ある奇人の生涯

108. 桂冠詩人ゆかりの地へ

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

ウインダミア湖東岸のボウネスからは、グラスミア湖方面へと湖岸沿いの静かな道がのびていた。早朝にボウネスの宿を発った石田は、グラスミアまで10数キロの道のりをあちこち寄り道しながら一日かけてのんびりと歩くことにした。そのほうが周辺ののどかな風景をこころゆくまで楽しむことができると考えたからだった。石田があらかじめガイドブックで学んだところによると、ウインダミアとかグラスミアとかいった地名のミア(mere)という末尾部は古代ノルウェー語で「湖」のことを表す言葉なのだそうであった。

朝の光の中で静寂そのもの湖面が青々と輝くウインダミア湖の周辺には、この地にまではるばる遠征してきた古代ローマ人の足跡を物語る遺跡や、中世の各種史跡などが多数散在していて、それらが緑豊かな森や草原、牧場などと見事な調和を見せていた。グラスミア湖沿いにしばらく北上するとやがてグラスミア湖の北端付近にいたり、さらにそこから1キロほど北東に進むとアンブルサイドという小さな町が現れた。灰色のどっしりとした石造りの家並みのつづく静かな町で、長期休暇を過ごす人々向けのリゾートハウスや滞在型ホテルなどが多いことで知られるところだった。

アンブルサイドの集落は若緑に覆われた美しい野山に取り囲まれていて、その野山のいたるところに広がる牧場や農場では、牛や羊が悠然と草を喰み、あるいはまた緑豊かな作物の数々がふんだんに育成されたりしていた。道すがらふと見上げる青空のあちこちにはふんわりとした雲が浮かんでいて、牧歌的という表現がこれほどにぴったりする風景はそうそうないのではないかと思われた。清水の流れる小川の水辺や樹林の下のあちこちでは、群生するラッパズイセンが匂やかな香りを放ちながら5月の風に揺れていた。爽やかな緑の風に乗って漂い流れる草花の香りに身を包まれながら、ひとり石田はグラスミアへと向かって歩き続けた。ただ、歩いてゆくだけで心が洗い清められる思いだった。

I wandered lonely as a cloud

That floats on high o’er vales and hills,

When all at once I saw a crowd,

A host, of golden daffodils

石田はちょっとだけ読みかじったワーズ・ワースのそんな詩の一節を、歩きながら口ずさんだりもした。彼がそんな気持ちになったのはその詩がラッパズイセンを詠んだものだからであった。そして、そうしながら、イギリスでの最後の想い出づくりの地としてこの湖水地方を選んだのは適切な判断だったとつくづく感じもするのだった。

ロマン派の桂冠詩人として名高いウイリアム・ワーズワースは、1770年、湖水地方北西部にあるコカーマスという町で生まれた。コカーマスは同じ湖水地方でも中部のウインダミアやグラスミアとはカンブリア山地をはさんで50キロ近く離れたところにある町で、以前に一度石田はそこを訪ねたことがあった。ワーズ・ワースが通ったというグラマー・スクール(小学校)はそのコカーマスからすこし南に下ったホークシェッドというところにあって、彼が訪ねた頃にはその学校はワーズ・ワース関係の資料展示館になっていた。

そのホークシェッドの展示館には、子供の頃にワーズ・ワースが学んだ教室や三人掛けの長机などが当時のまま残されていたが、なんとその机の右端部には「W.Wordsworth」という文字が深々と刻み込んであった。もちろん、それは学童時代のワーズ・ワースが教師の目を盗んでは自ら彫り刻んだものだった。そんな腕白な学童がのちに世界に知られる大詩人になろうなどとは、当時誰も想像などしていなかったことだろうが、「words(言葉)」と「worth(価値)」いう二語をつないでできたその姓は、はからずも彼の将来の姿を暗示してもいたのだと、石田は妙な感銘を覚えたりもした。

