ある奇人の生涯

102. 藤倉武蔵の刀は折れて

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

英国民ばかりでなく世界中の人々が待ち望んだエリザベス女王の戴冠式ではあったが、そんな戴冠式の前評判ぶりに嫉妬でもしたのであろうか、天は女王に好天を恵んではくれなかった。戴冠式当日の6月2日は、こともあろうに早朝からひどく荒れ模様の天候で、いつになく気温も低く、強風のために横なぐりの雨が容赦なく叩きつけてくる有様だった。

通常、6月のロンドンは1年中でもっとも好天に恵まれる時節にあたり、晴天の日々が続くことで知られていた。国王や女王の実際の誕生日がいつであっても、各国の元首や国内外の著名人を招いて催される公式の誕生祝賀会を6月初旬の土曜日に催すように定められているのもそのような理由からだった。ちょうど、日本の11月3日の文化の日のようなもので、晴天の特異日にあたるその日に戴冠式の日取りが定められたのは当然の成り行きといえた。しかしながら、そんな目論みは結果的に裏目となってあらわれてしまったのだった。

例年の6月なら正装をしている者にとっては暑くも寒くもなく、心地よいかぎりのはずなのであったが、この日、ロンドンは誰もが驚くほどに異常な寒波に襲われたのだった。戴冠式のおこなわれるウエストミンスター寺院の前に組み立てられた高さ20メートルほどのやぐらの上のBBC放送席には冷たい風雨が吹きつけ、レインコートを着ていてもガタガタ身体が震えるほどの寒さであった。この特設放送席にはテレビの受像機が設置され、NHKから派遣された実況放送担当の藤倉修一はそこに映し出される映像を眺めながら実況放送をおこなう手筈になっていた。

実際に戴冠式のおこなわれるウエストミンスター寺院内に立ち入ることを認められたのは、日本語部の日本人スタッフの中ではミセス・クラークのみであった。ロンドン社交界の花形でもあったミセス・クラークこと伊藤愛子だけは、英国王室や英国政府筋にも及ぶその広い人脈を通じて、この日の式典の直接取材をおこなう許可を取りつけていた。実際、日本国内でなら知らない人など誰一人いない藤倉修一のような人物でさえも、寺院内での直接取材は許されないという厳しい状況なのであった。

やむなくして、藤倉は寺院外の特設やぐら上に詰め、リアルタイムの実況放送ならぬ、「実況録音放送」をやらざるをえなくなった。しかも、実況録音放送ならまだしも救いがあったのだが、現実には「実感録音放送」とでも称すべきなんとも情けない状況に甘んじなければならなかった。もっとも、だからといって、不平不満を並べ立ててばかりいるわけにもいかなかった。その特設やぐら上に設置された白黒テレビの映像を見ながらの「実感録音放送」でさえも、アジア諸国の各国語放送部局の中にあっては、日本語部局のみに与えられた特権だったからである。

この日、石田達夫のほうはバッキンガム宮殿に待機し、そこで女王一行のパレード到着の様子を取材することになっていた。しかも、6月にはまれにみるような荒れ模様の天候の中、冷たい風雨にさらされながらの見物ときていたから、踏んだり蹴ったりもいいところの情けない事態となった。

イギリス到着直後からなにかと石田の世話になっていた外大助教授小川芳男の場合は、現地での仕事がらみのバックグランドがないだけに、状況はもっと大変であった。なんとかして戴冠式を終えたあとのエリザベス女王の晴れ姿を一目見てみたいと思った彼は、パレードのおこなわれる街路沿いに設けられた観覧席のチケットを入手しようとしが、なかなか願い通りには事が運んでくれなかった。小川が渡英した4月末頃までにはよい席のチケットはすべて売り切れてしまっていたからだった。そこで小川はなんとかならないものかと急遽石田に相談をもちかけた。

石田はあちこちをあたり、ようやくのことで小川のためにまあまあの屋外観覧席のチケットを入手することができたのだが、多数の外国人観光客が押しかけてきたこともあってすでにかなりのプレミアがついていた。そのため、小川は25ギニーの対価を支払わなければならなくなったのだが、欧米通貨に対する日本円の為替レートが著しく低い時代のことであったから、そのチケット代は円に換算すると3万円ほどにも相当していた。当時の日本人にとっての3万円という金額は、現在のそれとは違って並大抵のものではない。いくら世紀の祭典を目にするとはいっても、それは小川にとってクラクラするような出費であった。しかも、6月にはまれにみるような荒れ模様の天候の中、冷たい風雨にさらされながらの見物ときていたから、踏んだり蹴ったりもいいところの情けない事態となった。

ウエストミンスター寺院での戴冠式が始まると、特設やぐら上の藤倉はいつものように録音作業に孤軍奮闘することになった。右手にマイクロフォンを持ち、左手で音量の調節をし、その合間に時々腕時計を睨みながらのなんとも原始的な世紀の録音放送となったのだった。ディレクターも助手もおらず、ストップ・ウオッチひとつない状況下での収録は終戦直後の日本国内においてさえまず考えられないようなものであった。さらにまた、そんな藤倉修一に異常な寒気が追い討ちをかけた。

