轟々とかなしきまでに人を呼ぶ
三国の冬の海のさびしさ(福井県三国町)
平成元年の冬、私は新しく購入したばかりのトヨタ・ライトエースに乗って日本海に面する福井県三国町を目指した。四輪駆動の新車の性能を確かめかたがた馴らし運転をしようというのがそもそもの動機だったが、どうせなら冬の日本海を眺めることができるとろがよいと考え福井県三国町あたりに狙いをつけた。三国は福井市の北20キロメートルほどのところに位置する九頭竜川河口の町である。古来港町として栄え、帆船が主役だった江戸時代までは日本海沿岸有数の風待ち港として交易上重要な役割を担ってもいた。そして、その繁栄ぶりを物語る傍証とでもいうべきか、この地には北陸随一といわれる遊郭が設けられていた。ちなみに述べておくと文学者の高見順や三好達治はこの三国の地にゆかりが深い。
途中でチェーンを着装しはしたものの、四駆の新車ライトエースは東京から北陸方面へと向かう山間地の雪道をも快調に走りきり、小雪の舞う港町三国へと無事到着した。その夜は三国の町はずれにある民宿に泊まったが、厳冬期に水揚げされる日本海特産のアマエビや越前ガニなどが食卓にのぼり、舌鼓を打つことしきりだった。
翌日は雪こそひどくは降っていなかったが、身を切るような北西の季節風の吹き荒れる氷雨模様の暗い一日だった。宿をあとにした私はただちに三国町の北部へと向かってハンドルをきった。三国町にやってきたいちばんの理由は、同町の名所東尋坊一帯を訪ね、その断崖上に立って荒波の猛り狂う冬の日本海を眺めたかったからだった。
シーズン・オフとあってか東尋坊の駐車場には車は数台しかとまっていなかった。観光シーズンならお客で賑う土産物店街もほとんどが閉店しているか、そうでなくても開店休業状態だった。厳冬期に東尋坊にやってくるなどというのは、相当な変り者か酔狂な人物のやることだから、そんな連中を相手にして商売をやってもしょうがないということだったのかもしれない。おかげで土産物屋街につきものの執拗な呼び込みに辟易することもなく、とりとめもない物思いに耽りながら独り静かに岬方面へと向かうことができた。もっとも、途中に一軒越前ガニを売っているお店があり、むらむらと湧き上がった食い意地に動かされ、ちょっとだけ店頭をのぞいてみたが、直感的に値段が高いと感じたので売り子に声をかけられる前にそそくさとその場を立ち去った。
巨大な石柱を束にして突き立てたような柱状節理の岩壁が水面から40メートルほどの高さで海中に張り出す東尋坊の奇景は、推理ドラマなどにもしばしば登場しているから、いまさらその有様を紹介するまでのこともないだろう。ローソク岩、ライオン岩、千畳敷などといったような見どころがいくつかあるが、なかでも圧巻というべきは高さ50メートルにも及ぶ大池の断崖の絶景だ。
岬の先端近くに出ると、猛烈な北寄りの風が吹きつけてきた。身も凍るような冷たさに思わずダウンのジャケットの襟元を固く締めなおしフードを深々とかぶりこんだ。激しい風圧のゆえに、波しぶきで濡れた足場の悪い岩場では立っているさえ困難なくらいだった。あまり無理をすると危険なので、以前夏場に訪ねたときのように岬のいちばん突端までいくのは諦め、波頭を真っ白に逆巻き泡立たせながら次々に押し寄せる大浪の山々を眺めやった。頭上を覆う厚い黒雲と絶間なく湧き立ち流れる灰色の海霧とに染め変えられでもしたかのように、眼下に広がる海面全体は鉛色をしていてどこまでも暗くそしてものさびしかった。
