ある奇人の生涯

29. 租界の申し子上海

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

古代文明発祥の地として何千年もの歴史をもつ中国において、上海という土地が発展の道を辿り始めたのは想いのほか新しい時代のことだったようである。その歴史資料に基づくと唐代以前の上海は沼、湿地などがいたるところに散在する漁村地帯であったらしい。ただ、黄浦江と長江の河口近くに位置するという立地条件が中国内陸地と東シナ海沿岸各地とのとの交易の基点として最適だったため、唐の時代に入ると徐々に周辺の干拓が進められ、唐代末期の十世紀以降は港町として発展していくようになったという。南宋時代の十三世紀後半になると貿易の監督官庁が上海に設置され、とくに十三世紀後半になって上海県の県都として市街地が建設整備されると、その存在は国内外から次第に注目されるようになっていった。

十四世紀の元の時代になって始まった綿花の栽培はやがて一帯の主要作物となり、さらに明の時代の到来とともに起こった綿織物工業は一躍上海の重要産業となって、上海の発展に貢献した。いまの豫園商場地域に相当する上海県城が当時の上海市街域であったのだが、発展を遂げたとはいってもまだその市街域の規模は小さく、現在の上海の大きさに較べるとごく小さなものにすぎなかったようである。

上海が現在目にするような大都市へと変貌を遂げはじめたのは、一八四二年のアヘン戦争で清が欧米列強国に破れ、上海の開港を余儀なくされて以降、いわゆる租界時代に入ってからのことだった。アヘン戦争が終結し一八四三年に南京条約が締結されると、一八四五年のイギリス租界を皮切りに、アメリカ、フランスなどが次々に租界と呼ばれる特別な居留地域を上海に設置するようになった。また一八七一年の日清修好条約締結以降は日本人も欧米の租界地内に居留を許されるようになり、一八九四年に始まった日清戦争後の下関条約締結以降、日本も欧米列強国と同等の権利を獲得するところとなった。日清戦争以前の日本は英、米、仏などのように独自の「日本租界」というものを設けず、英米の共同租界地に邦人居住者が住むというかたちをとっていた。ただ、日清戦争後日本領事館がフランス租界地域より虹口南部に移転してからは、その周辺一帯が日本人租界と呼ばれるようになった。

これらの租界地は警察権、行政権ともにそれぞれの列強諸国に属する治外法権地域となっており、当然、清朝の支配が及ぶことはなかった。また上海の租界は外国政府が中国人の土地所有者から直接に土地を購入して設置するという独特の様式の外国人居留地で、香港などのように外国政府が中国政府から土地を借りうけるいわゆる「租借地」ではなかった。上海が「魔都」という二文字を冠し「魔都上海」と呼ばれていた背景にはそのような租界地特有の複雑な事情などがあったのだった。

各国の租界地は交易が盛んで人々の出入りが激しかったにもかかわらず、租界地を所有するそれぞれの国が警察権を持っていたため、犯罪の取り締まりそのものがきわめてルーズで一貫性にも欠けていた。したがって華やかな街の発展の陰にあって各種犯罪の横行も絶えなかった。諸外国が半ば公然とアヘン売買や賭博、売春といった行為等に手を貸していたばかりでなく、中国各地から難民が大量に流入していたことなどもあって犯罪の温床化が進み、日本人居留民などは身の安全を守るため一種の結社である自衛集団を構成したりする有様だった。そして、そのような上海の裏社会に漂う特異な雰囲気が「魔都」というイメージを生み出してもいたのである。

もちろん、諸外国の租界の存在にはそのようなマイナス面もあったものの、長期的かつ全体的な展望に立つと、のちのちの中国の発展に大きな貢献をすることにもなった。各国の租界地が文化交流や各種貿易の拠点となったため上海には大量の外国資本が流入し、国際貿易都市として経済的にも文化的にも奇跡的な飛躍を遂げることになり、現在目にするような中国最大の経済都市上海の礎が出来上がったからである。第一次世界大戦以降は、銀行、商社、製造業などに関係した日本資本が続々と上海に進出し、同地は我が国の対中国貿易における一大根拠地にもなったのだった。そのため、日本人居留民の数は年々増加の一途を辿り、一九三〇年代の終わり頃までには上海在留外国人のうちの三分の一以上を日本人が占めるという状況になった。そして、それら日本人たちの住む日本租界では寺社をはじめとする日本様式の建物などが次々に建造され、日本語を使った日本様式の生活が送られるようになっていった。

