をニューメキシコで実行するための準備を着々と進めていた。そして、その周到な準備は七月十六日の世界初の原爆実験成功へと繋がり、さらには広島、長崎への原爆投下という悲劇的事態へと発展していくことになった。

一九四五年に入ると、中国全土に展開する日本軍も、毛沢東指揮下の共産軍のゲリラ戦による猛反撃や米空軍による激しい爆撃などにより、各地で苦戦を強いられるようになっていた。最前線に立つ部隊などは補給路を断たれ、飢えと疾病と敵襲の恐怖とにさいなまれながら、苦難に満ちた絶望的な行軍を続けている有様だった。そして、現地で召集され南京で戦闘訓練をうけた石田が、同じく現地召集の他の新兵らとともに充員として急遽軍務に就くように命じられたのは終戦も間近なそんな時期のことだった。総勢五百名ほどの新兵からなる彼らの部隊は、具体的な任務も最終的な行き先も告げられぬままに南京をあとにすることになった。

七月上旬のある日の未明、石田ら新兵は、うむを言わさぬ上官の命令のもと、南京の長江沿いの埠頭に接岸した船の狭い船室の中に重なり合うようにして詰め込まれた。それでなくても暑い盛りのことだったので、その蒸し暑さや息苦しさときたら筆舌に尽くし難いほどであった。南京を発った船は長江を遡り、蕪湖、安慶方面へと向かい始めた。米軍による空爆やゲリラからの攻撃を恐れてか、南京を出発してからしばらくは甲板に上がって船外の景観を眺めることも許されなかった。あまりの蒸し暑さに堪えかね、河水の飛沫でびちゃびちゃに濡れた通路に転がり出てそこに身を横たえる者が続出する有様だった。

一応かたちだけの食事は出されたものの誰もがそれには口をつけようともせず、ひたすら飲料用のお湯を欲しがった。だが、お湯の配給はすくなく喉が渇いて仕方がなかったため、しまいには、中国人の船員から密かにお湯を買って飲んだり、手洗い用の水を盗んできてはそれを口にしたりする者も現れる始末だった。

ひどい暑さや飲み水の問題もさることながら、いまひとつ大変に苦労したのが大便の処理だった。甲板の片隅に直径三メートルほどのばかでかい盥桶みたいなものが置かれており、それがトイレの役割を果たしていた。中には水が張られていて、先客らの尿の混じったその水の表面のあちこちには大小硬軟様々な排泄物がこれ見よがしに浮き沈みしていた。その大きな盥桶の縁に腰と尻をおろして用を足すのであったが、船そのものも大盥の中の糞尿混じりの水も激しく揺れ動くうえに、盥の縁を除いては掴まるものもまったくない有様ときていたから、時折バランスを崩して盥桶の中に背中から転落する者も現れたりした。間違ってそんな目にあったりしたら一巻の終わりだから、排便に際しては仲間の誰かに身体をしっかりと支えてもらい必死の思いでことに臨むのが実状だった。

南京を出て二、三日は昼夜兼行で航行を続けていたが、そのあとは米軍機による空襲を避けるために夜間だけの航行にかわった。昼間は上陸して長江沿い各地の避難所に退避し、夜になると船に戻ってなお長江を遡行し続けた。時折上空を米軍機の編隊が通過していくことはあったが、十分に警戒がなされていたせいか、石田らの乗る船が直接攻撃にさらされるようなことはなかった。また、幸いんことに、夜間航行をするようになってからは航行中船の甲板や舷側に立ったりしても叱責されるようなこともなくなったので、早朝や夕刻の薄明かりの中で長江の雄大な流れを眺めつつ遠い想いに耽ることができるようにもなった。

一面濁流に覆われた長江ではあったが、遡行の途中一箇所だけ進行方向右手寄りの流れが青く澄んで見えるところがあった。毎日毎日濁った河面ばかりを眺めてきたので、その青さは石田にとって妙に印象的だった。中国人船員にここだけどうして水が澄んでいるのかと尋ねてみると、そこからすこし遡ったところに?陽湖(ポーヤン湖)方面から流れてくる河との合流地点があるからだということであった。?陽湖(ポーヤン湖)については話に聞いているだけでむろん見たことなどなかったが、長江へと流れ込むその水の澄んだ色から察するすると、ずいぶんと綺麗な湖なのだろうと想像されもした。?陽湖方面から流れ込んでくる河との合流地点を過ぎると、左岸のほうに高々と切り立ち聳える山影が見えはじめた。それらの山々の名前こそはよくわからなかったが、その景観は船上の石田の目を十分に楽しませてくれた。

