自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 23 (北海道岩内町朝日温泉にて)

春まだき北の神湯に潜みつつ
想ひは越えぬ時の山河

(北海道岩内町朝日温泉にて)

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

今年の4月下旬のこと、ちょっとした仕事があって北海道岩内町に出向いた。岩内町は神威岬で知られる積丹半島の南西側付け根のところに位置する町である。この町の港の近くには、有島武郎の「生まれ出づる悩み」の主人公Kのモデルにもなった同町出身の画家、木田金次郎の業績を称えた木田金次郎美術館が建っている。この美術館の開館10周年を記念し、1ヶ月ほどにわたって「渡辺淳・貝井春治郎展」が催された。いまさらいうまでもないことだが、渡辺淳さんは水上勉文学作品の装丁や挿絵でも知られる若狭大飯町の著名な画家で、ほかならぬこの拙稿の挿絵を描いていただいている方でもある。また、渡辺さんの旧友でもある貝井春治郎さんは若狭の高浜町にお住まいの現役の漁師さんだが、漁労に携わる漁師の姿を描かせたら当代右に出るものはいないといわれるほどの、これまた著名な画家である。

その余波をくらってというとおふた方には大変失礼になるのだが、なんとも困ったことに、この記念展の一環として私までもが岩内に呼ばれ、「地方文化にいま一度誇りを!」という演題で下手な講演をさせられるはめになったのだった。

4月23日午前11時新潟港発の小樽行き新日本海フェリーにライトエース・ワゴンごと乗船した私は、講演当日の24日午前4時10分に小雪の舞う小樽港に到着した。そして、私より10分ほど前に舞鶴港発のフェリーで同じく小樽港に着いておられた渡辺さんと貝井さんを拾い、旧運河沿いの倉庫街はじめとする早朝の小樽市内をひとめぐりしてから、とりあえず岩内方面に向かって走り出した。ただ、そのまま直接に岩内を目指すと美術館の開館時刻前に着いてしまうので、時間調整をかねてすこし寄り道をしようということになり、余市から積丹半島を海沿いにぐるりと一周して岩内に入るルートをとることにした。

この日の天候はかなりの荒れ模様だった。北海道でもこの時節としては珍しいという雪混じりの身を切るような寒風が吹き荒れており、その風を切り分けるようにして積丹岬や神威岬方面へとひたすらアクセルを踏み込むことになった。そして、たまたまその途中で車の積算走行距離メーターの表示値が20万kmを超えた。使用期間10年を超えるディーゼル車である我が愛車は、排ガス規制のため来年2月までには強制引退せざるをえない。それまでには20万km突破をと考えていたのだが、幸いその目標を達成することはできた。東京での日常生活においてはよほどのことがないかぎり車には乗らないから、地球5周に相当するその走行距離数のほとんどは国内各地の旅を通して積み重ねられたものである。

渡辺さんや貝井さんを案内しながらのことでもあったので表にこそ出さなかったが、内心ちょっとした感動を覚えながら、私はハンドルを握りアクセルを踏み続けた。やがて車は神恵内を経て岩内町に入り、ほどなく洒落た造りの木田金次郎美術館に到着した。そして我々一行は前田直久美術館長をはじめとする多くの関係者の方々によって温かく迎え入れられた。

一休みしたあと、学芸員の方に案内されて木田作品の展示室に入り、その力感溢れる独特のタッチの絵画群を鑑賞した。昭和29年9月、おりからの台風によって青函連絡船洞爺丸が沈没し、1,000名をゆうに超える尊い人命が失われるという大事件が発生した。いっぽう、それとほぼ時をおなじくして岩内の一角で発生した火事はその台風の強風に煽られて次々に周辺民家に燃え移り、岩内市街の8割を焼き尽したうえに死者150名を出すという大火災へと発展した。たまたま重なった洞爺丸事件の悲劇の陰に隠れ、この大火の模様は全国的にはあまり知られることなく終わったのだが、その被害は甚大で同町に大量に存在した貴重な文化財のほとんどが跡形もなく消失した。木田金次郎がそれまでの人生において精魂込めて描きあげてきた絵画1,600点余もこの時灰燼に帰したという。

