ある奇人の生涯

5. 波乱の人生は博多ではじまった

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

石田達夫という想像をはるかに超えたこの奇妙な老人の「人生模様ジグソーパズル」を完成させるには、どうしてもその生い立ちを明らかにする必要があった。なかなかそのあたりのことを明かしてはくれない相手に、いささかジリジリしたものを覚えはじめていた私は、何回目かの「十三日の金曜日」の訪問の際に、さりげなくそのあたりのことに水を向けてみた。すると、ようやく石田は久しい沈黙を破って幼少期から青年期にかけての出来事を語りはじめたのだった。ときおり遠い目をしながら、一つひとつ確かめるようにして昔の記憶をたどる石田の言葉を一語たりとも聞き漏らすまいと、私は懸命に耳をそばだてた。

はじめのうちどこか自嘲の影を帯び淀みがちだった石田の語調は、聞き手の私がうまく話の流れに乗るにつれて、軽快なテンポに変わっていった。厚く重たい「時間の覆い」の下に眠り隠されていた記憶の地層が、いっきにその意識の表層まで押し上がってきている感じだった。老人は、明らかに、長年意識の底に押さえ込んできた遠い日の自分の姿を解放することにある種の快感を覚えはじめている感じだった。石田独特の軽妙なジョークが想い出話のあちこちに飛び出しはじめたのが、そのなによりの証拠と言えた。

大正五年(一九一六年)は国の内外において大きな社会思想変動の兆しがあらわれはじめた年だった。国内のあちこちでは、東京帝国大学教授吉野作造の唱える民本主義思想を支柱とする大正デモクラシーの風が吹きおこり、徐々にその力は増大しつつあった。また、ロマノフ王朝末期の帝政ロシアでは、ほどなく全世界を揺るがすことになる革命政権樹立に向って、労働者を中心とする新勢力が、旧支配勢力との間で激しい闘争を繰り広げていた。

この年の二月十日に石田達夫は博多の商人町の一隅で誕生した。ただ、当時の様々な家庭的事情などもあって、実際に地元の役所に出生届けがだされたのは誕生日から一ヶ月半近くもたった三月二十六日のことだった。したがって戸籍上の出生日はそれと同じ日付けになっている。この世に生を得た直後から、どうやらその人生は波乱含みであったらしい。
「ちょうどロシア革命の年に生まれた身だから、体制に反抗的な気質をもっていても仕方ないのかなあ……。でもあの国の旧政治体制は僕が死ぬ前に崩壊してしまいましたねえ。僕よりも短命だったわけですよ……」と石田はよく語ってくれたが、それは彼のちょっとした勘違いで、実際にロシア革命が起こったのはその翌年の昭和六年のことであった。

母親はその界隈ではかなり知られた筑前琵琶の師匠石田旭昇で、隆盛期には常時百人を超える弟子を擁していた。女優、高峰三枝子の母で筑前琵琶師の高峰筑風と石田旭昇とは同門の間柄であったらしい。父親については、もともとは山口出身の流れ者で、いつしか母親のそばに居つくようになったようだと、石田は笑いながら語ってくれた。その話によれば、父親はなかなかの男前だったが、「色男、金と力はなかりけり」の諺を地でいくような存在で、表向きは母親の仕事のマネージャーを名乗っていたものの、要するに母親の「ヒモ」だったのだという。

「僕はヒモの子として生まれたから、ヒモに繋がれるのが嫌で自由に憧れるようになったのかもしれませんねえ」

「でも、お母様の臍の緒というヒモを切って生まれてきたわけですから、その気質は生まれつきなんじゃありません?」

「でもねえ、糸の切れた凧みたいになっちゃって、ふらふらと世間の風に流されて仕舞いには落っこちちゃう危険もあったわけで、そんなときはヒモも悪くないかなあって思ったりもしましたよ」

「このまえ写真見せてもらって驚いたんですけど、二十代の頃の石田さんって凄い美男子だったじゃないですか……。それって男前だったお父様譲りだったんじゃありません?……まあ、いまじゃ昔の面影はどこへやら、すっかり妖しいドラキュラ顔になっちまったようですけど!」

私はそう言ったあと、さらにもう一歩踏み込んでみた。

「あのぶんだと若い女の子にずいぶんとモテたんでしょうね。ほんとうのところは、その時代の石田さんにはヒモが十本くらい絡みついていたんじゃありません?……もしそうだったとしたら、お父様に感謝なさいませんとねえ」

