自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 34 (沖縄摩文仁ノ丘断崖足下)

忍び寄る霊気に歌う心萎え
震へて立てり摩文仁の崖に

(沖縄摩文仁ノ丘断崖足下)

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

もう20年近く前の昭和62年9月23日、沖縄本島恩納村万座毛一帯では珍しい金環食を見ることができた。めったにない機会なので、私も取材かたがた沖縄までその金環食を見物に出かけた。当日は絶好の金環食の観測日和で、沖縄内外から万座毛周辺に集まった多くの天文ファンは、天空を舞台にした世紀の一大スペクタクルを目のあたりにしながらおおいなる感動にひたることができた。もちろん、私も初めて目にする光景にすくなからぬ興奮を覚えた一人だった。

だが、沖縄到着早々にたまたま起こった2、3の出来事がきっかけで、金環食の始まる前から私の関心は別のところへと向かいはじめていた。そんなこともあって、私は、金環食の見物が終わるとすぐに、内なる関心のおもむくまま、あらためて沖縄本島探訪の旅に乗り出したのだった。前日私が那覇空港に到着した直後に起こった浩宮(現皇太子)の行列がらみの椿事、レンタカーでその日の宿泊地に向かう途上におけるちょっとした光景との遭遇、そして、当時まだ琉球大学法文学部社会学科教授だった太田昌秀の著書「これが沖縄戦だ」(琉球新報社刊、那覇出版社発売)との出合いなどが、もう一度正面から沖縄の歴史と大戦史とに目を向けるべく、私の心を揺り動かしたのだった。

金環食の取材を終えた翌日の朝から、私は「祖国復帰闘争碑」の建つ沖縄本島北端の辺戸岬をはじめとする本島の中部や北部の史跡、旧跡、戦跡、景勝地などをしらみつぶしに訪ねまわり、さまざまな取材をおこなった。そして、最後に沖縄戦の最激戦地だった本島南部一帯へと足を踏み入れた。

沖縄戦終結直前、沖縄守備軍の司令部が置かれたのは本島南端に近い摩文仁ノ丘直下の洞窟のであった。何ごとかを押し隠しでもするかのようにひっそりと静まり返る摩文仁ノ丘に到着したのはもう日没も近い時刻のことで、この地があの地獄絵図の繰り広げられた場所と同じところであるとは信じられないくらい、あたりは森閑としていて、そのぶんいっそう身が引き締まる思いだった。

首里攻防戦で正規軍の7割を超える兵力を失い、沖縄本島南端の摩文仁から喜屋武岬にかけての地域へと撤退を余儀なくされた沖縄守備軍は、強制動員した13歳から60余歳までの地元男性住民と女子学生看護隊を最後まで軍に同行させた。いっぽう、守備軍の南部撤退によって置き去りにされた老人や子供、婦女子らの間には、迫り来る米軍によって蹂躙されるという恐怖感が募り、彼らのほとんどが何の情報も統率もないままに守備軍のあとを追って南下するという異常な事態になった。

正規軍と動員部隊と一般住民とが混沌とした状態で南部一帯へと退くのを追撃した米軍は、全軍を挙げて容赦ない砲爆撃を敢行した。いっぽう、戦闘能力をほとんど失っていた正規守備軍は、自暴自棄に近い敗走状態の中で多数の一般住民や動員部隊を巻き添えにしたばかりでなく、彼らを盾にさえするという異常な状況に追い込まれた。極限に近いパニック状態のなかで徐々に冷静な判断力を失い、やがて日本に未来はないと絶望するにいたった島民のなかには、自ら命を絶つ者も続出した。

戦史記録によれば、最終的な日本側の戦死者数は24万4,136名、その内訳は正規軍6万5,908名、地元で編成された防衛隊員2万8,228名、動員された住民戦闘協力者5万5,264名、一般住民9万4,754名であったという。いっぽう、米国の公式資料には、沖縄戦における米軍の死者は1万2,520名で、うち陸軍が4,675名、海兵隊が2,938名、海軍が4,907名であったと記されている。日本側の死者の大部分は、首里攻防戦で日本軍が敗退し、八原高級参謀の提唱にしたがって南部への撤退作戦が決行されたあとに生じたものであったという。

多数の住民が身を犠牲にしてまで戦わなければならなかった理由について、八原高級参謀は、「日本本土が戦場となった場合、軍隊のみならず、老幼婦女子に至るまで打って一丸となり、皇土防衛に挺身すべきであることは、国民の抱懐する理想であり指導精神であり、わが指導者たちの強調してやまぬところであったからだ」と語り、さらに、「国家民族の興亡安危にかかわる来たるべき戦闘においては、およそ役立つ男子はことごとく軍旗の下に馳せ参ずべきだったからだ」とも述べている。

