自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 16 (北海道函館にて)

はてしなき旅の行方をさりげなく
秘めて輝く青き大気よ

(北海道函館にて)

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

青森発のフェリーで津軽海峡を渡り、右手に函館山を仰ぎやりながら函館港に降り立った私は、爽やかに澄みわたった北の大地の大気によって深々と包み込まれた。おりしも季節は初夏のこととあって、野山は一面、命の息吹きの化身そのもののような、やわらかく鮮やかな緑に覆い尽くされていた。

フェリー埠頭付近で一休みしたあと、愛車のハンドルを握ってとりあえず函館の街中へと走り出しはしたものの、まだ私は道内のどこへ向かうかをまったく考えていなかった。北海道を訪ねるのは初めてではなく、いまさらあえて観光地巡りをする必要もなかったので、そのときの気分と成り行きにまかせて我が身の行き先を決めるつもりだった。開いた道路地図上に鉛筆かボールペンでも立て、それが倒れた方向へとむかって走り出すのも一興かなという思いもした。

人間というものは自由な選択が可能な状況に置かれた場合でも、無意識のうちにおのれの奥深くで形成された価値観や好みにそった道を選びがちなものである。だから、たまにはそのような変った方法を採ったほうが意外な発見や出逢いなどに恵まれる可能性が高い。函館市街をすこし北へと抜けたところで車を停め、実際に地図帳を開き、現在地点のあたりに鉛筆を立て進むべき方向を占おうと本気で思い立ったのは、そんな背景があってのことだった。

車外に出ると、前方右手には駒ケ岳の特徴的な山影を遠望することができた。見上げる空はどこまでも青くそして深く、あたりを取り巻く初夏の大気も青く明るく澄み輝いていた。目に染み入るような野原の若緑の色とあいまって、その青い大気の底知れぬ輝きは、一見したところいまを盛りとときめきたつ北の大地の命の脈動のまたとない証でもあるかのように思われた。

だが、ほどなく私は、その美しい大気の煌きが、実ははてしない生の旅路の行方を、いや、はてしないものであると敢えて思い込もうとしているおのれの愚かな旅路の無残な結末を暗示しているかのように感じはじめたのだった。きらびやかな命の輝きというものは常にその背後に壮絶な死を孕んでいる。息を呑むようなこの北の大地の空や大気の色合いもその点では例外ではないに違いなかった。あてどもない成り行きまかせの初夏の旅路の空がコバルトブルーの澄んだ輝きを増せばますほどに、その奥に潜む無間地獄の口はより大きくそしてより黒々と開いていくばかりだった。

紺碧の大気に包まれたこの旅路のはてに我が身を待つのが無間地獄であるというならそれはそれでよいではないか、せめてこの束の間の大自然のドラマをとことん楽しんでやろうではないか、「死ぬるときは死ぬるものに候」というかの先哲の教えそのままに開き直っておのれの旅路を行こうではないか――そんな心の声に促されながら、私は当座の旅路の方向を選び定めるべく鉛筆を支える手を離した。そして、倒れた鉛筆の先の指す方向の空に向かって、内心で「俺の人生の旅の行方はいったいどんなことになってるんだい?」と問いかけてみた。

それは言わずもがなだな……、まあ、おまえは、ともかくおまえなりの旅をしながら下手な歌でも詠んでおればいのさ!――人知れぬ声とも無言のメッセージともつかぬそんな返答が、まるで私の愚かで無益な詮索を諭すかのように底抜けに青い空のどこからともなく響いてきた。

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