ある奇人の生涯

30. 日本租界とフランス租界

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

翌日と翌々日は米英共同租界の北東部の虹口周辺を中心とする日本人居留地域にも出掛けてみた。英米共同租界やフランス租界などと違って日本人居留地域にはもともと租界としての明確な区画が存在していたわけではなかったが、日本総領事館が虹口に移転してからはその周辺に日本人居留民の住宅街が建設されるようになり、いつしか一帯は日本租界と呼ばれるようになっていた。

日本租界には日本にも縁の深い魯迅が密かに生涯最後の三年間を過ごした住居や、自店員名義でその住宅を借りて魯迅に供した有名な内山書店などもあった。石田が上海入りした時には魯迅はすでに他界していたのだが、彼が住んでいた大陸新邨はなおその瀟洒な姿を留めていた。この大陸新邨は、一九三一年に大陸銀行上海信託部が資本投資して建設した赤煉瓦造り三階建ての住居用テラスハウスだった。魯迅を陰で支えた内山官造は元大学目薬の営業員だったが、一九一七年同地に書店を開業、当初はキリスト教関係の書籍のみを扱っていた。その後、実質的に店を一人で管理していた妻の美喜子が営業を拡大したこともあって、内山夫妻が魯迅と親交をもつようになった頃には上海でも名高い書店となっていた。

その近くには、当時日本軍が使用していた広大な射撃訓練場(現魯迅公園)や知恩院、西本願寺、東本願寺、上海神社、福民総合病院、上海歌舞伎座、北部小学校などのほか、日本居留民団本部、大小の日本人アパートのような日本色の濃い呼称のついた建物や施設が並んでいた。もっとも、それらの建物や施設の構造までもがすべて日本風であるというわけではなかった。

たとえば一九二四年に造られた知恩院は、細かな装飾や彫刻の施された石造りの支柱とアーケード式ベランダをもつイスラム風の壮麗な建築物だった。鮮やかな色彩をしたアラビアタイル張りの美しい壁面を眺めながら、石田は、この堂内で僧侶らが読経したり仏典の講釈をしたりしたらいったいどんなことになるのだろうと想像をめぐらしたりもした。やはり一九二四年に日本人医師の頓宮寛が開いたという福民病院は想像していた以上に立派な六階建ての近代的総合病院で、魯迅の妻の許広平が出産したのをはじめとし、彼の親族や知人たちの多くがこの病院で診療を受けていたというのも十分に頷けた。

邦人上海居留民団子弟のため一九〇七年に創立されたという北部小学校は、重厚な石造り四階建ての美しい構造をもち、窓が多く採光も十分な感じで、古びた木造やバラック造りの校舎がほとんどの日本本土の小学校などとは比較にならぬほどに立派なものだった。
一九二四年にワトソン清涼水工場を改造して開設された上海歌舞伎座にも立寄ってみた。やはり立派な造りではあったが、日本の歌舞伎座などとは外観がまるで異なっていたため、博多の芸人町で生まれ幼い頃から歌舞伎の世界に慣れ親しんで育った石田は、正直なところすくなからぬ違和感を覚えもした。

この時は外観を眺めるだけにとどめたが、上海に定住するようになってからというものは、当然、石田はこの上海歌舞伎座にも幾度か足を運んだ。外観とは違ってその内部は階上四百席、階下六百席の花道つき純日本式劇場となっていて、折々本土から公演に訪れる歌舞伎役者たちの名演技に邦人上海居留民を中心とする観衆はみな深く魅了されたものだった。厳しい思想統制が敷かれ、重苦しい雰囲気に包まれはじめていた日本国内と異なりなお自由な空気の漂っていた上海にあっては、歌舞伎役者たちも独特の開放感を感じながら伸びのびとした演技を披露できるようでもあった。

