ある奇人の生涯

89. シャーロック・ホームズ

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

イギリスにやってきてからというもの、石田はコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズを愛読するようになっていた。ロンドン子の目から見たロンドンの街を語るためには、広く庶民に親しまれているシャーロック・ホームズの世界を知らずにすませるわけにはいかなかった。したがって、それは自然な成り行きなのでもあった。英国の熱烈なシャーロッキアンの間では、既にシャーロック・ホームズは実在の人物として語り伝えられるようになっていた。

またいっぽう、世界のあちこちの国においても、シャーロック・ホームズ・ファンによるファンクラブの支部が次々と結成されるようになっていた。そんな流れにのるかのように、1952年、ある有名な元子爵の音頭のもとで、日本にもシャーロック・ホームズ・ファンクラブの支部が結成された。そして、その日本支部結成を記念して、日本からロンドンの市長に当てて一枚の記念プレートが贈り届けられてきた。日本はこの年に念願の再独立を果し、ロンドンの日本大使館も正式に活動を始めたところだった。だから、その記念プレートの贈呈には、あらためて民間レベルでも両国間の友好の絆を培っていくようにしようという深い思いが込められていた。

その記念プレートの除幕式がおこなわれるので、その模様を取材してきてほしいという依頼をBBC当局から受けた石田は、その当日、問題の儀式が催されるという場所へ足を運んだ。コナン・ドイルの小説によると、シャーロック・ホームズはその名脇役ドクター・ワトソンと「クライテリオン」という名のレストランで初めて出逢ったことになっている。シャーロック・ホームズ・ファンクラブ日本支部から贈られてきたその記念プレートには、「シャーロック・ホームズとドクター・ワトソンこの地で出逢う」といった趣旨の一文が刻んであった。小説の中でそのレストラン「クライテリオン」があったとされる場所は、その時にはもう薬局になってしまっていた。だが、スコットランド・ヤード長官の粋なはからいによって、その薬局の入口に遠来の記念プレートが掛けられることになったのだった。

除幕式の時刻になると、正装し威儀を正した警視総監がその薬屋の前に立ってさりげなく懐中時計を取り出し、時刻を確かめるふりをした。すると、ベーカー街のある方角から、一台の馬車がゆっくりと近づいてきた。なんとそれは、小説の中に幾度となく登場する昔ながらのハンサム・キャッブそのままの馬車であった。しかもその馬車には鹿撃ち帽にマント姿のシャーロック・ホームズそっくりの人物が乗っており、薬屋の前までやってくると、その男はパイプをくわえながらおもむろにその馬車から降り立った。そして、警視総監のほうへと近づいていった。

二人は真剣な面持ちで二言三言挨拶の言葉を掛け合い、それから互いに固いかたい握手を交わした。そのあと警視総監はホームズ役の男を薬局の入口に設けられた所定の場所へと導くと、儀式に先立ってあらかじめ嵌め込んでおかれた記念プレートの覆い幕を外すように促した。男の手で記念プレートの除幕がおこなわれると、その様子を見守る人々から一斉に拍手が湧きあがった。そのあと、シャーロック・ホームズ役の男はもう一度総監と握手を交し合うと、再びしずしずと馬車に乗り込み、馬の蹄の音と轍の響きを残しながら悠然とその場所を立ち去っていった。

本物の警視総監のほうは、うやうやしく敬礼しながらその馬車を見送った。イギリス流のユーモアとでもいうべきなのだろう、終始儀式は大真面目でおこなわれ、当事者らが妙に照れ笑いを浮かべたりするようなことはなかった。もちろん、石田はそんな除幕式の様子の一部始終を取材し、ニュース番組と「ロンドン今日この頃」の番組の双方においてユーモアたっぷりに紹介した。

この出来事があってしばらくしてから、ロンドンでは熱狂的なシャーロッキアンを喜ばせるようなイベントがもうひとつ開催された。マリボーンのベーカー街221-Bという番地名は、熱烈なシャーロック・ホームズ・ファンならずとも一度や二度は耳にしたことがあるだろう。小説の中に幾度となく登場するシャーロック・ホームズのホーム・グランドだ。そのベーカー街221-Bにあたる場所において大々的にシャーロック・ホームズ展が開催されたのであった。現在では同所にはシャーロック・ホームズ・ミュージアムが常設されていて、ホームズ・ファンの目を十分に楽しませてくれるのだが、そのミュージアムが開館されたのは、ずっとのちの1990年になってからのことである。

もちろん石田はその催物の取材に出向いた。ホームズの部屋やオフィスを小説そのままに再現したその会場内には、ホームズ愛用のヴァイオリンと医者のワトソンが用いた聴診器なるものが展示されており、また、戸外をゆくさまざまな物売りの声がどこからともなく流れ聞こえてくるような工夫などもなされていた。そして、そんな中でも街路を行く新聞売りの声がひときわ高らかに響きわたるようになっていた。朝食のテーブルの様子をあしらったところにはバターを塗った半分食べかけのトーストののった皿が置かれ、ご丁寧なことに飲みかけのティー・カップからは湯気が立ち昇るような仕掛までがしてあった。

