自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 24 (広島県竹原・三原周辺にて)

どこまでも切なきものを湛へつも
明るく光る瀬戸の五月よ

(広島県竹原・三原周辺にて)

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

平成元年の5月のことだからもう十数年前のことになる。ちょっとした仕事があって広島市に出向いた私は、その翌日、旧海軍兵学校のあった江田島など知られる呉市を訪ねた。そして、あらかじめ連絡をとってあった同地在住のある人物と会い、あれこれと歓談しながらあちこちを案内してもらった。その呉からの帰途、私は、安浦、安芸津、竹原、三原と瀬戸内の海伝いの道をたどり、尾道方面へと抜けるルートをとった。

やわらかな初夏の陽光に輝き揺れる瀬戸内の海面は、なんとも青くそして明るかった。ハンドルを握る車の窓越しに仰ぎ見る沿岸一帯の樹々の緑はどこまでも瑞々しく艶やかで、萌黄色に包まれて浮かぶ大小の島々の眺望も文句なしに素晴らしかった。午前中の時間帯ということもあったのかもしれないが、いずれにしろその5月の瀬戸内は海も山も生命力にあふれかえり、躍動的に光り輝いて見えた。

だが、私はそんな瀬戸の5月の明るさの奥に、言い知れぬほどに深い切なさが漂っているのを見落とさなかった。かぎりない優しさにもつながるその不可思議な切なさはいったいどこから生まれてくるものなのだろう?――穏やかな海々と美しい島々、さらには驚くほどに入り組んだこの地方特有の海岸線の織りなす詩的景観のゆえなのか、この地に住む人々生来の感性のこまやかさと何事にも献身を厭わぬ気風のゆえなのか、それとも歴史的あるいは文化的背景に裏付けられた独特の伝統のゆえなのか――いつしか私はそんな想いに沈んでいた。

前日に呉で会った人物のイメージがどこかに切なさを秘めた瀬戸内の明媚な風景と重なって見えたことなども、その日の瀬戸の印象にすくなからず影響していたのかもしれない。

初対面の挨拶を交わしたあとすぐに意気投合した我々は、フェリーで車ごと江田島に渡り、まず、はじめに海上自衛隊関連の諸施設や旧海軍関係の戦史資料館などを見学した。ニフティ・サーブが開設されてほどなくニフティサイドから無料で同サイトにアクセスできるIDを特別支給された私は、パソコン通信の普及と発展の可能性を探りつつ、ネットの常連として積極的にチャットやフォーラムに参加し、BBSに様々な文章をアップしてもいた。

そして、ネット上でのそんな活動を通して知り合った人々と個人的にメールの交換をするようになったのだが、それらのメール仲間には呉市在住のひとりの女性が含まれていた。「ミラボー橋」をはじめとするアポリネールの詩を愛し、戦時中南太平洋の空に散った若い航空兵の残した手記に深く共鳴するものがあると語る彼女のメールはなかなか素敵なものだった。そうこうするうちにたまたま広島に出かける機会ができたので、お互いに連絡を取り合い、呉で会って話でもしようということになったようなわけだった。

メールから想像された通り、彼女は見るからに聡明そのものでしかも端正な容貌の持ち主であった。初対面の挨拶を交わしたあとすぐに意気投合した我々は、フェリーで車ごと江田島に渡り、まずはじめに海上自衛隊関連の諸施設や旧海軍関係の戦史資料館などを見学した。そのあと、西能美島と東能美島を走り抜け、早瀬大橋を渡って倉橋島に入ると同島を南下、そのさらに南の鹿島という小島の最先端に位置する宮ノ口集落までドライブを続けた。潮風の爽やかな初夏の瀬戸を何度も渡り美しい島々を縫ってのドライブは快適そのものだったし、二人の間で尽きることなく話も弾んだ。

再び倉橋島に引き返して同島を北上し、音戸ノ瀬戸を跨ぐ音戸大橋を渡って再び呉に戻ると、市内の美術館を訪ねた。ちょうど折よくその美術館で竹久夢二展が開催されていたので、それを観るためであった。それまでの会話の節々から彼女が並外れた美術センスの持ち主であることは察しがついていたが、多数の夢二の作品を前にして発せられる彼女の言葉の数々は、素人ながらもけっして絵が嫌いではない私の心を唸らせた。江田島も、瀬戸内の島々の探訪もそれなりに素敵だったが、呉を訪ねての最大の収穫はこの竹久夢二展に出向くことができたことだった。