内山書店や福民病院からほど近いところにある多倫路周辺には様々な市が立ち並び結構な賑いを見せていた。この多倫路界隈には様々な文人や各界の名士らの仮寓や隠遁所などがあちこちにあるということだったので気の向くままに付近を歩きまわってみたが、独特の風情と存在感を湛えた煉瓦造りの店舗や住居が棟々を連ねて立ち並び、かねてから美観や美的センスには人一倍こだわりのある彼もそれなりに心惹かれる思いだった。当時中国人作家たちの溜まり場にもなっていたABC喫茶店やクンフェイ珈琲店などもこの近辺に位置していた。

どこか身を落ち着ける場所を探そうとしていた彼は、日本租界地区内にある日本人アパートや日本人居留民団本部なども一通り訪ね歩いてみた。日本人アパートなどは当時本国ではまず目にすることのできない超モダンなデザインをもつ多層構造の建物で、その建築センスに彼はすくなからず感嘆した。日本居留民団本部は三階建てのがっしりした石造りの建物だった。当初、石田はその居留民団本部を訪ね、貸部屋についての情報もらったり仕事の斡旋をしてもらったりしようかと考えた。しかし、日本租界を見てまわるうちに、いろいろと新たに思うところが生じ、結局、そこを訪ねて貸部屋情報を得たり仕事の斡旋を受けたりすることはやめた。

日本租界一帯に住む日本人たちは皆日常的に日本語を使って生活していた。だから、付近の商店街では日本語が飛び交っていて、様々な看板類なども日本語で表記されたものがほとんどだった。この時期には上海の外国人居留者の大部分を日本人が占めるようになっていたから、それは当然の成り行きではあった。したがって、日本租界のどこかに部屋を探しそこに住めば、まだ東も西もよくわからぬ上海の地ではあっても不必要に不安を感じることなどなく生活できるはずであった。

だが、既に大連の老虎灘でも外国人に取り巻かれて暮らしてきた経験のある石田には、この国際文化都市上海にやってきてまで、日本的な習俗や価値観、生活感覚などに捉われながら生きることが必ずしも意義あることだとは思われなかった。もはや語学に関してはなんの不自由もなかったし、諸々の外国人と生活を共にすることにもまったく不安はなかったから、長期的に考えてみた場合、むしろ日本租界以外の地域に住いを求めたほうが賢明であるような気がしてきたのだった。また、万に一つのナーシャとの再会を期したり、たとえそうでなくても彼女に関するなんらかの情報を入手できるようにするためには、フランス租界か米英租界に住んでいたほうがよいようにも感じられた。

石田が最後に訪ねてみたのはフランス租界だった。英・米租界が誕生して間もない一八四八年、上海駐在フランス領事としてこの地に降り立ったモンティーニは清朝の出張機関長である上海進台の呉健彰に対して自国にも租界の開界を許可してくれるように申請、その結果、翌一八四九年に上海県城域(現在の豫園商場一帯)とイギリス租界とに挟まれるかたちで初期フランス租界は誕生した。その後、フランス租界はイギリス租界の南側に東西に細長くのびるかたちで大きく発展、最終的には上海県城の北半分をぐるりと取り囲む地域全体が同国租界の一部となった。商業の中心地として一大成長を遂げたイギリス租界や港湾を活かし工業地帯として開発の進んだアメリカ租界と違い、当初からフランス租界の大部分は環境に恵まれた閑静な住宅街として発展した。そのため、フランス様式の建物や住居が立ち並び、フランス庭園やパリ風の街路に囲まれた上海随一の理想的な生活空間区となっていた。

フランス租界に一歩足を踏み入れた途端に、石田はその街並み一帯に漂う誇らかな文化の香りに圧倒された。そして、なにゆえにこの租界地区が東洋のパリとも称されているのかが理屈抜きでわかるような気がしてきた。ネオ・バロック様式のフランスクラブ(現花園飯店)やアール・デコ様式のキャセイ・マンション(現錦江飯店北楼)などの偉容を目の当りにして感嘆したり、法国公園(フランス公園)の美しさに見惚れたりしながら付近をあちこちと歩きまわるうちに、彼はなんとしてもこのフランス租界の住宅街のどこかに小さな部屋でも借りて住みたいものだと思うようになった。爽やかな大気や洗練された独特の雰囲気をはじめとし、なにもかもが自分の感覚にしっくりとくるこの街で暮らせるなら、住む部屋そのものはどんなに古くて狭かろうとすこしも構わないとも考えた。