だが、いっぽうで、この八原という人物は、昭和20年6月23日早朝、上官の牛島満守備軍司令官や長勇参謀総長が摩文仁断崖の洞窟内で自決し沖縄戦が終ったのちもずっと生き残り、上官らが自決する直前の6月20日に、砲兵隊高級部員の砂野中佐とつぎのような想いを語り合ったということを伝え残してもいる。その内容が前述の戦争指導理念とはあまりにもかけ離れたものであることに、私はただ驚きあきれ果てるばかりだった。

「沖縄敗るれば祖国もまた亡ぶ。日本の将来は見えすいているのに、中央の指導者たちはほんとうに文字通り滅亡の道を選ぶであろうか。もし降伏するならば、無力化したわが無数の将兵が未だ全死しない間に降伏して欲しい。否、わが指導者たちは、その本能から自己の地位、名誉、そして生命の一日でも存続するのを希望して、わが将兵の2万や3万を犠牲にしても意に介さないないのであろうか」

この言葉の中の「わが無数の将兵が」という部分を「無数の沖縄住民が」に、また、「わが将兵の2万や3万を犠牲にしても」という部分を「沖縄住民の10万や15万を犠牲にしても」と置き換えたうえで、そのまま八原というその人物に突き返したい思いがしてならないのは、この私だけだったのだろうか……。

首里から摩文仁周辺へと撤退してからの守備軍は、ただひたすら最後の瞬間を待つ無残な敗戦部隊以外のなにものでもなかった。残った守備軍は、南端の喜屋武岬と摩文仁ノ丘一帯の限られた地域に追い詰められ、米軍の砲火に一方的にさらされるだけの存在になった。客観的に判断すれば、そのままの状態が続くと全員の玉砕が時間の問題となるのは明らかだったが、そのような状態を冷静に見つめ投降をはかろうとする者はほとんどいなかった。内心それが最善だと考えた指揮官がいたとしても、日本的組織のなかに染まりきったその身にとって、それを実行に移すのには別の大きな勇気を必要としていたに違いない。戦場の露と消えた20余万の人々の直接的な怨念や、それに対する残された人々のやり場のない怒りよりも、「国体」という名の実体のない亡霊のほうがずっと恐ろしい存在だったということなのだろうか。

追い詰められた守備軍がたてこもる喜屋武岬から摩文仁高地一帯の背後の海上は、無数の米艦船群によって覆い尽くされた。そして、それらの艦船群からは、昼夜の別なく猛烈な砲爆撃が繰り返された。また、航空機による銃爆撃も激烈をきわめ、陸上からはM4戦車群とそれらを盾にした米地上軍が四方八方からジリジリと包囲網を狭めてきた。この頃になると守備将兵の死者は連日1,000人を超え、戦傷者の数はそれをはるかに上回った。さらに、その戦闘のさなかを右往左往して逃げ惑い、なすすべもなく倒れていった多数の非戦闘員たちの有様は、地獄絵図さながらであったという。

あまり知られてはいないことだが、あちこちの洞窟や壕に隠れる一般住民を救出するため、沖縄方面司令官バックナー中将の指令を受けた米軍は、カリフォルニアやハワイに住む沖縄出身の一世や二世のうち沖縄弁の得意な者を厳選し急遽前線に送り込んだ。そして、彼らにハンドスピーカーを渡し、洞内や壕内に潜む人々に向かって、安全を保証すから外に出てくるようにと呼びかけさせた。この説得工作によって命を救われた住民もかなりの数にはのぼったが、期待されたほどの効果はあがらなかった。米軍の説得に応じることはスパイ行為や利敵行為だとみなされ、背後から銃弾が飛ぶヒステリックな状況のなかでは、救命のために尽くされたあらゆる努力は無為に等しいものとなったのだ。沖縄女子師範の若い学生からなるひめゆり部隊の悲劇は、その象徴ともいうべき出来事だった。

沖縄戦の戦死者の名前を刻んだ平和広場の慰霊碑群の間を抜け、ゆるやかな斜面を登りつめると、海抜89メートルの摩文仁ノ丘の頂上に出た。激戦の跡とは信じられないほどに静まりかえった丘の頂きにただひとり佇み、最後の戦闘の状況を想像しながら海と夕空を眺めやっているうちに、どうやら私の身体はある種の霊気に包まれてしまったようだった。ぞくりとした感覚をともなうその不思議な気配に導かれるままに、私は丘の南側断崖を縫って海岸に続く急な細道を下りはじめた。鬱蒼とした亜熱帯樹林に覆われるその断崖のなかほどには、牛島満司令官と長勇参謀総長が自決した洞窟がいまもそのまま残っていて、いかにも暗く淋しい感じの小道はその洞窟のほうへと続いているのだった。