南京を出港してから一週間余の船旅のあと最終的に上陸したのは武漢の地の一角をなす漢口であった。時折米軍機の来襲はあったものの武漢一帯はなお日本軍の支配下におかれていたので、石田たち一行は漢口の部隊宿舎に無事落ち着くことができた。幸いなことに漢口の宿舎は水の豊富なところだったので、水槽の脇に立って思いのままに全身を洗い清め、汗と渇きと不慣れなトイレに苦しみ抜いた悲惨な船旅の疲れを一息に癒し流し去ることもできた。

水については何も言うことがなかったが、漢口の部隊宿舎での食事はお世辞にも褒められたものではなかった。戦争末期の逼迫した状況下のことでもあったので食べられるだけましであり、文句など言える筋合いではなかったが、そうは言ってもそれに慣れるまではずいぶんと苦労を重ねなければならなかった。おそろしく籾の混じったままのご飯は容易には喉を通ってくれなかった。籾の数のほうが多いくらいなのでそれらを取り除くわけにもいかず、それらを歯で噛んで中身だけを飲み込み籾殻は吐き出すしかなかったが、歯に当たったり挟まったりして食べにくいことこのうえなかった。だからといってのんびり時間をかけたりしていると、食べ終わらないうちに食事時間が終わってしまうから当然必死にならざるをえなかった。

ところが、その一帯での軍隊生活に慣れている先輩兵士たちは、その籾混じりのご飯をそう苦もなく平らげていた。無数の籾を相手に悪戦苦闘してる新兵たちの誰もが、はじめは不思議そうにその様子を眺めたものだった。どうやら彼らはあまりしっかりとは噛まないで、ほどほどのところで籾殻ごと飲み下している感じであった。そこですこしずつ彼らの真似をしてみているうちに、ほどなく石田自身もそう苦労せずに籾混じりご飯を胃袋におさめることができるようになった。武漢一帯には水牛が多かったこともあって食事には水牛の肉も出されたが、これがまた新兵たちにとっては難物であった。水牛の肉はひどく固いため噛み砕くのが容易でなく、顎が痛くなりもした。だからといって残すわけにもいかないので目を白黒させながらむりやり飲み込むと、てきめん消化不良を起こし七転八倒の苦しみに襲われる結果となった。

古参兵たちは相変わらず将校たちの目の届かないところで新兵たちを殴り苛め続け、憎悪に満ちた目でなにかにつけては無理難題を吹っかけてきた。新兵を痛めつけるのはまるで自分たちの特権だと言わんばかりの横暴ぶりであった。古参兵たちが新兵らに勝手気ままに暴力のかぎりを尽す裏には、七年も八年も激戦の地に身を置き続けたことによって鬱積した鬱憤を晴らそうとする彼らなりのやむにやまれぬ事情もあった。  

当然のことだが、万事に不慣れでモサモサしている新兵の様子が、彼らにはなんとも目障りで癇にさわることこのうえなかったのだろう。また、それまで内地や外地の安全で恵まれた環境の中でのうのうと暮らしてきた者たちに対するやり場のない嫉妬や怒りが彼らの胸中には渦巻いていもいた。さらには、戦地で諸々の残虐な行為に遭遇しながら長い軍隊生活を送り続けているうちに一種の感覚的な麻痺が生じ、そのために常軌を逸した行為を自らの力では抑制することができなくもなっていた。もちろん、新兵らにすればたまったものではなかったが、新兵を虐待することでしか心の苛立ちを鎮めることのできない古参兵たちもまたその意味では戦争の被害者なのであった。

無抵抗の新兵を無残なまでに殴打したり蹴飛ばしたりしながら陶酔しきっている古参兵を目撃するのはもはや日常茶飯事になっていたし、石田自身がその対象にされたのも一度や二度ではなかったが、如何に理不尽なものではあっても上官の命令は天皇陛下の命令そのものであるとする軍規のもとではそんな行為から身を守ることなどできようはずもなかったのである。古参兵から被った虐待に対して新兵がなんらかの仕返しをするとすれば、戦闘時においていわゆる「うしろ弾」をくらわせることくらいしかなかったのだった。

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