自詠旅歌愚考

自詠旅歌愚考 40 (長野県安曇市穂高・碌山美術館)

彫像に修羅の涙を托しつつ
時を旅する若き碌山

(長野県安曇市穂高・碌山美術館)

絵・渡辺 淳

北アルプス常念岳と有明山とを間近に望む穂高の地は信州安曇野のなかほどに位置している。穂高というと、ほとんどの人はチャペル風の美しいデザインで知られる碌山美術館を想い浮かべることだろう。この美術館は、高村光太郎と並び日本近代彫刻の祖と謳われる大彫刻家荻原碌山の業績を讃え、昭和三十三年、彼の生地、旧穂高町(現在の安曇野市穂高)に創設された。前面を蔦の蔓と葉で覆われた煉瓦造りの建物の特異な存在感や、同館所蔵の碌山の彫刻作品に魅せられた私は、若い頃から足繁くこの美術館に通ってきた。

穂高の旧家、相馬家の若当主相馬愛蔵のもとに、才色兼備で鳴る二十一才の星良、のちの相馬黒光が嫁いできたのは明治二十九年のことだった。星良の恩師星野天知は「何事かやらかさなければ到底成仏できそうもない光」を放つその瞳の輝きを「暗光」と呼んだというが、彼女はその「暗光」という言葉に触発されて、自らを「黒光」と名乗るようになった。

先練された都会的感覚の持ち主であった黒光が安曇野に嫁してきたのは、当時彼女がワーズワースなどのロマン派詩人に傾倒し、田園生活に憧れていたからでもあったらしい。稀代の知性と美貌とを武器にして、既に多くの文士や芸術家らと交流のあった黒光は、嫁入り道具に添えるようにして一枚の絵画を持参した。そして、長尾杢太郎筆の「亀戸風景」というその一幅の風景画は、彼女より三歳年下の地元の青年、荻原守衛に天啓ともいうべき衝撃をもたらし、はからずもその青年の運命を大きく決定づけることになった。

相馬愛蔵が主宰する東穂高禁酒会の会員だった青年守衛は、その縁で愛蔵の美しい新妻黒光を知るところとなり、彼女の鋭い知性と豊かな感性にひたすら圧倒されるようになった。その胸中に彼女への抑え難い思慕の念が湧きあがったのも当然のことではあったろう。その黒光から荒川河畔に佇む牛たちの姿を描いた作品「亀戸風景」を見せられた時、若い守衛の魂は激しく燃え昂ぶった。彼が芸術の道を志そうと決意したのはまさにその瞬間であったという。二十一歳になった守衛は、黒光の紹介のもと、巌本善治を頼って上京、明治女学校内の深山軒に仮寓し、その二年後の明治三十四年、渡米してニューヨークの画学校に入学した。

同じ頃、相馬愛蔵夫妻のほうも穂高での生活に区切りをつけて上京、本郷の東京帝国大学近くにあったパン屋「中村屋」を屋号ごと譲り受け、その新事業に精を出すようになった。日本初のカレーライスなどが帝大生や上野の美校(現芸大)の学生らの間で評判となって中村屋は大繁盛し、明治四十二年には新宿駅前に移転、現在の新宿中村屋の基礎が出来上がった。各界に幅広い人脈をもつ黒光の才覚もあって中村屋はますます発展の一途を辿り、多くの文人や芸術家らのサロン的役割をも果すようになっていった。

いっぽう、ニューヨークには渡ったもののいまひとつ満たされぬものを覚えた守衛は、一時的に渡仏し、パリの画学校に入学した。そして、そこで運命的に出遇い心から感動した作品こそがほかならぬロダンの彫刻「考える人」であった。「考える人」を目にした守衛は、これこそが自分の探し求めていた真の芸術だと心から感銘し、彫刻家になろうと固く決意したのだった。

いったんニューヨークに戻って身辺の整理を終えた守衛は明治三十九年に再び渡仏し、パリの美術学校アカデミー・ジュリアンに在籍、彫刻の勉強に専念するようになっていった。美術雑誌に紹介された「考える人」の写真を一目見て守衛と同様にロダンに傾倒し、渡欧して欧州を歴遊していた若き日の高村光太郎と廻り遇い、互いに親交をもつようになったのはこの時代のことだったという。

