自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 25 (佐渡外府海岸二ッ亀にて)

佐渡島磯喰む潮の恋しきは
わがふるさとを経て来しゆゑか

(佐渡外府海岸二ッ亀にて)

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

昭和62年5月のことだから、もう17年前のことになる。長年の念願だった佐渡島渡航のなった私は、初夏の爽やかな海風に身をゆだねながら、島のほぼ東北端に位置する二ッ亀方面に向かってひとり外府海岸を旅していた。数々の流人伝説や「荒海や佐渡に横たふ天の河」という芭蕉の一句で知られるこの島にそれまではどこか暗くもの淋しいイメージを抱いていたのだが、実際に目にした佐渡島は光に満ち溢れ、底抜けに明るかった。時節柄もあって道端の草むらのいたるところには黄も鮮やかなキスゲの花やタンポポの花が咲き乱れ、折からの陽光のもと眩いばかりの輝きを放っていた。さらにまた草の葉や木の葉の一枚いちまいも、その瑞々しい若緑をこれ見よがしに誇示していた。

2匹の亀がうずくまっているように見えるその島の形からそう呼ばれるようになったという二ッ亀付近に着くと、私はすぐに青潮の寄せる磯辺に降り立った。どういうわけか、心地よく吹き抜ける潮風が私の心にさりげなく何事かを訴えかけいるように感じられてならなかった。自分でも戸惑いをおぼえるほどにそれはなんとも奇妙な感覚だった。

浜辺や磯辺づたいにゆっくりと歩を進めながら、ひたひたと寄せ来る波を眺めたり荒磯を喰む青潮の中を覗き込んだりしていると、突然、不思議な懐かしさが胸中いっぱいに湧き上がってきた。かつて一度目にしたことのある風景の中に再び自分が立っているような感じだった。もちろん佐渡島に渡ったのは初めてのことだったから、現実にそんなことなどあるはずはなかった。

私のその謎めいた思いを解き明かしてくれたのは、ぷーんと鼻をつく独特の磯の香りだった。子供の頃、私は日々この香りを嗅ぎ、この香りに全身を包まれて育った。磯場にびっしりと生える様々な海草類やそれらの中に生息する諸々の魚貝類、さらには潮溜まりに息づく生物などが日光や海水に煽り誘われて発する特殊な香り――私が育った鹿児島県の甑島と佐渡島とは距離的に大きく隔たってはいるものの、双方の磯辺に漂う香りはそっくりおなじものだったのだ。

私はあらためて周辺の磯場一帯の生物類を観察した。ホンダワラ、ヒジキ、ワカメ、テングサ、アオサ、イワノリ、イソギンチャク、カメノテ、フジツボ、イワガキ、カサガイ、タマビシ、クロニナ、ゴカイ、イワハゼ、フナムシ、イワカニ、ヤドカリ……。それらのなにもかもが見覚えのあるものばかりだった。すこしばかり海に突き出た岩の先端に立って水中を覗いてみると、青々と澄んだ海水が陽光に揺らめき、かなりの深さのある水底の岩々や小石までがはっきりと見てとれた。食用巻貝の一種で円錐形をしたシッタカの姿もあちこちに散見された。海水の色もその中に手先を浸してみたときの感触も、指先でそれを舐めてみたときのしょっぱさも、すべては遠い記憶のそれとそっくりおなじだった。

海中に飛び込み潜ってみたら揺らめく海草の奥の岩や大きな石の下にサザエやトコブシ、アワビなどが見つかるだろうし、イセエビやタコ、カサゴなどが生息しているのが見られるに違いなかった。だが、生憎、海パンも水中眼鏡も持ち合わせていなかったので、さすがに水中に潜ってみるのは諦めた。

外府海岸一帯の景観になんともいえない懐かしさを覚えたのは、磯場をはじめとする全体的な環境のかもしだす雰囲気やそこに生息する生物の生態系が故郷甑島のそれとなにからなにまで似通っていたからなのだった。あれこれと想いをめぐらせながらしばらく磯辺を歩き回っているうちに、私にはそれらすべてが対馬海流のなせるわざにほかならないということがわかってきた。

