その年の八月上旬のある深夜のことだった。突然鳴りだした電話のベルで私は目を醒ました。慌てて手にした受話器から流れ出てきたのは、いつになく弱々しい、しかし懸命に何事かを訴えかけようとする石田翁の声であった。
「すぐにこちらへ来てくれませんか。どうしてもあなたに会って話をしてみたいんです。周囲の者たちはみんな、僕の頭がおかしくなってるって言うんですが、自分ではそうは思っていない……。あなたに会って話すことができば、狂っているのがほんとうに自分のほうなのかどうかを確認することもでるかと思いましてね……。なんなら、かわりにあなたにその判断をしてもらうことだってできるだろうとね……」
力のない声と口調で石田翁はいきなりそんなことを訴えかけてきた。どうみてもこれは尋常なことではないと判断した私は、すぐさま車のハンドルを握り、穂高町に向かって走りだした。かねがね私のことを「府中のドラキュラ」などと言ってからかっていた本家本元のドラキュラ翁が、いまだにドラキュラ見習いにすぎない小物のこの身を呼び寄せるなんて、いったい何事が起こったのだろうと、アクセルを踏み込みながらいろいろと想像をめぐらせてみた。だが確かなことはいまひとつはっきりとしなかった。
早朝に穂高の石田邸に着いてみると、邸内いるのは石田翁本人と養子の俊紀さんの二人だけだった。お会いするのはその時が三度目だった俊紀さんと簡単な挨拶を交わしたあと、私はすぐに石田翁の書斎兼ベッドルームの部屋に入った。私の姿を目にした老翁は、そのままでというこちらの制止の言葉にも耳を貸さず、自力で身を起こすとベッドの端に腰掛けた。そして、「やあ……、あなたが来るのを待っていたんですよ」とちいさく呟き、それからひとつ大きく息をつくと、喰い入りでもするかのように私の顔をじっと見つめた。
私はそこに、轟音と土煙とをあげて崩れ落ちる寸前の巨大な古木の姿を見た。大きな幹はすでに空洞化し枯れ朽ちてしまっているが、枝先のいくつかの葉はなお奇跡的に生命の輝きを発している――そんな老大樹の最期の姿を眼前の老翁に重ね見たのだった。石田翁の身体の一部は明かに植物化しかけていた。だが、並外れて強靭な精神力と明晰で知られた頭脳とが、身体を構成する全細胞やその機能すべての完全な植物化をぎりぎりのところで阻止していた。それは、いわゆる「死相」が出ている状態には違いなかったが、その身体の内奥にあってなおも脈動し続ける精神の煌きに、私は心底敬意を表せずにはおられなかった。
石田翁の語るところを極力自然体で受けとめ、その姿をありのままに直視しようと決意した私は、あらためてベッド脇に椅子を引き寄せると、おもむろに腰をおろして静かに翁の顔に見入った。少々もつれ気味でしかも途切れがちに発せられる老翁の言葉には、かつてのような勢いや鋭い切れ味は感じられなかった。毒舌の権化のような姿を知るこの身にすればいささか複雑な思いもしたが、それもまた、老翁と私との運命的な出逢いの帰するところとあればやむをえないことだった。
養子の俊紀さんほかの詳しい事情を知る人々からのちになって聞いたところによると、その数日前、内臓の血管破裂によって突如ひどい吐血や下血に襲われた石田翁は、そのまま失神状態に陥り、たまたま来訪した近隣者に発見されて穂高病院に担ぎ込まれたのだった。幸い、医師らの懸命の治療によってなんとか一時的に小康を得たものの、意識が回復し、いくらか体力を取り戻すと、老翁はベッドで激しく暴れもがき、身体に付けられた医療機器類の管やコードをひきちぎったりして、それ以上の治療を断固拒絶しようとしたのだという。
さらにまた、病変のゆえに次々に起こる異常な幻覚や幻聴を現実の出来事だと信じて疑わなかった石田翁は、それらの状況にはとても耐えられないから自宅へ戻ると強硬に主張して譲らず、制しきれなくなった医者や周囲の者たちは、最終的に自宅療養もやむなしという決断を下したのだった。もちろん、その背景には、いずれにしろ死期はそう遠くないという判断があったからだった。だが、老翁がこの日私に真剣な口調で語ってくれた状況は、当然それらの話とはまるで異なるものであった。
――自分が入院していた個室の脇にはオペラの練習用舞台が設けられていて、男女数人のオペラ歌手が、昼も夜もなく二十四時間耳をつんざくような大声で練習を続けていた。ドタンバタンという凄まじい物音も響いてきたし、時折、ベッドに横たわっている自分のほうを覗いては皆で嘲笑するような声が聞こえたりもしてきた。いまにも頭がおかしくなってしまいそうで、とても眠ってなんかおられないので、その状況を医者や看護婦、見舞い客などに懸命に訴えてみた。だが、誰もが、絶対にそんなことなんかない、それは病気のせいで私がちょっと錯乱を起こしているからだと言うばかりだった。身体中にたくさん管を付けられて自由を奪われたうえに、あんな拷問まがいの騒音地獄に見舞われてしまったら、どんな人間でもとても我慢なんかできるものじゃない。周りの者たちは皆は否定するけれども、あれは絶対に事実だったと私はいまも思っている。病院側は都合が悪いから事実を隠そうとしているんじゃないのだろうか――
