ある奇人の生涯

117. 突然の電話の主は?

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

佐々木俊紀を養子にもらってほどなくのこと、突然一本の電話が石田のもとにかかってきた。受話器をとると、ひとこと、ごく短い言葉が響いてきた。
「タッツァン?」
どこか聞き覚えのあるその声を耳にした石田は、一瞬間を置いたあと、驚いた口調で答えた。

「エッ?……なんだ、お前か!」
「そう、私よ!、びっくりした?」
「もしかしたら閻魔様のそばあたりから電話してるのかい?」
「そう、いろいろと事情があってね、それで日本に戻る途中だったのに、なぜか飛行機が海に落っこちてしまったのよ。それでいま、ジョンと二人閻魔様の前にいるの。地獄か、極楽か、これから行き先が決まるところなのよ」

それは紛れもないあのミサの声だった。彼女の声を耳にするのは、ロンドンでの別れ際に電話で軽口を叩き合って以来のことで、思えば、あれからすでに二十年近い年月が流れ去っていた。さすがのミサもいささか歳をとったせいだろうか、その声には以前ほど張りは感じられなくなってはいたが、独特のトーンや語調はなお昔のままだった。そして、そうとわかると、胸中深くでまたもや毒舌の虫が大騒ぎし始めた。

「それで、なに、閻魔様にミサは地獄に行くのが相応しい人間だって証言すればいいのかい?……それだったらお易いご用なんだけどね」
「ふふふふふ……、まあ、その時は閻魔様に訴えてタッツァンも道連れにしてもらうことにするわ」
「それはそうと、僕の電話番号なんでわかったんだい?」
「だって、タッツァンの住所が松本市内だっていうこと、前に貰った手紙でわかっていたから、そんなもの調べればすぐにわかることでしょ。それに、私、いま日本に戻ってきてるのよ」
「この頃は閻魔様のところにも電話番号サービス案内があるのかい?」
「もちろんよ、それにね、タッツァンみたいな悪徳人間はね、どこに隠れたって閻魔様はお見通しなのよ」

ミサのそんな減らず口を耳にするうちに、石田は帰国してまだ間もない頃の映画館での一件を想い出した。
「そう言えばさあ、日本に戻ってから一、二年たった頃だったと思うけどさ、映画館でニュース映画見てたらさ、ミサがバートランド・ラッセルの横に並んで映ってるじゃない。あれには驚いたよ。思わず『ミサがいる!』って叫んで、周囲のお客に何事かとびっくりされたりしたんだけどね」
「ああ、原水爆実験反対運動やってた時のことよねえ……、バートランド・ラッセル卿が全世界に先駆けて核兵器の危険性を訴えようと立ち上がったんで、私もあの平和運動に参加したのよね。そうそう、ラッセル卿の横にちゃっかり坐っちゃったこともあったし、ラッセル卿と直接話したことも何度かあったわよ」
「ミサならではの図々しさだよね。イギリスの良心と呼ばれた人物の横に日本の不良女が臆面もなく並んで坐ってるんだから、恐れ入っちゃったよ!」
「でも、まさか、あの時の私の姿がタッツァンの目にまでとまっていたとは思ってもいなかったわ。でもね、『世界の良心』に感化されて、日本の不良女もかなりの良女に変ったのよ。まあ、ハズバンドのジョンの影響もずいぶんとあったんだけど……。核兵器が広まるのは危険だとジョンはいつも言っていたのでね」
「ジョンの影響って?……彼って核兵器反対運動にとくべつ関心のあるようなタイプの人物だったっけ?」

ミサのそんな言葉に、思わず石田はそう訊き返した。彼にはいまひとつその事情がよく理解できなかった。すると、ミサはなんとも意外な答えを返してきた。
「タッツァンには詳しく話してなかったけど、実はね、ハズのジョンは原子力関係の仕事を専門とするエンジニアなの……。だから、核兵器の危険性も昔からよくわかっていて、原水爆実験には反対だったの……。それに、ちょうどあの頃、ビキニ環礁での水爆実験が原因で第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんが亡くなったでしょ……、それで、日本人の私は象徴的な意味でも反対運動に参加したほうがよいっていうことになってね。タッツァンもご存じの通り、あの頃のイギリスにはまだ日本人なんかほとんどいなかったでしょう。それに、もちろん、一人の人間として私だって核兵器実験には反対だったのよ」
「そうだったんだ。ミサのハズがまさか原子力の専門家だったとはね。もっともまあそれがイギリスらしいところで、隣同士親しいお付き合いはあっても、そこのご主人の仕事がなにかってこと知らないほうが多いものね」