すでに61歳になっていた木田は呆然自失の状態に陥りしばらくは傷心の日々を送っていたというが、周囲の励ましに応えるかのように彼は再び立ち上がり日々絵筆を執るようになった。すべてを失うことによって初めて見えてくるものでもあったのであろうか、この時点を境に木田の画風はがらりと変り、生命力の塊そのもののような動的で荒々しいその筆痕がこれでもかと言わんばかりにカンバスを覆い尽くすようになっていった。素人目にもわかるその画境の一大変化にひとかたならぬ感銘を覚え、さらには、底知れず自由で豪放な筆使いに圧倒されながら、木田金次郎独特の「緑色の太陽」の輝くどこか不思議な晩期の風景画に私はひたすら見入るばかりだった。

その夜岩内地方文化センターで催された講演では、僭越だとは思いつつも、「地方文化は日本文化の筋肉そのものであって、その筋肉が衰えてしまったら日本文化自体が駄目になる。豊かな自然と地道な地域の生活に深く根差した地方文化を、一見華やかだがどこか軽薄で張りぼてにも似た現在の中央文化の色合い一色に染めかえるようなことをしてはならない。その意味でも地方文化にもっと誇りをもってほしい」といったような趣旨のことを述べさせてもらった。そして、渡辺・貝井両画伯は「動く地方文化」みたいな方々で、その絵画作品も感動的だが、お二人の地についた生活ぶりや生活観、お人柄などはそれ以上に素晴らしいという話もした。会場にはユニークな教育で知られる北星学園余市高校のある先生が一人の生徒を同伴してみえておられ、両画伯を交えた講演後の意見交換の場で真摯な問いかけをしてくださったのも望外の出来事ではあった。

岩内には木田金次郎美術館のほかにも荒井記念美術館というたいへん立派な高原美術館などがある。この美術館はピカソの版画267点を所蔵するピカソ美術館、ピカソの画商カーンワイラーに認められた国際画家西村計雄の作品を展示した西村計雄美術館、さらには有島武郎と木田金次郎の出逢い及びそれにちなむ周辺関係者の作品資料を収めた生まれ出づる悩み美術館という3つの美術館から構成されている。それぞれに優れた作品や資料群が展示されているから、その気になれば木田金次郎美術館と合わせてその気になれば岩内町だけでも充実した美術館めぐりができるに違いない。またこのほかにも相当数の貴重な文化財や民俗資料などを所蔵する岩内町郷土館も設けられていた。この郷土館には有島武郎関係の文学資料のほか、夏目漱石の本籍が明治25年4月5日からその後22年間岩内の地におかれていたという意外な資料なども展示されていて、なんとも興味深いかぎりだった。

講演翌日の午前中に荒井美術館のなかのピカソ美術館を案内してもらったが、「貧しい食事」から「エロチカ」までの作品がずらりと並ぶ有様は圧巻の一語に尽きた。岩内の地でまさかこれほどまでに多くのピカソ作品にめぐり逢えるなどとは夢にも想っていなかったので、私の受けた感動と衝撃はひとしおだった。

岩内大火から7年を経た昭和36年(1961年)、木田金次郎は北海道新聞文化賞を受賞するのだが、この年たまたま岩内を訪れた作家の水上勉は木田と会い、ともにスナップ写真におさまるなどして互いに親交を深め合うようになった。そしてこの岩内滞在中に、雷電海岸から細く急な林道を登り詰めたところにある秘湯朝日温泉を訪ねた水上はその光景に触発され、翌年同温泉を冒頭部の舞台にした名作「飢餓海峡」を発表した。