ほどなく憧れのロダンに師事するようになり、彫刻の腕に磨きをかけた守衛は、「女の胴」、「坑夫」などの秀作を次々に生み出していった。この頃から守衛は、「碌山」と号するようになったのだが、この雅号は、渡欧中に彼が愛読していた漱石の小説「二百十日」に出てくる「碌さん」をもじったものであったという。しかし、その語調の中には恩師「ロダン」の名前のもつ響きが暗に込められているようにも想われてならない。明治四十年、二十八歳になった荻原碌山は、盟友高村光太郎が激賞した作品「坑夫」を携えて帰国した。現在碌山美術館に所蔵されているその作品を、当時の厳しい運搬事情を承知のうえで是非とも母国に持ち帰るようにと勧めたのは光太郎であったという。

帰国した荻原碌山は、相馬夫妻が営む新宿中村屋の二階に仮住まいし、近くに設けたアトリエに通いながら作品の制作にとりかかった。アトリエと言えば聞こえはいいが、実際には麦畑やトウモロコシ畑の中に立つ六畳一間ほどのバラック小屋だったらしい。

「愛は芸術なり。相克は美なり」という有名なロダンの芸術思想をそのまま継承した碌山は、このうえなく甘美な、しかしまた救い難い葛藤と愛憎とに彩られた世界に自らの魂を投じ、そこに彫刻表現の根源を求めようとした。「愛の相克」のもたらす美に文字通り命をかけていったのである。青春期に安曇野で出遇って以降、若くして他界するまで、碌山の黒光に対する深い思慕の念は終始変わることがなかった。相馬愛蔵が安曇野に愛人をつくり黒光との不和が囁かれるようになると、碌山は黒光母子を連れて渡米することさえも考えたといわれているから、その懊悩ぶりは並大抵のものではなかったのだろう。しかし、黒光はそんな碌山の激情を鎮め制するかのようにひたすら中村屋の家業に精魂を傾けるばかりだったため、碌山の懊悩は果しなく深まりゆくばかりだった。

自らの意志では如何ともなし難い胸中の苦悩を叩きつけるようにして、碌山は「文覚」、「ディスペア」、「労働者」といった作品を制作していった。「文覚」は芸術としての彫刻が何たるかを初めて我が国に知らしめる歴史的な記念作品となった。モデルとなった文覚上人は、北面の武士だった頃に恋慕した人妻、袈裟御前を誤って殺め、その苦悩のゆえに出家して仏門に入った実在の人物だけに、碌山には黒光に対する自らの処し難い胸中の念を重ね見る想いがあったのかもしれない。絶望に悶える女の姿をテーマにした「ディスペア」は、碌山と黒光の複雑な心的関係やそのゆえの葛藤が形を変えて表出し、類稀なる芸術作品へと昇華したものだと考えることもできるだろう。

明治四十二年の暮れ、自らの命の炎に避け難い翳りと揺らぎとを感じ取った碌山は、精魂を傾けて一つの作品の制作に取りかかった。伝記の語るところによれば、塑像を作る粘土が凍結するのを防ぐため、毛布はおろか自分の着衣までも覆いとして用い、碌山自らは暖房器具一つない貧しいアトリエの中で立ち震える有様だったという。翌年の明治四十三年三月半ばに「女」と題されるその作品は完成した。

完成直後に碌山のアトリエに通された黒光の子供たちが、一目見るなり「あっ、母さんだ!」と叫んだというその塑像こそは、碌山最後の、そしてのちに明治期最高の傑作と評されるようにまでなった作品であった。膝を立て、両腕を後手に組んで豊かな乳房を誇示するかのように胸を張り、こころもち右へと首を傾け、両眼を閉じてわずかに口を開き悩ましげに天を仰ぐその像は、まさしく相馬黒光その人の裸形そのものだったのだ。日本近代彫刻の名作「女」は、碌山と黒光が、その相克の深さにもかかわらず、どこまでも心身を許し合う仲であったことをはっきりと物語っていた。

「女」を完成して一ヶ月後の四月二十日、中村屋奥の相馬家居間で友人達と談笑中、突然に碌山は吐血し、二日後の早暁、相馬夫妻や駆けつけた多くの知己の見守るなかで絶命した。時に碌山三十歳五ヶ月、天才にありがちな夭折であった。折しも奈良を旅していて碌山の臨終に立ち合うことのできなかった高村光太郎は、のちに「荻原守衛」という詩を詠み、盟友碌山の死を深く悼んだのだった。