いっぽう、この時石田が訪ねようとしていたグラスミア一帯はワーズ・ワース誕生の地からはかなり離れていたが、成人したその大詩人が長年生活を送り、山紫水明の世界に心ゆくまで身をゆだねながら詩作に没頭したところであった。アンブルサイドの集落を抜けるとほどなくグラスミア湖の東南端部にあたる湖畔へと出た。道路の右手の丘の上にワーズ・ワースが晩年にいたるまでの長い日々を送ったライダル・マウントがあるのはあらかじめわかってはいたが、そこには帰路に立ち寄ることにし、まずはグラスミア湖の西北端に面するグラスミアの町へと向かうことにした。

そこからグラスミアの町までは湖畔沿いの道伝いに4、5キロほどの道のりだった。初めて目にするグラスミア湖の美しさには聞きしにまさるものがあった。ウインダミア湖に較べると一段と小ぶりな細長い湖であったが、澄んだ水を満々と湛えた鏡のように滑らかな湖面に対岸の山々や萌黄色をした森の樹々がくっきりと影を落とし、折からの青空が水面に輝き映えわたって、幻想的なことこのうえなかった。湖畔や道端のあちこちに咲き乱れる花々の色鮮やかさも、右手のゆるやかな丘や山の斜面にのび広がる青緑の草原の輝きも、そしてそこだけ永遠に時間が止まっているかのようにも見える牧場の風景ののどかさも、前日訪ねたウインダミア湖周辺のそれらとは一味も二味も違うものだった。グラスミア湖一帯のそんな景観に見惚れながら歩くうちに、いつしか石田はグラスミアの町に到着した。

1799年から1808年までの9年間、ワーズ・ワースはこのグラスミアの町で静かな生活を送った。ごく小さな町ではあるが、石造りの家々もそれらを取り巻く石積みの塀も、ワーズ・ワースが暮らしていた頃の姿のままで残されていた。そして、グラスミア湖畔からほど近い町の一角にダヴ・コッテージ(Dove Cottage)と呼ばれる2階造りの家が建っていた。石のスレートを丹念に積み上げて築かれた塀と、おなじくスレート葺きの屋根をもつその家が、詩人ワーズ・ワースがもっとも充実していた時代に住んだところであった。はじめ妹のドロシーと二人で暮らしていたワーズ・ワースは、1802年にメアリー・ハッチンソンという女性と結婚、3人の子供をもうけ、その後の六年間をこの家で暮らした。

1階の台所には当時のテーブルや椅子がそのまま展示されていて、ドロシーを含む一家6人の食事風景を偲ぶことができた。2階への階段を上ろうとすると、立派な造りの古い大きな時計が掛かっているのが目にとまった。解説文によると、それはワーズ・ワースが大切にしていたというカッコー時計なのだそうであった。2階には4つ部屋があり、そのひとつがワーズ・ワースの寝室になっていた。大詩人がその魂と身体とをやすめたという簡素な造りのベッドがひとつそのままに残されており、それを目にした石田は一瞬そこに身を横たえてみたい衝動に駆られたりもした。そうすることができれば、詩人の身体の温もりが時を超えて伝わってきて、そのことによって自分のささやかな詩心がすこしくらいは高められるのではないかと思ったからだった。

おもしろかったのは、おなじ2階にあった子供部屋で、その部屋の壁にはなんと当時の新聞が何枚もベタベタと貼り付けられていたのだった。当時のワーズ・ワースの生活ぶりや知名度などを考慮すると、壁紙が購入できないほどに貧しかったとは思われなかった。もちろん、何度貼り替えても幼い子供たちがそれを汚したり破ったりしてしまうという事情もあったのかもしれないが、もしかしたら、それらは、田園生活を送る中にあって、子供たちがすこしでも早く活字に馴染む環境をつくってやろうとする一家の教育的配慮のゆえだったのかもしれないと想像されたりもした。もしもそうだとすれば、ワーズ・ワースも案外教育パパだったのかもしれない、さもなくば、「Wordsworth」という姓の暗示するその家系の家風みないなものがあったのではないかとも想像された。