折角の機会なので私もその朝日温泉を訪ねてみたいと思ったが、近年経営者が急逝し、諸々の面でその運営管理に支障をきたすようになってしまったため、いまではもう廃業になっているとのことであった。それにくわえて、まだ残雪もあり落石などで道も荒れているという話だったのでいったんは断念しかけたのだったが、ちょっとだけでもその場所を見てみたいというこちらの熱意に美術館長が動いてくださり、岩内町観光課の方が私と渡辺さんとを車で案内してくださるということになった。

奇岩「刀掛け」で知られる雷電岬近くには雷電温泉という静かでこぢんまりとした温泉地が存在している。雷電海岸一帯と西方に広がる日本海の眺望が売り物のその温泉場の脇から、急な斜面を縫うようにして標高1,212メートルの雷電山西側山腹方面に向かって一本の細い林道がのびている。我々を乗せた車は途中からダートになっている急峻なその林道を奥へ奥へと進んでいった。一帯の斜面に生える無数の樹々はみなまだ丸裸のままで、なお冬の名残をとどめている感じだった。エンジンを唸らせながら力ずくで車が高度を稼ぐにつれて一面残雪に覆われた雷電山やそれに連なる山並みが大きく眼前に迫ってきたが、幸い林道の路面そのものには予想されたような残雪はほとんど見あたらなかった。

標高が300メートルほどある目的地の朝日温泉のすこし手前あたりに、崖崩れのため道路面が大小の岩石に覆われ通行困難な状態になっている箇所があったが、なんとかその地点も大過なく切る抜けることができた。そしてそれからほどなく、我々は、世間の喧騒から隔離されたまま深い沢奥でひっそりと眠る秘湯朝日温泉に到着した。

相当に老朽化の進んだ木造の朝日温泉の建物は入口が完全に封鎖され、中に立ち入ることはできなかった。仕方がないなと諦めかかっていると、案内の方が、建物の裏手の沢を渡ってすぐのところにひとつ露天風呂があるはずだと教えてくれた。教えられた通りに裏手にまわり、雪融け水の流れる沢に架った細い仮設橋を渡ると、そこには確かに、それほど大きくはないものの天然の岩の湯船に満々と湯を湛えた露天風呂がひとつあった。半ば腐食した小枝や落ち葉、湯の花などで水面がすっかり覆い尽くされてしまっていたのでそれらを丁寧にすくいとると、コバルトブルーに澄んだ湧きたての湯が現れた。大気温がまだかなり低いせいもあってか、手をつけてみるとかなりぬるい感じだったが、はいれないほどの温度ではなかった。

ここまでやってきたからには、どんなに外気が冷たいからといってもそのまま引下る手などはない。躊躇する渡辺さんを尻目に、素早く衣類を脱ぎ捨てると私は大急ぎで湯船に飛び込みその中に深々と身を沈めた。そして、湯船の底から自然に噴き出てくるほどよい温度のお湯とそれに伴ってブクブクと湧き昇る気泡に身を委ねながら、おのれの置かれている状況などしばし忘れてひたすら遠い想いに耽った。私の心は現世のしがらみを断ち切り時空の壁を超えて遠い過去へと遡り、さらにはまたはるかな未来へと飛翔した。それはまさに、神の湯の湧く秘境の地に身を潜めながら、自らの魂だけを身体から遊離し、時間と空間の織りなす広大な山河を奔放に駆けめぐっている感じだった。

渡辺さんと私はその翌日岩内をあとにすると、日本海沿いに寿都、江刺、松前とめぐり函館を経て青森に渡った。そして東北地方の縦断を終えると、旅のフィナーレとして、信州北御牧にお住まいの水上勉先生のもとをお見舞いかたがたお訪ねすることにした。久々にお会いした先生は、車椅子姿で言葉も思うようにはお話になれないご様子だったが、私たち二人の話すことはしっかりと理解なさっておられ、岩内での一連の出来事を報告するととても嬉しそうな表情をお見せになられた。別れ際に渡辺さんも私も先生と固い握手を交わしたが、先生が何事かをおっしゃりたげなご様子で、思いがけないほどに強い力を込めてこちらの手を握ってくださったので、二人とも言葉に詰まりただもう胸が熱くなってしまうばかりだった。

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