「いくらその場の雰囲気に誘われてとはいっても、夕刻に1人でそんなところを訪ねるなんて物好きな!」と言われれば、たしかにそうかもしれない。だが、生来、私は野次馬根性の塊みたいな人間だったし、子供の頃から人が嫌がるようなところを夜遅く歩くのも平気だった。それに、夕刻とはいってもまだあたりはかなり明るかった。だから、沖縄守備軍最後の司令部が置かれ、牛島司令官と長参謀総長が自決したというその洞窟をこの目で見てみたいという意識が潜在的に働いていたとしても別段おかしなことではなかった。

問題の洞窟は、摩文仁ノ丘の頂と崖下の海岸とを繋ぐ隘路のちょうど中間あたりにあった。ぽっかりと開いた大きな洞口付近には、牛島満司令官と長勇参謀総長が昭和20年6月3日未明にこの場所で自決したことを述べた一文と、牛島中将の辞世の句とを記した碑が立っていた。「陸軍大将牛島満」と表記されているところをみると、死後に「大将」への昇格がなされたのだろう。司令官や参謀総長は自決後も辞世の句などの書かれた碑などを立てて霊を弔ってもらい、残された遺族への年金交付額などにも関係する階級特進の配慮がなされたからよいようなものの、なんの見返りもないままに戦場の露と消え、遺骨の行方さえもわからなくなった無名戦士や一般島民の霊などは永遠に浮かばれないだろうとも思われた。暗い洞穴の奥にも入ってみたが、一見したところではそんなに奥行きのある感じではなかった。洞口一帯は米軍の猛烈な爆撃によって崩壊変形したというから、当時はもっと深い洞になっていたのかもしれない。

目が徐々に洞内の暗さになれてくるにつれて、ぼんやりとではあるが洞窟壁面や床面の様子がわかるようにはなってきた。あちこちに白っぽい岩塊のかけらのようなものが見えるのは、隆起珊瑚礁の一部がそのまま残ったか、さもなければそれらが石灰岩化したものであろうと推測された。場所が場所なだけに、洞内のあちこちに人骨の断片が散らばっているかのような錯覚にとらわれたほどだった。

米軍が摩文仁ノ丘の頂へと進出し、守備軍司令部のあるこの洞窟へと迫ってくる段階になると、守備兵が洞窟近くの水場まで炊事に行くだけでも、五人中二人は銃撃を受けて死亡する状況になったという。炊事当番の兵士たちは、それでも何組かに分かれて命がけの炊事に出かけたが、それはまるで、ロシアンルーレット、すなわち、リボルバー銃による死のルーレットそのままの行為であった。もっとも、爆雷を抱えて敵陣へ突入させられた多数の学徒動員兵や下級兵士に較べれば彼らのほうがまだしもましだったかもしれない。肉弾特攻兵や特別斬り込み隊員は、「死のルーレットの恩恵」にすら浴することが許されなかったからである。

そんな切迫した状況のもとにあって、八原高級参謀と砂野砲兵隊高級部員の間では、牛島司令官と長参謀総長の自決の段取りが話し合われたようである。「2人が洞窟内で自決すると、珊瑚岩が固くて地中に埋めることができないし、米軍にも発見されやすい。また、腐爛した遺体が洞中に残るのは不様だから、摩文仁の断崖上で自決してもらい、遺骸はそのまま断崖直下の海中に投じて水葬にしたほうがよい」というのがその結論だった。八原と砂野の両者は残存守備軍将兵を総動員して摩文仁岳山頂から麓にかけて布陣している米軍に一斉突撃を敢行させ、その間に牛島司令官と長参謀総長に丘の上で自決してもらうという筋書きを立てた。そして、6月22日夜半摩文仁ノ丘頂上を奪回、23日未明にそこで両将軍の自決が行われることになった。長さ30センチ、幅10センチの二枚の板で作った二人の墓標も用意されたという。

しかし、勝利を目前にした米軍の反撃は凄まじく、摩文仁岳山頂の奪回は失敗した。そのため、牛島、長の二人は、やむなくしてこの洞窟入口付近で自決した。6月23日午前4時30分のことだったと伝えられているが、正確な自決の日時、場所、方法などについては諸説があり、現在でも真相は明らかでないようだ。現場にいたごく一部の者にしかわからない相当複雑な事情があったのではないかと推察される。一説によると、牛島満司令官は、自決の直前に「沖縄の人たちは私を恨みに思っているに違いない」と述べたというが、その程度の申し開きで沖縄の人々の怨念が晴らされるものではいことは、牛島司令官自身が誰よりもよく自覚しておくべきことのはずだった。そうでなかったとすれば問題外だと言うほかないが、ともかくも、こうして悲惨を極めた沖縄戦は終結をみたのだった。