老翁は、何度も考え込むようにしながらそんな内容の話をいくつか私に話し伝え、そのあとで、それらの事実をどう思うかと真顔で尋ねかけてきた。幸い、この時すでに、私のほうには、たとえどんなことであろうとも石田翁が事実と信じるところをすべて肯定して受け入れることにしようという心の準備ができていた。だから、私はごく自然に老翁の話に耳を傾け、頷きながら同調し、無理のないかたちでその場の会話を進めることができた。
もちろん、このような場合にはそう対応するのがベストだと考えたからでもあったが、石田翁の話そのものも、病院での幻覚や幻聴の一件をのぞいてはごく正常なものだった。それまでになく声が小さくて言葉が滑らかに出てこないのをべつにすれば、他の話の内容やその展開にはおかしいところなどまったくなかった。入院先の病院でのオペラにまつわる幻覚などは、長年にわたる英国でのBBC勤務時代に、あちこちの劇場やオペラハウスなどに足繁く通ったことのあるこの人物ならではのものだといえた。幻覚や幻聴であるとはいえ、病院のベッド上で耳にしたというオペラの曲目や歌詞までもはっきりと記憶しているその異能ぶりのほうが、私にはよほど驚くべきことでもあるように思われてならなかった。
養子の俊紀さんはその日どうしても出社しなければならないということだったので、しばらくすると邸内には石田翁と私の二人きりになった。そこで私はタイミングを見計らって近くのスーパーマーケットまで車で一走りし、老翁の好物と自分用の弁当などを買い求めてきた。邸内に戻ってみると、なんとも信じられないことに、いつのまにか石田翁はベッドルームを出てキッチンに立ち、冷蔵庫から二、三の食品を取り出して皿に並べ、お湯を沸かして紅茶を入れる準備をしているところだった。
植物化しかけた四股と死相を帯びたその全肉体になお鞭打って、やれるだけのことはとことん自分でやり抜こうとする凄絶なまでの行動力と精神力とに、私はただただ圧倒されるばかりだった。まるでスローモーションの映画を目にしている時のような身体の動きで、見るからに危なかしくもあったのだが、私はあえてそれを制止しようとはしなかった。いや、どうあっても止めてはならないと思ったのだった。
ベッドの脇の小さなテーブルに食べ物と飲み物を並べて気の向くままにそれらを口にしたり、老翁の入れてくれた紅茶をすすったりしながら、それからさらに五、六時間ほども私たちは二人きりの対話を続けた。その間に石田翁は何度もベッドに横になったり、自力を振り絞ってトイレに立ったり、時々浅い眠りに落ちたりもしたが、私はすこしもそんなことなど気にせずに、相手のペースに合わせてじっくりと応対し続けた。
当初は途切れがちで言葉につかえたりもしていた石田翁の口調が、時間が経つにつれて次第に滑らかになってきたのはなんとも意外なことだった。しかも、いつもながらの軽口までが飛び出しはじめたのには少なからず驚かされた。そして、ついには、「どうやら僕の頭のほうがおかしくなってきてるんですねえ。私のこの頭も身体も、もう半分死にかかっているんですねえ……。今日あなたと二人でずっと話していて、ようやくはっきりとわかってきましたよ」とまで言い切ったのだった。私はその老翁の言葉をあえて否定も肯定もしなかった。たぶん、それは、一時的なものではあったにしろ、老翁の精神がいま一度本来の輝きを取り戻した瞬間でもあった。
気がつくともう午後六時近くになっていた。そのまま石田邸に留まり、一泊したい気持ちは十分あったのだが、翌日私にはどうしても片付けなければならない仕事があった。老翁からの電話を受けて大慌てで自宅を飛び出してきたようなわけで、当面の仕事の手筈をまったく整えていなかったので、その夜のうちにどうしても東京に戻らなくてはならなかった。そのため、近日中に再訪するとの約束を老翁と交したうえで、その日の夕刻、私はいったん穂高をあとにすることにした。
別れ際にそっと握手を交わしながら、「じゃ、こんどまたね……」とどこか力なく呟いた老翁の眼差しには、表の言葉とは裏腹に、「たぶんもうこの世では会うことはないだろう……」という暗黙のメッセージが込められていたように感じられてならなかった。ただ、素直にはその暗黙のメッセージを受取ることのできなかった私は、「一週間ほどしたら必ずまたやってきますからね……」と口約束を交し、近所の人にあとのことを託してから、後ろ髪を引かれる思いで石田邸を立ち去った。そして、東京に戻るとすぐに依頼を受けていた仕事類の処理にとりかかり、数日かけてなんとかそれらに一定の目途をつけた。そこで、あらためて穂高に向かう準備をあれこれと急ぎ整えはじめたのだった。穂高から一本の電話がかかってきたのは、ちょうどその時のことであった。