自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 32 (サロベツ原野オロロンライン)

風吼ゆる北の浜辺に立ち揺らぐ
かぼそき花よ汝は強き

(サロベツ原野オロロンライン)

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

4年前の夏のこと、久々にサロベツ原野周辺を訪ねた私は、日本海に沿って南北に走るオロロンラインを稚咲内方面に向かって南下していた。天候は荒れ模様だったが、進行方向左手に広がるサロベツ原野一帯には、時節柄、エゾカンゾウをはじめとする無数の花々がいまを盛りと咲き誇り、その美しさを競っていた。群生するそれらの花々の織り成す景観は、それはそれでいつ見ても感動的なものではあったが、なぜかこの日は、それよりも進行方向右手の海側に点在する草花のほうにばかり目がいってならなかった。

なかでも、私が強く心惹かれたのは、吼えるがごとくに吹きつける雨混じりの海風にあしらわれながらも、黙々としてその風圧を耐え忍び、断じてその品格を失うこともなく、毅然として濃い黄色の花弁を咲き開く一輪のエゾカンゾウのたたずまいだった。たぶん、私が、その花の健気としかいいようのない姿に、ある種の女性がそなえもつ不思議なまでの強さのようなものを重ね見ていたからかもしれない。それは、世の男性と呼ばれる種族にはまず見られることのない、幾重にもしなやかさの織り込まれた強靭さとでも言い表すべきものであった。

都会に生まれ育ち、大都会での長年の生活を経たあとで遠く離れた異郷の離島に渡り、我が子をことごとく失うという悲運に耐えながらまだ幼かった孫の私を中学生になるまで育て上げ、自らの死期を悟ると、唯一の肉親として残された私にすらそれを告げることなく独り決然として逝った祖母の強さもそのひとつだった。また、鹿児島市で苦学中だった高校時代、お世話になっていたバイト先でたまたま出逢い様々なことをご教示いただいた石川美江子先生の、気品に満ち、柔軟そのもので、それでいてしかも、いかなる難事に面しても毅然として怯むことのない姿なども、身を挺して海風に立ち向かう一輪のエゾカンゾウの花の向こうにこの日私が重ね見たもののひとつだった。

この時すでに93歳になっておられた石川先生は、まだ全国的に女性の社会的地位が低く抑えられ、なお男尊女卑思想の色濃く残っていた時代に、鹿児島県下の全公立学校を通じ、女性として初めて教頭職に就かれた方であった。地元においては、さまざまな誹謗中傷をものともせず、教育者として多くの優れた人材を世に送り出されたことで知られてもいた。先生は若い頃結婚なさり、いったん教職を離れて満州に渡られたが、その地で御主人と死別、辛酸の極みを舐めた挙げ句に終戦後なんとか鹿児島に帰還された。それからほどなく教員として復職なさり、再婚することなくその後の人生をひたすら教育に献げられた。異国の地で苦境にあった時代、満州の野に咲く草花を眺めながら自分の孤独な心を励ましもしたという話などを常々伺っていたので、風に揺れるエゾカンゾウの向こうにそのぶんいっそう鮮明に先生の姿を想い浮かべたのであろう。

愚作ではあったがその時の自分の想いをそのまま歌に詠み込んだ私は、そのあと稚咲内で左折し、夕闇の深まるサロベツ原生花園の中心部を抜けてそのまま豊富温泉方面へと向かおうとした。ところがちょうどその時、たまたまというにはあまりにもタイミングがよすぎるくらいに、カーラジオから「祈りの詩人」の異称をもつ金子みすずの詩の朗読が流れてきたのだった。まるでその詩はサロベツの野を一面に覆う無数の草花に向かって切々と語りかけられているかのようでもあった。

――かあさん知らぬ草の子を、なん千万の草の子を、土はひとりで育てます。草があおあおしげったら、土はかくれてしまうのに――それは「土と草」という詩であったが、やさしい表現であるにもかかわらず深く心に染み透る天才詩人ならではの言葉使いとその絶妙なリズムとに、私は思わず聞き入ってしまったのだった。我々命ある者は「自力で生きている」のではなく「目に見えぬものの力とその犠牲とによって生かされているのだ」――言葉にするとなんとも月並な表現になってはしまうのではあったが、私には金子みすずの心の奥のそんな真摯な叫び声がいまにも聞こえてきそうであった。

サロベツ湿原を抜けると、そこからそう遠くないところにある豊富温泉に立寄り、一風呂浴びて旅の汗を流した。そのあと幌延町を経て国道四十号に入り、ひたすら夜道を美深町方面目指して走り続けた。快調なエンジン音にいささか気をよくしながらハンドルを握る私が、前方の路上に動物の死体らしいものが転がっているのを発見したのは、音威子府の集落のすぐ近くまでやってきた時であった。車から降り、懐中電灯を持って近づいてみると、それは、まだ温かみの残るキタキツネの死体だった。頭部と腹部とを車に轢かれ、内臓破裂で即死したものらしい。目と内臓が飛び出し、見るも無残な姿であった。

そのままではあまりにも可哀想なので、両足を掴んで体ごとぶらさげ、道路脇の深い草むらの中まで運んだ。そしてスコップを取り出し穴を掘ると、柄にもなく南無阿弥陀仏と心の中で呟き、両手を合わせながら、そのキツネの魂を静かに弔い葬ってやった。死んだキタキツネが望むなら、南無阿弥陀仏のかわりに南無妙法蓮華経と呟いてやろうが、十字を切ってアーメンと唱えてやろうが、あるいはまた二礼したあと二拍手一礼して引下ろうが、こちらとしてはすこしもかまいはしなかったのだが、あいにく私には当のキツネの信仰がどのようなものであったのかなど知るすべもなかった。だから、もっとも手っ取り早いナムアミダブツで間に合わせてしまったようなわけだった。

再び車に戻った私は、音威子府を過ぎると美深町までいっきに国道四十号線を南下した。そして、道の駅「びふか」で車を駐めると、そこで朝まで眠ることにした。ちょうどその頃に鹿児島市内のある病院の一室で起こっていた事態など、神ならぬこの身には知りようのないことだった。こともあろうにこの日の夕方、突然ひどい下血を起こして緊急入院された石川先生は、その病院で危篤状態に陥っておられたのだった。

のちにして思えば、雨混じりの激しい海風に耐えて咲くエゾカンゾウの花に石川先生の姿を重ね見たことといい、たまたま耳にした金子みすずの詩の朗読といい、さらには息絶えたキタキツネに遭遇したことといい、この日の一連の出来事はなにかしら暗示的ではあったのだ。翌朝、石川先生は他界された。だが、府中の自宅からの連絡で実際にそのことを知ったのは4日後のことで、その時まだ私は北海道の山中をあちこち旅しているさなかだった。

ずっとのちになって石川先生の親族の方から伺ったことなのだが、もう20年くらい前、上高地の河童橋で私と2人で撮った写真をいつも手元に置き、いつも大切にしてくださっていたらしい。「本田さんと」と記されたその2枚の写真はその後東京の私宅に送り届けられた。私はいま、その写真を自室の一隅にさりげなく飾っている。

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