英国においても戴冠式は25年ぶりのこととあって、現地の報道にはイギリス人にとってさえも耳馴れない言葉が続々と登場してもいた。それらの言葉をむりやり日本語に直してもらったものをおりこみながらの放送だから、話はますます厄介だった。BBC日本語部スタッフの協力もあって、さまざまな故事来歴、戴冠式の次第、戴冠式で重要な役目を任じられている人物の経歴、各国元首についての諸々の情報などの資料は数々用意されはいたが、藤倉にすればいまひとつピンとこないものばかりだった。

せめて戴冠式のおこなわれるウエストミンスター寺院の内部の様子でもあらかじめわかっておればよかったのだが、式場の下見を許されるのは当日寺院内での取材に携わる者だけに限られていたから、それさえもならぬまま、ぶっつけ本番で臨むしかないというわけだった。しかも、エリザベス女王の式場入りの時刻やその手順、戴冠式で着用される衣裳などについての情報もその日になって発表されたばかりであったから、藤倉が当惑するのも当然だった。

「エリザベス女王がただいまウエストミンスター寺院にご到着になられました。その若くて輝かしいばかりの笑顔は、まるであたりに匂い伝わりでもするかのようになんとも美しくていらっしゃいます。あっ、いまそれに続いていまチャールズ皇太子がご到着になられました……」

そこまではよかったのだが、女王一行がウエストミンスター寺院の中に入ってしまうと、実際問題として、もうどうにもならなくなってしまった。実況放送とは名ばかりで、その現実はテレビを見ながらの実感放送というわけだったから、その結末は至極当然のことではあった。藤倉が式場内の様子を放送し始めてすぐさま困惑したのは、唯一の頼りとなるはずであったテレビ画像の予想外のめまぐるしさだった。ウエストミンスターの式場内にはBBCのテレビ放送が始まって以来のことという触れこみのもと、十数台にのぼるテレビカメラが配列設置されていた。そして、それらのカメラが捉えた映像を次々に映し出していく関係もあって、画面がどんどんと切り換わり、儀式全体の自然な流れや、個々の儀式の詳細を伝えてくれるはずの画像が折々中断されてしまうのだった。おかげで、実況放送はおろか、実感放送でさえも危うい事態になってしまった。

「ええっ……ただいま、女王様は中央式台にお進みになり、カンタベリー大僧正から純白のガウンをお受け取りになられました……ええ……つづいて女王様は玉座にお戻りになられ……(絶句)……」

藤倉がそこで絶句してしまったのも当然だった。女王が玉座に戻った途端にテレビの画面はその場に居並ぶ各国元首や高位高官の賓客らの姿を捉えた映像に切り換わり、すぐにはエリザベス女王の様子を捉えた映像に戻ってはくれなかった。そのために、せっかく描写しはじめた女王の様子についての言葉が途切れてしまい、あとが続かなくなってしまったのだった。だからといって、適当に想像をめぐらしながら話を続けたりしたら、再び女王の姿が映し出されたとき、まるで辻褄の合わない状況になってしまっているおそれがあった。

事前にさんざん苦心して調べ上げた式次第についての原稿を頼りに放送をしようとしても、単調な儀式の放映を避けるために、テレビの画面のほうは、貴賓席や聖歌隊の様子を伝える映像、ステンドグラスの映像、さらには聖職者らの映像といった具合にめまぐるしく切り換わって、いったい式がどこまで進みどのような展開をみせているのか、藤倉にはさっぱりわからなくなってしまった。その結果として、当然、放送のほうは絶句につぐ絶句という、新米アナウンサーにおいてさえも考えられないようなシドロモドロの状態になってしまったのだった。

「ええ……このあといよいよ戴冠の御儀に移るはずなのですが……ええ……まだ、その前になにかが……(絶句)……カンタベリー大僧正が女王の頭上に授ける王冠のほうの準備も整えられているはずなのですが……(絶句)……あのう……(絶句)」といった有様で、NHK屈指のベテランアナウンサー藤倉修一も、もはや形無しというほかはなかった。そして、あれやこれやでもたもたしているうちに30分の録音放送時間が切れてしまい、さらに悪いことには、式典の進行が予定よりもわずかに遅れてしまったために、クライマックスとなるべき肝心の「戴冠の儀」の放送が収録できなくなるという、なんともさんざんな出来に終わってしまったのだった。

ああ、巌流島の決戦に藤倉武蔵敗れたり――思いもしなかった無様な結果を前にしてへとへとに疲れ果て、半ベソをかきながら、夕刻、藤倉修一は自室へと戻ってきた。なんのためにはるばるイギリスまで派遣されてきたのかという思いがつのるばかりだったし、NHKにもまったく申し訳がたたないとあっては、藤倉が落ち込むのも無理のないことであった。しかも、6月にはまれにみるような荒れ模様の天候の中、冷たい風雨にさらされながらの見物ときていたから、踏んだり蹴ったりもいいところの情けない事態となった。すっかり打ちひしがれてしまっている藤倉は、TBSの期待を一身に背負う徳川小次郎の凱旋の姿を正視するのが正直なところ怖くもあった。

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