琉球・奄美諸島の西沖合で黒潮から分岐した暖流、いわゆる対馬海流は東シナ海を北上し、九州本土の西方に浮かぶ私の故郷、甑島周辺を通過する。そして五島列島を経たあと、対馬の東西両岸を洗うようにして日本海に入る。対馬海流と呼ばれているのは、むろんこの暖流が九州と朝鮮半島の間に位置する対馬周辺を通過するからである。日本海に入った対馬海流は隠岐島、能登半島沖、さらには佐渡島を通過して日本列島北部西岸沿いに進み、北海道の礼文島や利尻島付近まで北上する。日本列島の太平洋側を洗う黒潮と同様に、対馬海流は高い水温と塩分濃度を有し、深いところで見るとその色はほぼ黒に近い濃紺色をしている。もちろん、黒に近い色をしているからといって濁っているわけではなく、その透明度は驚くほどに高い。浅いところでその透明な海水がコバルトブルーに輝くのはよく知られている通りである。

この母なる対馬海流の雄大な流れは、その経路にあたる数多くの島々を結びつけ、それらの島々を取り巻く海や磯辺に豊かな生命の数々を育んできたのである。母体がおなじであるならば、場所は違ってもそこに育まれる生物相やその生態系が類似しているのはごくあたりまえのことでる。その意味からすると、私が育った甑島とこの佐渡島とは血を分け合った兄弟というわけなのだった。

不思議な懐かしさの根源に思い至った私は、あらためて佐渡島の磯を喰む青潮を眺めやった。そして故郷の甑島の沖合を流れ経て来たのであろうその輝き澄んだ海水のきらめきに促され、遠い日々の出来事を昨日のことのように想い起こした。文字通りの真っ裸で磯浜を駆けめぐり寄せる潮と戯れる幼き日の幻影がそこにはあった。水中眼鏡をかけて岩場に潜り魚貝類を追う少年の日々のときめきがそこにはあった。そしてまた、雷鳴のような響きをともない轟々と猛り狂う嵐の海の姿があった。

海流というものは一方通行である。対馬海流が逆流して佐渡島から甑島へと流れるようなことはない。だから、佐渡島育ちの人々がなにかの折に甑島のようなところの磯辺に立ったとき、私が佐渡で感じたような懐かしさを覚えるようなことはないのかもしれない。ただ、ある種のルーツのようなものを感じとることくらいはあるだろう。

琉球諸島や奄美諸島に旅したとき、海辺の様子ばかりでなく、そこの言語や風習、漁法、あるいは古い建物などに自分が育ったふるさとの文化のルーツのようなものを直感することはすくなくない。もちろん、それは、それらの諸島と甑島とを一方通行で結ぶ対馬海流のなせるわざなのだろう。佐渡育ちの人が甑島などを訪ねたら、たぶんそれと似たような想いに駆られるのではなかろうか。

速く泳げる回遊魚類なら対馬海流に逆らって南下することもできるだろう。しかしながら、小さな魚や定着性の魚貝類、海藻類となるとそうはいかない。それらの生物は母なる対馬海流の北上をひたすら待ち望みその影響を受けながらも、環境への独自の適応を試みていくことになる。だから、厳密な意味では佐渡島の磯辺の生物相と甑島の磯辺のそれとがおなじというわけではない。それでもなお、佐渡の海辺の光景は私に故郷を想い起こさせてくれるには十分だった。

夏場なら礼文島や利尻島付近まで北上する対馬海流は、樺太の間宮海峡や宗谷海峡を通過して南下する寒流のリマン海流とぶつかり、そこで底流となって反転し、深い海中を潜流となって再び南下するという。きっとそれによって育成される深海性の生物もまた存在するのだろう。対馬海流の表面的な動きのみを目にするかぎりでは一方通行におもわれるけれど、大自然は見えないところでちゃんとバランスをとっているようなのだ。

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