ある奇人の生涯

37. 新たなる出逢い

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

望外の日本語学校成功のお蔭で、はからずも上海の名士の一人として名声を馳せるにいたった石田は、さまざまな催し物などがあるときなどには各方面から真っ先に招待されるようになった。そして、それにともない、一大享楽街の大世界周辺は言うに及ばず、市内の高級ホテルや高級クラブなどにも頻繁に出入りするようになった。そんな華やかな日々のなかにあって、彼はたまたま外灘地区にあるパレスホテル(現和平飯店)に何日か滞在することになった。当時のパレスホテルは上海では最高級のホテルの一つで、そこに出入りしたり宿泊したりすることのできる人々は欧米系の要人や日本軍幹部、あるいは民間資産家などごく一部の特別な階級に属する人々にかぎられていた。

そして、そんなパレスホテルのロビーやラウンジ、レストラン、バー、ギャンブルコーナーなどを気の向くままにめぐり歩いても、それがすこしも不自然に感じられないほど洗練された身振舞いをすっかり彼は体得し実践していた。一七六センチという当時の日本人には珍しいほどの長身、二枚目スターなみの甘いマスク、ジョークや風刺を織り交ぜた知的な話術、そして日本人離れした抜群の語学力もそんな彼をいちだんと際立たせるのに一役買っていた。

ホテル滞在中のある日、なにげなくフロントロビー付近を通りかかった石田は、どこからともなく自分に向けられている誰かの視線のようなものを感じた。はっとしてあたりを見まわした彼の目に飛び込んできたのは、ホテルのフロントに立つ一人の美しい女性の姿だった。互いの目と目が合った途端に石田の全身を電撃のようなものが貫き走った。相手の女性は彼の心中を即座に察知でもしたかのように無言で軽く会釈しながら微笑みかけてきた。まるでその微笑みに操られでもするかのようにとりあえず彼もどこかぎこちない微笑みをもって応じ返した。その瞬間、まだ一言も言葉を交わしていなかったにもかわらず、二人はそれぞれに、互いの心と心が凛とした一筋の強い魂の糸で結び繋がれるのを確信し、また実感した。まさに運命のなせる不可思議な業(わざ)と言うに相応しい男女二人の出逢いであった。

視線を合わせたまま、一瞬、間を見計うようにその場に佇んだあと、まるで見えない糸に手繰り寄せられるみたいにして石田は彼女のほうに近づいていった。そして、たまたまお客の出入りのすくない時間帯でもあったのを幸いに、彼女に向かって初対面の挨拶を兼ねた軽妙なジョークまじりの短い一言を投げかけた。見るからに洗練され、日本人離れした感じの女性ではあったが、明らかに彼女は日本人だと思われた。しかし、自分の思いをさりげなく込めたキレのよいジョークをごく自然に発するには、日本語より英語のほうがずっとふさわしいと考えた彼は、流暢な英語で彼女に向かって話しかけてみたのだった。

すると彼女は悪戯っぽい笑みを満面に湛えながら、これまた見事な英語と洒落た言葉の一太刀をもって彼の言葉を受けかわした。それをまた逆手にとって彼がもう一歩深く切り込むと、彼女のほうはこともなげにその切り込みを再度鮮やかに受け流した。時間にすればごく短い間のことにすぎなかったのだが、そのウイットとエスプリに富んだ会話を通して二人は内心互いに、相手の人となりが初めに直感した通りであることを確かめ合った。石田が相手に名を訊ねると、彼女は「流れ者のミサ」と名乗って、男心を揺すぶらずにはおかないその魅惑的な瞳を、妖しいまでの光を内に秘めつつ一瞬きらりと輝かせた。

しばらくすると外国人の宿泊客がチェックインのためにフロントに現れたので、石田は彼女と会食でもしながら一度ゆっくりと話そうという約束だけを取りつけ、いったんその場をあとにした。よどみのない英語を駆使し、てきぱきとした態度で接客する彼女の様子をいま一度振り返りながらホテルを出た彼は、久々に満ち足りた気分で黄浦江沿いの公園地帯を歩きだした。ミサと名乗るその女性との想わぬ出逢いが彼の心をいやがうえにも浮き立たせていた。そこは彼もまだ若く、煩悩もけっしてすくなくない男であった。
 
それから二日後の夜のこと、仕事を終えてホテルを出たミサと南京路の一角で待ち合わせた石田は、行きつけの中華レストランに彼女を案内した。そして、コースものの本場中華料理に舌鼓を打ちながら、まずは自己紹介をかねてお互いのこれまでの人生などについてあれこれと語り合った。

面前に坐る彼女の姿やその磨き抜かれた身のこなしを目にしながら、石田はあらためてその知的な美貌と溢れでるような気品とに感嘆するばかりだった。それまでにも美人と評判の女性たちとすくなからぬ付き合いのあった石田だが、その彼にしてから、心底綺麗だと驚嘆し、才色兼備という言葉はまさに彼女のためにあるのではないかと思ったほどだった。その群を抜く美貌は、精神的にも身体的にもひとりの人間として十分に成熟しきった、そして社会的にも完全に自立を遂げた女性ならではのものに違いなかった。まだ徹底した男性優位の社会だったその時代の日本女性としてはきわめて異色な存在だったといってよい。