<荻原守衛>
単純な子供荻原守衛の世界観がそこにあった
坑夫、文覚、トルソ、胸像
人なつこい子供荻原守衛の「かあさん」がそこに居た
新宿中村屋の店の奥に

巌本善治の鞭と五一会の飴とロダンの息吹とで荻原守衛は出来た
彫刻家はかなしく日本で不用とされた
荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した
単純な彼の彫刻が日本の底でひとり逞しく生きてゐた

―原始
―還元
岩石への郷愁
燃える火の素朴性

角筈の原っぱのまんなかの寒いバラック
ひとりぼっちの彫刻家は或る三月の夜明けに見た
六人の侏儒が輪をかいて踊ってゐるのを
荻原守衛はうとうとしながら汗をかいた

粘土の「絶望(ディスペア)」はいつまでも出来ない
「頭が悪いので碌なものは出来んよ」
荻原守衛はもう一度いふ
「寸分も身動き出来んよ。追いつめられたよ」
四月の夜更けに肺がやぶけた
新宿中村屋の奥の壁をまっ赤にして荻原守衛は血の魂を一升吐いた

彫刻家はさうして死んだ……日本の底で

碌山の葬儀が行われてから何日かのち、主なき碌山のアトリエに一人佇む相馬黒光の姿があった。黒光は死の床で碌山から秘かに手渡された合鍵で故人が愛用していた机の引き出しを開けて一冊の日記帳を取り出した。びっしりと歓喜や苦悩の文字の書き込まれたその日記帳の一枚一枚を黒光はむしりとり、深い想いを押し殺すようにして火にくべた。立ち昇る煙が天上遥かな碌山の魂に届けとばかりに、黒光は、情念の写し絵とでもいうべきそれら紙片の数々を燃やし去っていったのだった。

荻原碌山の遺骸の眠る柩は列車で信州穂高の実家に運ばれ、北アルプスの常念岳を望む安曇野の一隅に埋葬された。碌山の遺作「女」は、その年の秋の第四回文展において、「この一品をもって及第品中の最高傑作と断ずる」と絶賛された。日本近代彫刻の金字塔ともいうべき「女」は、荻原碌山が文字通りその命を賭け、最後の血の一滴までをも絞り尽して完成させた作品だったのだ。

冒頭の歌を詠んだのは昭和六十三年四月末のことである。生まれたばかりの樹々の若葉が西陽をふくんでやわらかに輝く静かな夕刻のひと時であったと記憶している。その日も碌山美術館で「文覚」や「女」をはじめとする彫刻作品を見たあと、中庭に出て、当時そこに並べ置かれていた白塗りの大きな木製ベンチに腰をおろした。そして、やわらかな木漏れ日がほどよく張りつめた精神をここちよく包み暖めてくれるなかで、碌山と黒光という時代を超えた二つの魂の壮絶な愛の相克に遠く想いを重ねていた。

碌山美術館

能力も人間としての器量もはるかに劣る私などにそんな命懸けの大ロマンがあったわけなどないのだが、身のほどにふさわしい幾つかのロマンの経験ならばそれなりにはなくもなかった。時代とそのスケールこそ違うが、自らのささやかな体験を重ね通し見ることによって、明治というまだ封建色の強かった時代に近代的な精神と感覚をもって生まれた二人の魂の不幸と、それゆえの愛の苦悩の深さを偲ぶくらいのことはできた。芸術史に残る一体の彫像としてお互いの魂を合体凝結させることによってしか、明治社会の執拗な呪縛を逃れ、新たな世界へと飛翔することが許されなかった碌山と黒光の煩悶の一端は、おぼろげながらもわかる気がした。

碌山は三十歳の若さで夭折したが、その短い生涯における内奥の苦悩と慟哭とは偉大な彫刻作品となって凝縮昇華し、そこに托された彼の魂は時空の壁を超えてどこまでも旅を続けていくことになった。碌山が人知れず流した修羅の涙は、あの興福寺の阿修羅像の祈りの姿の背後に隠された苦悶の涙にも通じるものがあったのだろう。

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