我々はたまたまその日会場にきていた中国放送のTVインタビューをうける羽目になってしまった。インタビューワーからあれこれと繰り出される質問に軽い気持ちで適当に答えていたのだが、後日その時の様子が実際に放映されるという事態になった。我々はどちらも第三者の指摘でその事実を知ったようなわけだった。美術館を出たあとしばし市内の繁華街を散策し、それから、彼女がお気に入りのレストランにはいってゆっくりと歓談しながら食事をとった。そしてそのあと小高い丘の上にある展望台に登って美しい夜景を眺めたりもした。

彼女は自身の夢や関心事についてはいろいろと話してくれたが、その身辺の状況についてはあまり多くのことを語らなかったし、私もまたそれらの事柄を深く尋ねるようなこともしなかった。まだ独身なのかそれとも既婚なのか、それさえも定かには判らなかった。ただ、その言葉の端々から、彼女が呉の米海軍補給基地にある兵站部門に勤務しているらしいことを知った。呉という土地柄もあって、やむなくそんな仕事に就いているという自嘲の響きがその言葉の中にはあったけれども、自在に英語を操りながら有能に仕事をこなす彼女の姿を私は容易に想像することができた。いかに負んぶに抱っこの状態で日本政府が米海軍の補給に尽力しているのかを、彼女の口から具体的に聞き出すこともできた。

彼女の魂は明らかに遠い世界を見据えていた。その魂が満たされるにはいま彼女の生きている現実の世界があまりにも狭すぎることを、そして、そのゆえに、人知れずその魂が喘ぎ悶えていることをむろん私は察知していた。明るく輝く彼女の容貌の奥に、なんとも形容し難い切なさが秘められているのはそのゆえでもあるように思われた。それはまさに、この5月の明るく光り輝く瀬戸の風景の秘めもつ深い切なさにも通じるものでもあった。しかも、パソコン通信においてその頃彼女が用いていたハンドルネームはなんと「May」だったのである。かぎりなき切なさを秘めた瀬戸の5月そのものハンドルネームであったのだ。

実をいうと、ちょうどそんな初夏の瀬戸内の旅にまつわる想い出を綴っている最中に、突然「メディカル放浪記」を担当しておられる永井明さんの訃報が飛び込んできた。今年新宿のギャラリーで催された永井さんの写真展会場で歓談したときのお元気そうな姿が脳裏に焼きついていたし、秋には長年の念願だった南氷洋行きが実現しそうだとのお話を伺ってもいたので、一瞬なにかの間違いではないかと思ったほどだった。だが、永井さんに近い筋の方々に確認の連絡をとると、まぎれもない事実だということが判明した。2回にわたって少年時代の出来事を見事な筆の運びで活写なさっておられるのを拝見し、なにか心境の変化でもと思いはしていたのだが、その背景を知ってただ愕然とするばかりだった。

それにしても、これぞ虫の知らせとでもいうのであろうか、私がこの原稿の冒頭に紹介した拙歌は、永井さんが幼少期を送られた広島県の竹原・三原あたりで詠んだものだったのだ。もちろん、この歌自体はまだ永井さんとは面識のなかった時代に詠んだものだし、永井さんのイメージを意識しながらその歌について書こうと思ったわけでもなかった。だが、永井さんの訃報に接してからというもの、その歌に詠み込んだ瀬戸内の情景が生前の永井さんの姿やお人柄と重なっているように思われてならなくなったのだ。

もう6年近く前、「医者vs.数学者」という大仰なコラム欄を設けて永井さんと私とを結びつけたのはこのAICの穴吹史士キャスターである。せいぜい「慰者vs.崇楽者」くらいがよいところかなというのが我々の偽らぬ心境でもあったので、なんとも気恥ずかしいことになってしまったものだと穴吹キャスターを恨めしく思ったりもした。もっとも、幸いというべきか、これまた穴吹キャスターの発案になる「漂流記」と「放浪記」というタイトルのほうは永井さんも私もそれなりに気に入った。そこで、永井さんのほうはほとんど医学の世界の話をお書きになることなく「漂流者」に徹し、私のほうも数学の世界とはおよそ関係ないことばかりを書いて「放浪者」に徹することになったのである。

そのおかげでということなのだろうか、あるとき、永井さんと私とは、京都大学新聞の男女の学生編集者記者から2人一緒に並んでインタビューをうけることになった。「大学生とお酒」という新入生向けの特集記事を組むので、それに登場してもらいたいというわけだった。めっぽうお酒に強い永井さんとまるでお酒がだめな私とに、それぞれの立場からお酒についての見解を語らせ、それをもとにして、お酒が弱い新入生が大学での各種コンパやクラブ活動などでコンプレックスをもつことなく過ごすにはどうしたらよいかの記事を載せようというのが、学生編集者らの意図であった。