上海にはじめて租界地を設けたのはイギリスで、一八四五年、現在の人民広場のあるあたりから黄浦江河畔の外灘にかけての一帯に外国人居留地区を造営した。このイギリス租界は当時の上海の北部(現在の蘇州江沿岸部にかけての一帯)、西部(現在の虹橋地区)、そして東部(現在の黄浦江沿い外灘地区)へと拡大発展し、商業の一大中心地となった。また、イギリス租界に三年遅れて設置されたアメリカ租界は蘇州江北側の虹口地域一帯を中心にして広がり、蘇州江および黄浦江沿岸の港を生かして上海の工業地帯として発展した。そして、のちにそれら二つの租界は英米共同租界として一体化し、ますます発展を遂げていくことになった。

この英米共同租界東部の外灘地区にはその時代の上海の繁栄を象徴する洋式の様々な建物が立っていた。租界時代の建造物群のうち往時の面影を留めて現在も残っているものには、サッスーンハウス(現和平飯店北楼)、ジャーデン・マセソン商会(現上海市対外貿易公司)、上海クラブ、大英帝国領事館、パレス・ホテル(現和平飯店南楼)などがあるが、当時それらの建物はいずれ劣らぬ威容をもって栄華の極みを誇っていた。また、中西部にあったパークホテル(現国際飯店)や華僑飯店(現金門大酒店)、蘇州江河口北岸のブロードウエイ・マンション(現上海大厦)、アスター・ハウス・ホテル(現浦江飯店)などもその時代の上海を代表する壮麗な建造物であった。

英米租界よりも遅れて生まれたフランス租界は、上海県城域(現在の豫園商場一帯)の西側から英米租界の南側にかけて細長くのびるかたちで発展した。そして最終的には上海県城の北側をぐるりと取り囲む地域もフランス租界の一部となった。フランス租界は英米租界とは一線を画し共同租界となることがなかったばかりでなく、市街地の機能としても異なる役割と雰囲気を保っていた。英米租界が商工業の中心地として発展していたのに対し、フランス租界地区は静かな住宅地域となっており、フランス式建物や住宅が特有の風格と風情を湛えて並んでいた。ネオ・バロック様式のフランスクラブ(現花園飯店)やアール・デコ様式のキャセイ・マンション(現錦江飯店北楼)、スペイン風集合住宅の上方花園や新康花園、クレメントアパート(現克菜門公寓)、ノルマンディ・アパート(現武康大楼)、法国総会、法国公園など、どれをとってもフランス文化やその周辺文化の粋とも言うべき建物ばかりだった。それらの建造物類の多くはいまも同地に残っていて、東洋のパリと称された当時のフランス租界の面影をなおも留めて伝えている。

上海の租界は往時の帝国主義の悪しき一面を象徴するものでもあったのだが、およそ百年にわたる租界時代に上海の中国人たちは海外の文化や生活様式に身近に接することになり、その結果、独立心や冒険心、自由な思想への憧れなどを強く抱くようになっていった。そしてそのような状況のなかで身に着けた国際人としての感覚がその後の上海の経済発展土台となり、今日の中国の一大繁栄へとつながったことからもわかるように、租界には中国の近代化に貢献した一面もあったのだった。

石田が上海入りした翌年の対英米開戦後、日本軍が英米共同租界やフランス租界を占領したことにより、百年にわたる上海の租界時代は事実上終焉を迎えることになったのだが、その間に築かれた上海という国際交易都市に咲き開いた文化の華は、なにはともあれ素晴らしくかつ魅惑的なものではあったのだ。

そんな租界時代の終焉間近な時期に上海入りし、爛熟した上海の文化を目にすることのできた石田は、ある意味で大変に幸運だったとも言えた。彼はそのまましばらくホテルに滞在することにし、翌日からはホテルを基点に上海の主要な繁華街や租界地域を一通り廻り歩いた。まずは上海の地理やその土地柄に慣れること、そして次には自分の生活感覚に合う住居地域を探し出しそこに適当な住まいを確保することが当面の急務だった。もちろんナーシャのその後の状況が気になってはいたが、なんの手掛かりも方策もないままにこの人種の坩堝とも言うべき上海で彼女の一家を探し当てるなど到底不可能なことだったから、その件に関してはひたすら奇跡の到来に賭けるしかなかった。