テーブルの一角にはその日の日付のマチェスター・ガーディアンの朝刊が読みかけのまま開かれていて、その中の記事のひとつにはホームズの手によると思われる特別なマークがつけられていた。むろん、それらは、急な事件の展開を察知したか、さもなくばなんらかの事件の手掛かりを見出したホームズが、朝食の途中であるにもかかわらず大慌てで戸外に飛び出していったあとの様子を演出したものだった。

そのほかにも、ホームズが常用していたとされるルーペ類やパイプ類、手帳、マント、帽子、スーツ類などが、リアルな生活感を漂わせるような工夫をしてさりげなく並べられており、架空の人物とされるホームズがほんとうは実在していて、いまもなおベカー街に住んでいるのだと錯覚させられるくらいであった。英国内の有力新聞や著名誌などに掲載されたというホームズ関連の事件記事なるものも実に手の込んだつくりになっていて、お事情を知らない者などがそれらを目にしたら、その記事に書かれていることがすべて真実だと信じ込んでしまってもおかしくないほどの出来栄えだった。

別室には世界各地のファンクラブ支部から寄せられたというシャーロック・ホームズ関連の報道記事が展示されていたが、こちらのほうもずいぶんと手の込んだものばかりであった。シャーロック・ホームズとワトソンが自国を訪れたとか、ホームズが自国の難事件を解決してくれたとかいったような記事を、それぞれの国の言葉と文字でまことしやかに掲載した新聞雑誌が並べられていたからだった。

おそらくは東京あたりで誰かがつくってわざわざイギリスに送り届けたものなのだろうが、表向きには日本の新聞や週刊誌の記事だと称されるものなども展示されていた。それら日本語の展示記事の下には「シャーロック・ホームズが東京を訪問したときの日本の報道記事」という英文による説明がついていた。日本のある有名新聞を模し、「名探偵シャーロック・ホームズ初来日――歓迎の嵐また嵐!」というヘッド・ラインのついた日本語記事をニヤニヤしながら石田はしばし読み耽った。贋記事とはいってもなかなかに凝ったしろもので、その出来栄えに少なからず称賛を送りたい気分にもなった。

そこまではよかったのだが、その新聞記事の隣りに展示されている週刊誌の記事なるものを目にした石田は、その有様に仰天し思わず吹き出してしまったのだった。それは、東京にやってきたホームズを週刊誌の記者がインタビューしたときの様子をまとめたものだと称される切り抜き記事の展示物だったが、なんと、ページ全体を逆さまにして並べ置かれていたのである。ご丁寧なことに、その記事の中央部には「ライオン歯磨き」の宣伝広告が配してもあった。石田には、逆さまになったそれら七個の太文字が息も絶えだえの状態で「なんとかしてくれーっ!」と悲鳴をあげているかのように感じられてならなかった。どうやらその展示物の担当者が日本語のまったくわからないイギリス人であったため、上下の見分けがつかず、結果的に逆さまに配置されてしまったものらしかった。

すぐさま石田はその催物の運営責任者のところへ出向き、自分が日本人であること、BBC日本語部で放送記者をやっていることなどを伝えたあと、日本語の切り抜き記事が逆さまに展示されてしまっているので正しく直してほしいと要請した。もちろん、その要請は即刻受理され、石田の見ているところで係員の手によって正しい向きに戻された。主催者らは石田に感謝の意を表し、「ホームズもきっと喜んでいてくれることでしょう。我々の初歩的ミスに苦い顔をしながらかもしれませんけれどね!」と笑いながら固い握手を求めてきた。

翌日の新聞には、「This is elementary, Dr. Watson!(ワトソン君、これはごく初歩的なことなんだよ!)」という、シャーロック・ホームズの有名な口癖を引用したヘッド・ライン入りで、石田のことが紹介された。イギリスにやってきてからもう何度も新聞にその言動や仕事振りが面白可笑しく紹介されている石田ではあたったが、シャーロック・ホームズ絡みのこの記事に登場したことによって彼にはまたひとつ勲章が増えたのだった。

――日本からやってきている青年放送記者がホームズ展における日本の週刊誌記事の初歩的な展示ミスを指摘し、「ライオン歯磨きという文字が逆さまにされて苦しそうに喘いでいるので、なんとか助けてやってほしい」と申し出てきた。愚かこのうえないミスをホームズから指摘される前に修正することができ、ホームズ展運営関係者一同は皆胸をなでおろしたようなわけだった――その紹介記事はそんなユーモアあふれる書き口で述べ語られていた。イギリスから帰国したあと、石田は数々のシャーロック・ホームズ物の翻訳に携わることになるのだが、もしかしたらそれというのもそんな奇縁のなせる業かもしれなかった。

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