司令部のあった洞窟を出た私は、下へと続く急な隘路をたどって海岸へと降りてみることにした。細い道の両側に広がる斜面の深い藪や亜熱帯ジャングルの土中にはいまだに数知れぬ遺骨の断片が埋もれていて、現在でもちょっと土を掘り返すとそれらが見つかるという話は聞いていたが、なるほど思わせる雰囲気があたり一面に漂っていた。崖下の海岸は直径2~3メートルほどの大石や大小の岩々の立ち並ぶ荒磯になっていて、南に開けた海上からは、折からの強風に煽られて轟々と荒波が打ち寄せていた。

前方にはひときわ高く切り立つ断崖があって、その断崖に遮られるかたちで私の立つ荒磯は行き止まりになっていた。摩文仁ノ丘の南端にそびえる一連の断崖を、摩文仁沖一帯の海上に展開していた米艦の兵士たちは「自殺断崖」と呼んだという。米軍に追い詰められた多数の沖縄島民や敗残兵たちは、次々にこの摩文仁ノ丘の断崖上から海中や崖下の岩場に向かって身を投げた。目前に展開する理解を超えた凄惨な光景に、艦上の米兵たちは言葉を失い唯呆然とするばかりであったと伝えられている。

私はごつごつした大小の岩を伝い歩いて断崖の真下まで近づいてみた。断崖の海に面した部分やその向こう側の様子がどうなっているかはわからなかったが、私の立つ側の足元は角張った大小の岩だらけであった。垂直にそびえる断崖上からこの岩場に向かって飛び降りたらひとたまりもなかったろう。昭和20年6月20日前後には、この一帯の岩々は一面朱に染まっていたに違いない。足下の巨岩群が重なってつくる暗く深い隙間の底には、いまもなお無数の遺骨が人知れず眠り埋もれているような気がしてなかった。

遠い日の悲劇を偲びながら、頭上の断崖をじっと見上げていると、突然、私は、全身がある種の気配に包み込まれるような、異様きわまりない感覚に襲われた。身体の奥がぞくっと震え、鳥肌がたつような戦慄感とでも言い表わしたほうがよかったかもしれない。霊気を感じたという表現がもっとも相応しいのは、たぶん、こんな時だろうと思ったりした。私は、自分の心を落ち着けるために、子供の頃から諳(そら)んじている般若心経の一節を反射的に胸の奥で呟いた。

子供の頃に般若心経を憶えたのは、たわいもないことがきっかけだった。ラフカディオ・ハーンの「耳無し芳一」を読んでいるうちに、その身体に書かれたお経の文字が般若心経のものだったということを知った。野次馬精神に誘われるままに、仏壇の前にあったいくつかの経本を持ち出して調べてみると、それらの中にたまたまルビのふられた般若心経の経典があった。そして、意味もわからぬまま、面白半分にその短い経文を暗記した。この経文のもつ深い意味を学んだのはずっとのちのことになるのだが、そんな般若心経に意外なところでお世話になったというわけだった。

人間の心というものは厄介なものである。特殊な緊張状況や異様な雰囲気の中に置かれたりすると、五感が異常な興奮と混乱を来たし、その結果、平静を失った人間の心は幻覚や幻聴の虜になる。ただ、たとえそれらが空なる存在であったとしても、当人にはまぎれもない実在に感じられるわけだから、話はけっして容易でない。

どう見ても私は信心深い人間ではないが、この世の現象界を構成する五蘊(ごうん)、すなわち、色(物質及び肉体)、受(感覚や知覚)、想(各種概念とその構成体)、行(記憶や意志)、識(純粋な意識)の5つの存在からなる集合体はみな空であり、実体がないと説き、究極的にはその教義そのものも空であるとする般若心経の教えは好きである。裏を返せば、信心深い人間でないからこそ、般若心経の教えが性に合っているのかもしれない。それに般若心経は短くて覚えやすいのがなによりもよい。人間の心に異常な興奮や妄想が生じたときなど、この心経はトランキライザーとしての効き目をもつといってよい。

インド古来のそんな精神安定剤のお蔭で再び冷静さを取り戻した私は、己の心が一瞬感じた幻によってもたらされた異様な戦慄を、気が向いたときなどに詠む我流の歌に托したあと、夕暮れの迫る摩文仁の断崖をあとにした。たぶん、この摩文仁ノ丘一帯で何かに憑かれたように死んでいった人々が見ていたものも、そして彼らが懸命に守ろうとしたものも、「国体」という仮面をかぶったある種の悪霊だったに違いないと思いつつ……。

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