フランス租界にはキャセイ・マンションのほかにクレメントアパート(現克菜門公寓)やノルマンディ・アパート(現武康大楼)といったモダンな集合住宅や、上方花園や新康花園のようなスペイン風ガーデンハウスなどもあり、それぞれに風格と風情があって魅力的なことこのうえなかった。ただ、さすがに石田もそんなところに住もうとは思わなかったし、たとえ住みたいと思ってみたところで住めるはずなどあるわけもなかった。彼にしてみれば、当面、そんな高級住宅の立ち並ぶ街々の片隅にでも身を置くことができるならそれだけでも満足であった。

フランス租界のすぐ隣りは上海県城であったが、その城域内にある豫園とそれを取り巻く中国古来の商店や民家のたたずまいにも石田はすくなからず心惹かれた。モダンなフランス風文化と古い中国の伝統文化とが明確に一線を画しながらも互いに接し合い共栄している有様は実に不思議なものでもあった。歴史の悪戯と言ってしまえばそれまでだったが、そのなんとも奇妙な取り合わせが彼はいたく気に入った。まさに国際都市上海の「際」という一文字にふさわしい光景だったからでもある。

明代の一五五九年に造営された豫園は「都市のなかの山水」と称えられる名園だった。もともとは刑部尚書を務めた藩恩という人物の菜園であったが、その息子の藩允端が晩年を迎え静かに余生を送る父親のために庭園に造り変えたものだった。孝行息子の藩允端などとはまるで違って孝行するいとまさえもなく父親をなくし、母親にも心労ばかりかけることの多かったおのれが「豫悦老親(老親に悦びを与える)」の意を暗に含むとも言われるこの豫園にひとときの安らぎを求めて散策するという運命の皮肉を、内心で石田はついつい苦笑せずにはおられなかった。そして、すこし生活が落ち着いたら母親と二人の妹をこの上海に呼び寄せようと思うのだった。

初めて訪ねる豫園の景観は想像していた以上に素晴らしいものだった。方形に近い荷花湖上にに架る九曲橋と湖面に浮かぶ湖心亭との絶妙な取り合わせなどの背後には、人工のものとは言いながらも、長いながいこの国の歴史の重みと彩りが秘められているように感じられてならなかった。また、大仮山という築山や会景楼と呼ばれる望楼からの眺望も息を呑むばかりで、文字通り絶佳の一語に尽きた。欧米や日本の租界地とは見るからに雰囲気の異なるこの園内を今後も折々徘徊することになるだろうと予感しながら、彼はしばし雑事を忘れてその美しい景観を楽しんだ。

豫園のすぐ西側に広がる商店街も壮観を極めた。清代からの老舗や伝統的な造りの大店舗が階を重ね軒を連ねて立ち並び、異様なまでの活況を呈していた。雑多な日用品は言うに及ばず、珍奇な漢方薬から見たこともないような食材、真贋入り混じった得体の知れない骨董品から古書類までと売られている商品も多種多様で、まさに中国数千年の歴史の縮図を垣間見る思いだった。

豫園を中心とする上海県城域をあとにした石田は、再びフランス租界に引き返すと閑静な住宅街や公園地帯を西に向かって通り抜け、同租界に一輪咲く異色の大麗華とも巨大な悪の華とも言うべき大世界方面へと足を向けた。そして、黄昏の迫る街路を感慨深げに踏みしめ歩きながら、その胸中で「身を落ち着ける場所はやはりこのフランス租界をおいてはないよな」と呟き、上海での新たな生活にこれまでとは違った人生の展開を期すことにしようと、あらためて己の決意を固めるのだった。

カテゴリー ある奇人の生涯. Bookmark the permalink.