ホテルを出た石田は現在の南京東路にあたる大通り沿いに外灘方面へと向かって歩きだした。メインストリートやそれと交差する大小の街路沿いにずらりと建ち並ぶ銀行、大商社、ホテル、デパート、レストラン、映画館、劇場、遊技場、各種商店などを一つひとつ感慨深げに眺めながら、彼はゆっくりとした歩調で広い歩道を進んでいった。舗装された街路を折々悠然と走り抜ける車にはこれまで目にしたことのないような洒落た形をしたものなどがあって、その光景もまた彼の好奇の目を楽しませてくれた。そもそも広い歩道全体の構造やデザインそのものがなんとも洗練されていて、一歩いっぽ市街を踏み進む石田の心を不思議なほどに魅了し高揚させてくれた。日本国内の都市よりはずっと開放的だった青島や大連のそれにもはるかに増して上海の街の開放感は大きなものに思われた。なるほど上海には魔都と呼ばれる一面もあるのかもしれないが、自由な空気の代償として魔都の側面が生じるものだとするならば、それはある程度やむをえないことではないかという気もした。

英米仏などが警察権と行政権をもつ上海の租界地域には、当時まだ日本政府や日本軍部の偏狭な政策の影響は及んではいなかった。すでに日本租界なども設けられていて上海在留外国人の三分の一ほどを日本人が占めるようになってはいたが、欧米諸国の租界地に住む人々と共存しなければならない事情もあったから、日本色のみに上海全体を染め変えてしまうというわけにもいかなかった。したがって、大なり小なり東アジア各地にその影を落としはじめていた軍国日本の息苦しい空気にその時まで上海はなお無縁な存在でもあった。軍部主導の日本的な規制や風潮に大きく距離をおくことができたのが、そんな石田の大きな開放感の要因となっていたのは確かだった。前日初めて上海の埠頭に降り立ったときに理由なく感じたあの自由な空気もそう考えてみると納得のいくことであった。

外灘地域に出るといったん蘇州江の河口周辺へと北上した。そしてアール・デコ様式のブロードウエイ・マンション(現上海大厦)やアスター・ハウス・ホテル(現浦江飯店)、さらにはアール・ヌーヴォー風のロシア領事館などを彼は不思議な感動を覚えながらあらためて眺めやった。それらは前日船が黄浦江を遡上し上海に近づいたとき真っ先にその威容を現わした建物群だからだった。眼前で蘇州江を吸収し大きく右手にカーブしながら悠然と流れる黄浦江の川面には大小の船々が浮かび、それらの一隻一隻がまるでおのれの意志を高らかに主張でもするかのように思いおもいの方向に航行を続けていた。

蘇州江の河口周辺をしばし散策し、そこから引き返すと左手に黄浦江を望みながら外灘地域を南下するメインストリート(現中山東一路)を豫園などのある上海県城の方に向かって歩いてみた。左手の黄浦江側は長さ一、二キロほどの細長い緑地公園になっており、右手には一九〇〇年から一九三〇年代にかけて現像されたネオ・バロック・スタイルやアール・デコ・スタイルの建物をはじめとする諸様式の壮麗な西洋風建物群が並んでいた。かつて映画や写真で目にした光景がまさに現実のものとなって石田の眼前に広がっているのだった。

その景観に圧倒された彼は息を呑む思いでしばしその場に立ち尽くした。なかでもネオ・バロック様式の香港上海銀行(現浦東開発銀行)やアール・デコ様式のサッスーン・ハウス(現和平飯店北楼)、パレス・ホテル(現和平飯店南楼)などのどこか厳かでしかも異国情緒に溢れるたたずまいはその心の底に深くそして強く焼きついた。それは上海以外のところではけっして見ることのできない風景に違いなかった。そんな素晴らしい光景を目にすることができただけでも上海にやってきた甲斐があったという思いが彼の脳裏をよぎっていった。

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