「ヒモも十本くらい集まるとロープになっちゃいますからね。そうなると身動きできなくなってしまうから、ヒモは細いうちに断ち切るようにしてきましたよ」

「切れたヒモを見て泣いたり恨んだりした女性もずいぶんといたっていうことですね。もしかしたら時には泣かせた男などもあったりして?」

石田翁との親交を重ね昔の話を耳にしたりするうちに、もしかしたらこの人物は若い頃両刀使いではなかったのかと感じることもあった私は、単刀直入そう切り込んだ。すると、相手は、そんな追及を軽くかわし、はぐらかすような口調で応じてきた。

「本来ドラキュラの好むのは若い美女の血なんですから、それはどうでしょうね。でもまあ、いまは私が生まれた時の話をしているところですから、そんな枝葉の話は後回しにしてまずは本題に戻ることにしましょう。そうでないと、いつまで経ってもジクソーパズルは解けませんよ!」

「うーん、たしかに人生模様ジグソーパスルがいつまでたっても完成しないんじゃ僕も困っちゃうんですよね。十三日の金曜日がせめて毎月一回くらいのあるならまだいいんですが……」

もっと相手の核心に迫って知られざるかつての石田像をあれこれと引き出したいのは山々だったが、こちらとしても、ここはいったん追及の矛先のおさめどころだと思わざるをえなかった。ジグソーパズルの中核部のひとつにあたる幼年期の全貌が見えないことにはパズルの解決はおぼつかないからでもあった。

石田が幼少期を送ったのは下町の典型的な十二軒長屋の一角で、しかも色町のすぐ近くだったから、近隣の住人の職業もその暮しぶりも様々だったようである。家の向いは芸者の置き屋で、毎朝三味線の音が響き、迎えの車の到着を告げる「君香さん、お座敷き~っ!」などといったような呼び声が折々聞こえてきたりもした。右隣りの住人は近くの劇場のお茶子さん、その一つ隣が畳屋さん、左隣りは、小唄のお師匠さん、その隣りが仕舞いの先生、さらにその隣は大工さんといった具合で、一番奥の大きな一軒屋には、朝顔と鴬の鳴声を日々愛でて暮す御隠居さんが住んでいた。また、長屋の前の路地を抜けて出た表通りには、醤油屋、駄菓子屋、家具屋、芋屋、医院などが軒を連ねて並んでいた。

私と出遇った頃にはどこか異国的な風貌を湛えているようにも見えた石田翁だが、幼い頃は何から何にまで純日本的な雰囲気に包まれた特殊な環境の中で育ったのだということだった。意外そうに聞き入る私の表情を楽しむかのようにして、彼は、自分は骨の髄まで日本的な文化に染まって成長したのだと、当時のことを懐しそうに回想した。

筑前琵琶の師匠という母親の職業のお蔭で、石田は幼少時代から博多の劇場の舞台裏や芸人、役者たちの稽古の場に自由に出入りすることができた。当時の博多にあった大博劇場と川端劇場という二つの劇場にはとくによく出入りしたらしい。歌舞伎や能、狂言といったような古典芸能には、それらがどういうものかも解らないうちから体感的に訓れ親しんできたし、子供ならではの特権で芸人や役者の控えの間をのぞきに行っては彼らに可愛がられもしてきたから、日本の伝統芸能特有の空気とでもいったようなものが、石田の身体には知らずしらずのうちに刷り込まれていった。

過もなく不過もない少年時代を送った彼は小学校を卒業すると名門の県立福岡中学に進学したが、四年生になる頃までに社会の情勢は大きく変わり、それまで比較的安泰だった石田家もその余波を大きく被むるようになっていった。

大正デモクラシーの時代が終り昭和の初期に入ると、国際的な経済停滞の影響もあって国民の間には将来の生活に対する強い不安感が高まった。若い学生や知識人たちは資本主義の矛盾を批判し新たな社会の建設を謳うマルクス思想に共鳴し、多くの社会主義運動家が生まれたが、それらの動きに危機感を覚えた政府や軍部筋は激しい思想弾圧の道を選択した。昭和三年には政治犯や思想犯を取り締る「特高」、すなわち特別高等警察が全国の都道府県に設置され、内務省の強力な統制のもと国民のなかに網の目のようにスパイ組織を張りめぐらした。拷問、虐殺を常套手段とした特高の思想弾圧は、社会主義思想や共産主義思想に対してばかりでなく、やがて一般の人々の自由な発言や活動にまで及ぶことになっていった。やはりこの年、中国で関東軍参謀の河本大佐による張作霖爆殺事件が起こり、それを契機に関東軍は満州占領に向けて着々と画策をめぐらしはじめた。