ニュース映画に登場した経緯はわかったものの、ミサが突然電話をかけてきた理由にはまだ気づかずそう応じると、石田を驚かすように彼女はさらに言葉を続けた。
「タッツァン、私たちね、これから当分は日本に住むことになったわ」
「えっ、なんだって?、一時帰国というわけじゃないのかい?」
「実はね、もう日本に住み始めたところなの」
「いったいどこに、東京かい?」
「違うわ、東京からはずいぶん離れたところなのよ。京都や大阪あたりからのほうがずっと近いの……。それもね、美しい松林のある海沿いの静かカントリー・サイドなの」
「そんなところでジョンは何をやるわけ?……まさか隠居するわけでもないだろうにさ!」
「仕事はあるのよ、それも、とても重要な仕事がね。いま住んでるところ、若狭なの、若狭の高浜の和田っていうところ……。東京に着いてすぐタッツァンに連絡とったほうがよいかなって思ったけど、あれこれと慌しかったんで、まずは落ち着いてからのほうがいいだろうと考え直して、電話するの遅くなったの」
「若狭って、たしか福井県の?……、あの舞鶴とか天橋立の近いところ?」
「そうそう、舞鶴や丹後の天の橋立は京都府で福井県じゃないんだけど、この高浜からはそう遠くはないわ。海が綺麗で、魚がとても美味しいところよ」
「でも、なんでまたそんなところに住みついたんだい?」
「さっき、ジョンは原子力関係のエンジニアだっていったでしょ。いまはね、アメリカのウエスティング・ハウス社の主任技師なのよ」
「それが若狭となにか関係があるのかい?」

原子力発電関係の事情に疎く、また、それらの情報にかねがねあまり関心のなかった石田は、いまひとつ状況を呑み込むことができずにそう問い返した。
「いま若狭で関西電力の原子力発電所を何基か建設中なのね。その原子力発電所の技術をウエスティング・ハウス社が中心になって日本に提供することになったんだけど、実は、あ夫のジョンがそのスターティングアップ・マネージャーに任命されたっていうわけなの」
「じゃ、ジョンが若狭の原発建設の技術管理責任者になったっていうことなのかい?」
「そうなのよ。もちろん、日本は唯一の原爆被曝国だし、水爆実験の被害者の第一号も日本人久保山さんだったから、当然、原子力発電所っていうものに対する周辺の人々の不安などもあって、これからの生活、なかなか大変だと思うの。もちろん、経済的な意味でじゃなくって、様々な社会的批判や偏見を覚悟しながら暮していかなきゃならないという意味でね」

バートランド・ラッセルと一緒に核兵器反対運動をやったミサが、今度は母国日本で、原子力発電所建設からその操業開始までの指揮を執る夫を支えていかなければならないというのだった。なんとも皮肉な彼女のそんな運命の廻り合わせを知って、石田はしばし応答に窮する有様だった。
「ジョンが優秀な技術者だっていうこともあったんだけど、ひとつには妻の私が日本人だということもあって彼が選ばれたいきさつもあるのよね。日本でしばらくの間、それも都会から離れたところで暮しながらその重要任務を果しいくには、日本語や日本の風習がよくわかる者がそばにいたほうがよいという判断でね」
「それで、どのくらいの期間若狭に滞在することになるんだい?」
「仕事の進行具合にもよるらしいんだけど、四、五年にはなるんじゃないかしら」
「まあ、あの上海で逞しく生き抜いたミサのことだから、ちっとやそっとじゃめげないとは思うけどね」
「ともかく、まあ、そんなわけなので、東京にでも出向いた折にでも、久々にタッツァンと会うことにしたいわ。なんだったら松本を訪ねたってかまわないしね」
「放射能を撒き散らしに松本までやってくるつもりかい?」
石田は最後にまたそう毒舌を発したが、その言葉とは裏腹に、懐かしいミサの声を聞くことができたのはても嬉しいことだった。

福井県若狭地方の大飯町や高浜町の関西電力原子力発電所は一九六四年頃から同地への誘致が始まり、一九七〇年にまず大飯一号機が着工された。そして、それに続いて、大飯二号機、大飯三号機、さらには高浜一号機と次々に新たな原発が着工されていった。やがて原発銀座と呼ばれるようになる若狭一帯の原子力発電所建設のそれは走りともいうべき出来事だった。ミサの夫、ジョン・ネダーマンはこの一九七三年に来日して若狭高浜の和田海岸近くの原発技術者専用住宅に住みついた。その原子力発電所の技術をウエスティング・ハウス社が中心になって日本に提供することになったんだけど、実は、夫のジョンがそのスターティングアップ・マネージャーに任命されたっていうわけなの」自然が好きだったミサは、夫が仕事に出向いている間、風光明媚な一帯の浜辺や磯辺をのんびりと散策してまわったものだった。

なお、いささか本筋からはそれるが、この話にはちょっとした余談がある。いまこの原稿の挿絵を描いてもらっている渡辺淳さんは、その当時、大飯町を流れる佐分利川上流の山奥で炭焼きをしながら暮していた。のちに高名な画家となり、作家水上勉の各種作品の装丁や挿絵を通しても名声を馳せることになる渡辺画伯は、焼いた炭を売りに高浜方面にも出かけることもすくなくなかった。そして、ミサ夫妻の住む高浜和田の専用住宅などでも炭を買ってもらっていたという。もしかしたら、ミサさんと渡辺さんとは原発完成までの五年の間に一度や二度顔を合わせる機会などもあったのかもしれない。むろん、二人ともそんな運命の悪戯など知る由もないことなのではあったのだけれども……。

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