繋ぎ得ぬ汝(な)が魂よ燃え果てて
眠る刹那もひとり旅行く(東北地方のとある旅先にて)
こういう歌についてあれこれと書き綴るのは蛇足以外のなにものでもないのかもしれない。一昔前の駄作ではあるけれども、歌そのものによって事の一部始終を語り尽くしてしまっているつもりだから、そんなものにいまさら説明のようなものを加筆するなど野暮な所業もいいところだろう。だが、それでもなお、敢えてこのような歌の背景を顧みることにしたのは、おのれの生き恥を曝け出すことによって、どこまでも孤独な人間の魂の本質というものの救い難い孤独の本質というものを見据えることができるのではないかと思ったからである。
時のヴェールに深々と覆われ、もはやその折の細かな情況などをはっきりとは想い出すことはできなくなっている。また、それでなくても、時のヴェールというものはすべての出来事を現実とは異なるものへと演出してしまうきらいがあるから、いまの私には、この歌を通して胸中に甦ってくる情景がそのまま真実であったと断言できる自信もない。だが、ともかくも、その夜の彼女の姿はヴィーナスのように神々しくもあり、そしてまた悪魔のように底知れず蠱惑(こわく)的でもあった。
月並な表現をするなら、当時、我々二人が相思相愛の仲であったことだけは確かである。ただ、だからといって、「比翼の鳥」や「連理の枝」といった古くからの言葉に象徴されるような一心同体の関係にあったというわけではない。灼熱の炎に燃え立つ心をもって互いに激しく抱擁し合う瞬間だけは一心同体になっているという幻覚に陥ったこともあったかもしれないが、そんな瞬間においてさえも、ほとんどの場合は、エクススタシーに身を焦がし委ねるいっぽうで、相手の魂を自らの意思で支配し自らの身体に繋ぎとめおこうと、空しい足掻きを繰り返した。そして、いつもその果てに残るのは、乾いた砂を掴もうとしてそのすべてが指間からさらさらと流れ落ちてしまう時のような、やり場のない虚脱感だった。
いつの時代もそうなのだが、男女の仲というものはなんとも厄介なものである。それが幻想であれなんであれ、相手の存在が容易には手の届かぬところにあって崇高な輝きを発しておればこそ、激しくおのれの心を燃え立たせ、おのれを誘うその魂を追い求める。そして、なんとかその魂を自らの手に捉えることができたらできたで、その直後から人間の業ともいうべき地獄が始まる。相手の魂がおのれに対し従順かつ誠実であれば、しばしは至福の時が続いたとしても、やがては飽きてついには無感動になってくる。たとえ深い感謝と心からのいたわりの念は残ったとしても、あれほどに崇高な存在に見えたはずの魂にかってのような輝きは感じられなくなってしまう。
いっぽう、相手の魂がどこまでも奔放かつ蠱惑的であるならば、容易にはその輝きが失せ去ることのないかわりに、その魂をしっかりと掴み放すまいとすればするほど不安になり、孤独感に襲われ、やがて猜疑心や絶望感に苛まれることになる。寛容の精神や悟りの心をもってそんな相手の魂を抱き包み込むことができればよいのだろうが、寛容さや悟りというものは加齢に伴う諦念や情念の弱まりと表裏一体のものだから、若い時代の男と女にはおよそ無縁のものである。
従順で誠実な魂に惹かれるか、それとも奔放で蠱惑的な魂のほうに惹かれるかは人それぞれなのであるが、どちらかというと、私の場合は芯が強く激しい気性を内に秘める後者のような魂により心惹かれるきらいがあった。そして、言うまでもないことだが、冒頭の歌を詠んだ折、ともに東北の地を旅した女性はそのような魂と容姿の持ち主であった。繋ぎ得ぬ魂と知りつつも、私は彼女にあらんかぎりの想いを滾(たぎ)らせ、そのしなやかな裸身を幾度となく抱き寄せた。
そして、ほどなく力のすべてを尽き果して束の間の眠りに落ちたその寝顔にしげしげと見入った。どう足掻いても私には近づくことのできない時空の中にあって、彼女の魂が孤高の旅を続けようとしているのは明らかだった。やがて私もしばしの眠りに着いたのだが、それから何時間かして目覚めた時、先に眠りから覚めたらしい彼女のほうが今度は私の寝顔に見入っているのに気づいたのだった。おそらくは、彼女もまた、そうしながら私と同様の想いに沈んでいたのかもしれない。
――男と女は糸車、くるくる回る糸車、張れば切れるし、緩めば回らぬ――確か、シェークスピア作品を下敷きにした黒沢明監督の映画「蜘蛛の巣城」の中だったと思うのだが、魔女とおぼしき老婆が、糸で連なる二個の糸車を回しながら、そのような趣旨の言葉をさりげなく呟く場面が登場する。言い得て妙なる名言だが、実際、男女の間柄というものはその言葉通りになんとも難しい。互いの糸車を繋ぐ糸を張り過ぎずまた緩め過ぎもせずにうまくクルクルと回すのは、けっして容易なことではない。
遠い日の赤面ものの自作短歌をあらためて読み返し、あれこれと連想や回想を広げながら、ちょっぴり達観したような感慨にひたる自分がいる。そしてまた、残されらエネルギーなどもうほとんどないくせに、糸車をなんとかもう一度うまく回してみたいなどと考える、もうひとつの愚かな自分がここにいる。