永井さんはまず医者としての立場から、アルコールの人体に及ぼす善悪両面についての影響について語り、本来あるべき酒の飲み方について結構真面目に私見を述べられた。そんな永井さんの様子をすくなからず意外な思いで眺めていた私のほうは、飲めない人間として酒席においてどう振舞い、酒豪を自称する人々とどんなふうに付き合ったらよいのかといったようなことをそれなりに話したりした。

だが、気まぐれな我々のことゆえ、最後には、「上戸の永井さんと下戸の私とがこうして仲良くお付き合いしているのだから飲める飲めないは人生の本質的には関係ないし、君たちのインタビューの趣旨にはかなり無理があるようだよ」などと、2人がかりで相手を煙に巻いてしまったのだった。永井さんの優しいお人柄に心を開いた学生らがインタビューそっちのけで持ち出した人生相談みないな話には、これまた2人がかりでああだこうだと答えにもなりそうにない答えをしてお茶を濁し、我々みたいないい加減な大人に相談するよりはもっともっと立派な方々にお伺いをたてたほうが賢明だという一言で締め括ったのだった。後日、京都大学新聞に永井さんと私の写真入りでデカデカとそのインタビュー記事が掲載されたのだが、いまとなってはそれもまた懐かしい想い出になってしまった。

悲しいことに、永井さんは還り道のない遠い遠い世界へと漂流していってしまわれた。私がどんなに現世を放浪してみても、次元の異なるその世界へいますぐに到達することはできそうにない。生身の永井さんはとても情の深い方で、自分の周りの人々にはさりげなく、それでいて実にこまやかな配慮をなさるのが常であった。社会的な正義感も人一倍おありだったし、きちっとした人生観も理念もおもちだったが、それらを顕に示されるようなことはほとんどなかった。

いつも明るくにこやかに、そして流れるような自然体で極力自我を消し穏やかに振舞っておられたように思う。表面的には「明るく光る爽やかな瀬戸の五月」そのもののような存在であったといってよい。お酒もずいぶんと強かったが、実に穏やかな飲みっぷりで、全身にアルコールがまわってくると、まるであの弥勒菩薩の永遠の微笑み「アルカイック・スマイル」にも似た「アルコーリック・スマイル(?)」を湛え、そのまま気持ち良さそうに横になり眠ってしまわれるのがいつものパターンだった。

しかしながら、永井さんもまたある種の切なさを、いますこし詳しくいえば、人一倍鋭い感性を内に秘める者特有の深いふかい切なさを心の中にすまわせておいでだった。そしてその切なさがなんとも言い難い永井さんの不思議な魅力となってあらわれていたように思う。豊かな自然と人情味あふれる瀬戸の地で育まれた永井さんの魂もまた、どこから来てどこへ行くのかわからない「生」の旅路を辿りゆきながら、私のような凡人にはわからない遠い遠い世界をじっと見据えていたのであろう。沖縄慶良間の海も、オホーツク海やベーリング海も、太平洋やインド洋も、そしてついには夢のままで終わった南氷洋さえも、その卓抜した魂にとってはなお狭く小さな存在にすぎなかったのかもしれない。

献花に囲まれてひたすら眠る永井さんのお顔は見るからに穏やかだった。落合火葬場で荼毘に付されたあと、冥福を祈りながらお骨を拾わせてもらったが、小柄な永井さんからすると意外なほどにその骨格が太くしっかりしていたのも印象的だった。生前永井さんが大好きだった沖縄の海でいずれ散骨される手筈になっているという。

火葬場からの帰り道、私は冒頭の拙い歌をあらためて永井さんの魂に献げることにしようと思った。よき相方を失った私には「放浪記」の執筆がいつまで続けられるのかわからない。そもそも私の能力は永井さんの分までひとりで背負うことができるほどには大きくない。しかしならが、ここで無責任に放り出したのでは天上界の永井さんから逆に叱られてしまいそうだから、まだ当分は駄文を綴っていこうとは思う。こまかな事情は省かせてもらうことにするが、実をいうと、広島県は生誕直後の私にとって大変深い関わりのあったところである。実際には横浜生まれの鹿児島育ちで、広島で暮らしたことはないのだが、戸籍上では私は広島生まれなのである。まったくの偶然だが、その意味では永井さんと私とは広島タッグを組んでいたことになる。

相も変わらず冗長な文章を綴ることになってしまったが、最後にいま一度永井明さんのご冥福を祈りつつ、拙稿の結びとしたい。

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