家の裏手にはワーズ・ワースがこよなく愛してやまなかったという美しい庭があった。伝えられるところによると、この庭でその大詩人は幾度となく深い冥想に耽り、あの美しい珠玉の詩の数々を生み出したのだそうであった。ダヴ・コッテージでの9年にわたる生活は、ワーズ・ワースの80年にわたる生涯の中でもっとも創作の輝きに満ち溢れたものであった。ワーズ・ワースが自身と並ぶ大詩人コールリッジとの交遊を深めたのもこの時代のこの場所においてのことで、自伝的長詩「プレリュード」の完成をみたのもおなじ時期のことであった。

ダヴ・コッテージを出たあと、石田はすぐ近くにあるワーズ・ワース・ミュージアムに足を運んだ。そこにはワーズ・ワースの直筆原稿のほか、彼が使ったペンや傘、ステッキなどの日用品の数々が展示されていて、それらを眺めているだけで在りし日のワーズ・ワースの姿が眼前に甦ってくる感じだった。また、ワーズ・ワースの実像を知るうえできわめて貴重な資料だといわれる妹のドロシーの日記なども保管展示されていて、ただそれにじっと眺め入るだけでも興味深いかぎりだった。ワーズ・ワース・ミュージアムをめぐり終えた石田は、あれこれと旅の想いに耽りながら、町中を流れるロザイ川のほとりまで足をのばした。そして、ワーズ・ワースの墓所のあるセント・オズオズワルド教会の前に立った。かねてからまるで信心深くなどない石田ではあったが、このときばかりは眼前の教会の奥に眠る田園詩人の霊に向かって静かに十字を切りたいような気分だった。

この夜、石田はグラスミア湖畔に近いホテルの一室に宿をとった。そして、おりからの月光に浮かぶ湖面を窓越しに見つめながら、五年余にわたるイギリス滞在を通して出遭ったさまざまな出来事を振り返り、それらの一つひとつをじっくりと胸の奥で噛み締めた。この旅を最後にいよいよこのイギリスをあとにするのかと思うと、母国へと戻れるという喜びよりも、別離にともなう淋しさのほうが心中により強く激しく湧きあがってくるのだった。だが、そのいっぽうでまた、どこまでも神秘的な輝きを見せる月下のグラスミア湖の光景に目を奪われながら最後の旅の夜を送れることをつくづく幸せだとも感じるのであった。数知れぬさまざまな想い出が次々に脳裏を駆け巡るあまり、その夜、石田は明け方近くまでどうしても眠りにつくことができなかった。

翌日もまた爽やかな1日であった。ホテルをあとにした石田は、青く透明な水を湛えたグラスミア湖の北東部一帯の水辺や森をめぐり歩き、それからウインダミア湖方面へと引き返した。そして、その途中で、アンブルサイドの町のすこし手前にあるライダル・マウントを訪ねてみた。眺望の素晴らしい丘の上に建つライダル・マウントは、ワーズワースが1813年から死にいたるまでの33年間、妻メアリーと3人の子供、さらには妹のドロシーと一緒に住んだ家で、ダヴ・コッテージよりもひとまわり大きく、庭もずっと広々としていた。

このライダル・マウントからは、ライダル・ウォーターという小さな湖を眺めることができたが、木立の間から見下ろすその湖の美しさはまた格別であった。ワーズ・ワース一家がこの地に移ってきた日に妹のドロシーが友人に送った手紙にも、「ここは気候もこのうえなく素晴らしいし、景観も素敵で、まさにパラダイスです」と述べらているということだったが、そう書きたくなるのも当然だと思われるほどの景観であった。そして、このライダル・マウントの訪問を終えたあと、再び石田はアンブルサイドの町に入り、さらにウインダミアの町を経てロンドンへの帰途に着いたのだった。

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