パレスホテルのフロントで目と目が合った瞬間から、直感的に相手のなかに自らとおなじニオイを嗅ぎ取っていた彼と彼女のことだったから、たちまち二人は意気投合し、その会話はごく自然に弾んでいった。ただ、まだ出逢ってまもないこととあって、さすがに言葉遣いだけはお互い丁寧だった。フロントで初めて短い言葉を交し合ったときと違って、もちろん今度はお互い日本語での会話だった。

「いきなりレディに歳を尋ねるのはちょっとどうかと思うんですが、ミサさんは何年生まれなんでしょう?……まさか紀元前の生まれじゃありませんよね。僕のほうは一九一六年の博多生まれなんですが……」
「私はladyなんかじゃなくってreadyのほうですから、遠慮なさらずなんなりと訊いてくださって構いませんよ。私は一九一五年生まれ、もちろん紀元前ですから、石田さんより一歳年下ということになりますね。生まれはいまの千葉県あたりだったような気がしますが、なにしろもうずいぶんと遠い昔のことなので忘れてしまいましたわ」
「ははははは……、紀元前のことじゃ、確かに千葉県はもちろん、日本って国だってまだありませんでしたものね」

実際には石田よりも一歳年長だったミサが、巧みな会話の受け流しを通して自分のほうが一歳年下だととぼけるその有様に、彼は笑い転げながらも、内心さすがだと思うのだった。そこでさらに彼はミサに問いかけた。

「ミサさんは一昨日初めて会ったとき、確かご自分のことを『流れ者のミサ』だなんて名乗りましたけど、流れ者になる前のミサさんはどこにいらしたんですか?……いくらなんでも竜宮城だったなんてことは……」
「東京麻布鳥居坂の東洋英和女学院っていう私みたいな時代のヒネクレ者を教育する専門学校を卒業するまでは、まあ、おとなしく東京周辺で暮らしていました。でもね、私、幼い時分からずいぶんと勝気な性格でしてね。だから、東洋英和卒業が間近になった頃から、なんとか国外に飛び出して未知の世界で思うがままに生きてみたいって考えるようになったんです。もちろん特別なツテもなく女一人で海外に渡るにはそれなりの覚悟もいりましたけれどね」
「東洋英和のご出身ですか。それじゃ、ずいぶんと自由な校風の中で外国文化や語学の勉強などもなさったんですね。道理で見事な英語を!」
「ところがですね、伝えきくところによると、敵性語や敵性思想排斥運動とかの煽りをうけて、昨年、東洋英和女学院の『英』の字を『永』に変えて東洋永和女学院という学校名になったんだそうですよ。バカバカしいったらありゃしないんですけど、英国憎けりゃ『英』の字も憎いってことなんでしょうね。ただね、英語やフランス語が上達したのは上海にやってきて多くの欧米人と親しく交流するようになってからですね」
「それじゃ、東洋英和を卒業したあと単身上海に?」
「ええそうなんです。思想統制は厳しくなるいっぽうでしたし、女性の人格や権利などは軽視されていくばかりでしたでしょう。だから、私ばかりでなく、自立心が強く自由な空気に憧れる女性たちはずいぶんと上海に渡ってきたんです。もちろん、身に振りかかるいろいろな危険は承知の上で……」
「ご両親は心配なさらなかったんですか?、おそらくはずいぶんと大切にお育てになられたんでしょうから……」

彼女の身体から自然に溢れ出るような気品は、幼い頃からのその育ちを通して形成されたものに違いなかった。そのことを直感した石田は敢えてそう訊ねてみた。

「私は三人姉妹の長女でしてね。妹たち二人は私なんかと違って誰もが認める日本的な美人で、しかも性格もとても優しく穏やかだったんです。ただ、それにくらべて私のほうは男勝りなうえに、社会にも親に反抗的で、おまけに美人でもなんでもないときていましたから、自分から国外に飛び出したことを両親だってかえって喜んだんじゃないでしょうか。厄介払いができたって……。そのまま日本にいたって働き口もないし、嫁にも行くようなところもないということで両親がやきもきしましたでしょうから……」

そんなミサの言葉を耳にして、石田は思わず呆れるような口調で言った。

「いくらなんでもそんなあ!……、妹さんがた二人のことはよくわかりませんが、それはともかく、ミサさんが美人じゃないっていうなら、この世に美人なんていませんよ。この上海じゃ、ミサさんずいぶんと評判になっているんじゃないんですか?」
「文化的に洗練された上海にはそのぶん素敵な女性も多いですから、私なんかとてもとても……。知性も品性もない性悪女としてなら話はべつかもしれませんけれどね」

ミサはそう言うと、引き締まった口元にかすかな笑みを浮かべ、悪戯っぽく両の瞳をきらきらと輝かせた。そのなんとも蠱惑的(こわくてき)な表情に石田は心身ともに成熟しきった大人の女性ならではの底知れぬ魅力を感じるのだった。

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