ドドーン、ドーン、ドドドドーンと足元をも揺るがすような音をたてながら、大浪が一帯の岩壁に激しくぶつかり砕け、無数の純白の飛沫となって空中高く舞い上がる光景は、想像していたとおりなんとも壮観なものだった。轟々と響きわたる海鳴りは、幼少期を送った南海の離島で台風時に幾度となく体験した雷鳴のような海鳴りの音を、記憶の地層の奥底から私の脳裏に甦らせもした。白い牙を剥き出しにして容赦なく猛り狂う海を眺めるのが大好きなのは、もとはというと、そんな台風の本場の離島で自分が育ったからに違いなかった。
だが、この東尋坊の冬の荒海からうける印象は南海の離島の台風時のそれとはどこか大きく違うような気がしてならなかった。東尋坊をあとにし、もうすこし北に位置する安島岬沖の雄島の光景を目にしたとき、その想いはいちだんと強くなった。安島の岬と雄島との間には橋がかかっていたが、折からの激しい風浪のために無理して渡ると危険なばかりでなく全身ずぶ濡れになってしまいそうだったから、雄島へと渡ることは断念した。そして、橋のたもと近くに立って荒れた海面をあらためて見つめやった。
轟々と寄せる波の音や間断なく響き渡る海鳴りの音は先刻の東尋坊のそれとすこしも変りなかったが、なぜか私は、その波音や海鳴りの響きの奥にまるで懸命に人を呼び寄せでもしているかのようなもの悲しさ、もの淋しさを感じとったのだった。ただ荒々しいいっぽうで人間など寄せつける余地などまるでない台風時の九州の離島の風浪と異なり、おなじように猛り狂っているようには見えても、この三国の海の冬の荒海には人々に何事かを切々と訴え呼びかけ、必死に人を呼び寄せようとしているかのようなもの悲しさが漂いわたっているのだった。
それがなにゆえなのかは正直なところ定かではなかった。自分自身の心のありかたに起因するものなのか、この地の風土や地形さらには歴史的背景によるものなのか、それとも大陸から冷気を含んで吹き渡る季節風とそれに煽り立てられる冬の日本海の荒波そのものの性質によるものなのか、あれこれ考えてみてもいまひとつよくはわからなかった。だからその理由をそれ以上深く詮索することはやめ、人を恋う三国の海の呼び声にすなおに耳を傾け、寄せ来る波浪のつくりだす冬の光景をひたすら眺めやることにした。そして、そんな情況のもとでささやかな歌が一首胸中に浮かび上がってきたのだった。
話は変るが、あれからもうまる16年、その時以来ずっと私の旅に付き合ってくれていたトヨタ・ライトエースと昨年末ついに別離することになってしまった。本音をいうとあと4年乗りつづけ、20年経ったところでお役目ご免にしたかったのだが、ディーゼル車だったために昨年秋から小型車にも適用されるようになった排ガス規制法にしたがい、おのずから廃車にせざるをえなくなった。やむなくして昨年末にご主人様ともども最後の姿を写真に撮り、長年の労をいたわったあと、泣くなくディーラーに引き渡した。いまごろはどこかでペシャンコにされ昇天してしまっていることだろう。
今年から変りに乗り始めた車は四輪駆動のトヨタのWISH、ライトエースよりひとまわり小型でスペースもずっと狭いが、一応は中で横になり眠ることはできる。自分の年齢と体力のほどを考えればまあ分相応の車なのかもしれない。マニュアルのクラッチ車だったライトエースと違い今度のWISHはオートマ車だから、左足と左手がなんとも手持ち無沙汰でならないが、まあ慣れるのは時間の問題だろう。
ナンバーは「多摩530・ほ・4771」、お守りを車につけるのが嫌いな性分を察知した神様の悪戯なのだろうか、なんともはやナンバー自体がお守りになってしまった。なぜなら、この新ナンバーには、「弾意味無い、本田は死なない」という語呂合わせをすることができるからである。銃で撃たれるような目には遭いたくないが、装甲車なんかではないにもかかわらず、銃弾でもなんでも跳ね返してしまいそうなナンバーではある。