石田が福岡中学に入学したのはこの昭和三年のことだったが、その翌年の十月にはニューヨーク・ウォール街株式市場で株価の大暴落が発生、それが引金となって世界中が大恐慌に突入した。昭和五年に入ると日本国内の不況はますます悪化し、米や生糸の価格が極端に下落したこともあって、農村の人々の生活は悲惨このうえないものとなった。なかでも東日本一帯の農村の窮乏生活は深刻をきわめ娘たちの身売りが激増、東京などには公営の身売り相談所が開設されるという異常事態にまで発展した。そんな娘たちの多くは芸妓や娼妓の世界へと売り飛ばされていったという。

関東軍幹部が謀略をめぐらして中国瀋陽郊外の柳条溝で満鉄線を爆破し、悲惨な戦争へと向かって暴走しはじめたのは、昭和六年九月、石田が中学三年生のときであった。この事件を契機に日本軍部は満州全体に軍事行動を展開、すでに盲従の徒と化しはじめていた一般国民は、有無を言わさず暗い時代の潮流の中へと巻き込まれていった。いわゆる満州事変の勃発である。軍部の思惑によって惹き起こされた動乱に揺れるその中国大陸が、それから数年もしないうちに自分の人生に深く関わってこようなどとは、まだ十五歳の少年だった石田にとっては想像もつかないことであった。

不穏な空気が支配的になったこの時代にあって、人々の心を大きく捉え市民生活に予想以上の影響を与えたのは、トーキー映画の発明とその急速な普及だった。アメリカで発明され、昭和四年に我が国に初登場したトーキー映画は、大評判となってあっというまに全国に広まり、それまでの無声映画を圧倒しはじめた。そしてその二年後の昭和六年には、翻訳したセリフを画面に焼き付けるスーパーインポーズ方式を採用したマリーネ・デートリッヒ主演の「モロッコ」が上演され、大好評を博しもした。トーキー・システムを用いた初の邦画が公開されたのもこの年のことである。また、この頃までには、かなりの数の家庭に蓄音機が普及し、洋楽、和楽を問わず様々なレコードが市販されるようになって、庶民文化の様相が一変した。

もちろん、石田もまたそういった新しい文化の潮流の到来を心から歓迎したひとりであった。すべての面で早熟でもあった彼は、トーキー・システムの映画に感動し、スクリーンに映し出されるマリーネ・デートリッヒの姿に恋し、その声を耳にしてしびれ、遠く遥かな国々へと少年の夢を馳せらせた。そしてまた、蓄音機から流れ出る美しい歌声や胸にしみいる演奏に何度も何度も聴き惚れた。だが、なんとも皮肉なことに、そんな時代の流行は予想もせぬかたちとなって禍に転じ、中学生の石田の身に降りかかってきたのである。

各種レコードの出現やトーキー映画の登場、さらには種々の西洋文化の急激な移入によって大きな影響を被ったのは、日本の伝統芸能にかかわる人々だった。筑前琵琶の師匠として一家の生計を支えていた石田の母親旭昇にも当然のようにその余波は波及した。さらに折からの世界的な不況もそれに追い討ちをかけた。それまで、いつも百人前後はいた筑前琵琶の弟子の数は一挙に激減し、舞台の仕事などもほとんどなくなってしまったため、石田が中学四年生になる頃には、石田家の経済状態は深刻な状況に陥っていった。

父親はいろいろな仕事に手を出したが、その気性のゆえもあってことごとく失敗、状況は悪化の一途をたどっていくばかりだった。四人の妹まで抱える家の生計の一端を担うため、長男の石田は新聞配達をはじめとするいくつかの仕事を試みてはみたが、焼け石に水の有様であったという。

中学を卒業したら授業料がいらない高等師範に進み教師になってほしいというのが父親の希望であったから、石田もそのつもりで頑張った。ところが、卒業まで一年を残した四年生の終わりのこと、高等師範の入試は難しいのでまずは入試の雰囲気に慣れるため試しに普通高校を受験してみたらどうだろうという話が持ち上がった。そこで、戦後になって九州大学に併合された名門福岡高校文科フランス語科を小手調べのつもりで受けてみると見事に合格、想わぬ結果に大喜びした父親は、高等師範進学の話などまるでなかったかのように、福岡高校への進学を息子に命じたのだった。そして、たとえ石にかじりついてでも大学まで出してやるから頑張るんだと、日々石田を励ました。

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