しんしんと心の闇に降る雪を
遍(あまね)く照らす徽軫(ことぢ)燈籠(金沢・兼六園)
金沢の兼六園は、水戸の偕楽園、岡山の後楽園と合わせて日本三大名園と称される国内屈指の大庭園である。その起源は加賀藩五代藩主前田綱紀が延暦四年(一六七六年)頃に築造した蓮池御亭(れんちおちん)と蓮池庭にまで遡るという。短期間で完成をみたものではなく、その後二百年にわたる改修や増築を経てほぼ現在のかたちをとるようになったものらしい。
四季折々に応じて素晴らしい景観が楽しめるこの庭園内には、霞ヶ池、瓢池、金城池、翠滝、曲水などの美池美流や、それらに架る花見橋、月見橋、雁行橋、雪見橋などの名橋、さらには獅子巌、虎石、龍石などの名石、唐崎松、夫婦松、乙葉松、熊谷桜といった名木などが、陰陽それぞれにおのれの存在を誇示している。
文政五年(一八二二年)、十二代藩主前田斎広(なりなが)は自らの隠居所竹沢御殿を築いた際に、奥州白川藩主白川楽翁(寛永の改革で知られる松平定信のこと)に改新拡張された新庭園の命名を依頼した。依頼をうけた楽翁は中国宋代の詩人李格非(りかくひ)の著した洛陽名園記の記述にちなみ、宏大、幽邃(ゆうすい)、人力、蒼古(そうこ)、水泉、眺望の六勝(名園に必須のすぐれた六要素)が調和し兼備されている庭園という意味を込め、「兼六園」と命名したのだそうである。
宏大は現代の広大とほぼおなじ意味の広々とした世界をあらわし、幽邃とは世俗と隔絶された静寂このうえない世界のことをいう。また、人力とはこの場合人間の手によって造形されたいわゆる人工美、蒼古とは鬱蒼とした古来手つかずの自然美と解して差支えないだろう。水泉が池や川、滝、泉であることは言うまでもない。最後の眺望は説明不要だろう。
第十三代藩主前田斎泰(なりやす)は、先代が没したあと、文政七年(一八二四年)から文久三年(一八六三年)頃にかけて竹沢御殿を取り壊し、霞ヶ池や栄螺山を新造、新たな曲水などを設けて、現在の兼六園の姿に通じる雄大な回遊式庭園の基本構造を完成させた。現存する成巽閣(巽御殿)の主要部分には、取り壊された竹沢御殿の用材が転用されたようである。
兼六園下から石川門を通って兼六園内に入り遊歩道伝いに進むと、ほどなく霞ヶ池のそばにでる。そこにひとつ変わった形の石燈籠が立っている。兼六園にはそれぞれに特徴的ないくつかの石燈籠があるのだが、なかでも、徽軫(ことじ)燈籠と呼ばれるその風変わりな石燈籠は、兼六園の象徴として世に名高い。金沢市の観光案内書などで誰もがお馴染みの、冬の池面を背景に雪をかぶって立つ石燈籠はこの燈籠にほかならない。徽軫とは琴柱、すなわち、和琴の絃を張り音程を調整する支柱のことで、二本の脚をもつその石燈籠が徽軫の形によく似ているので、その名がついたと言われている。
もう十年以上昔のことになるが、二月初旬に兼六園を訪れたとき、金沢一帯は同地でもめずらしいというほどの大雪であった。兼六園がもっとも美しいのは冬の積雪季であるといわれるから、その意味では願ったり叶ったりの条件だったと言いえないこともない。ただ、何事にもおのずから限度というものが存在する。この日の雪はいわゆるドカ雪だったから園内を歩いていても自分のいる周辺しか視界のきかない状態で、すこし離れたところにある池水や築山の景観などは、天空から垂れ下がるレース編みの白い雪のカーテンに遮られ、ぼんやりと霞んでしか見えなかった。
それでも降りしきる雪をものともせず、深い積雪を踏み分けながら、一通り園内を歩き回った。すっぽりと雪に覆われた雁行橋などは普段よりかえって風情が感じられ、とても感銘深かった。また、雪吊りのほどこされた唐崎松のたたずまいも印象的だった。兼六園の冬の風物詩は、なんといっても園内の名木などにほどこされているこの雪吊りであろう。
雪吊りはこの日のような豪雪の際、枝に積もった雪の重みで大事な樹木が傷むのを防ぐための雪国独特の対処法である。高い支柱を立ててその先端から多数の細縄を四方八方に張り、それぞれの縄の一端を各枝にしっかりと固定してやる。冬雪がたくさん積もったような場合、縄の張力で樹木の枝を支え、折れたり曲がったりするのを防ごうというわけだ。遠くから眺めると雪吊り全体が均整のとれた円錐形に見え、人工物であるにもかかわらずなかなかに趣があっておもしろい。
園内をめぐり終えた私は再び霞ヶ池の端にある徽軫燈籠の前に立った。いっそう激しさを増した雪は、まるで私の深い心の闇の奥底にまでしんしんと降り積もっていくかのようだった。いつしか私は、生まれてこのかたの暗夜行路まがいとも言うべき己の人生を省み、またそのいっぽうで、残された生の旅路のなお暗き道のりを想っていた。
救い難い傷みもあり、深い悲しみもあり、脱却困難な迷いもあり、超克不可能な絶望もあり、矛盾に満ちた行動もあり、さらには煩悩ゆえの苦悶もあった。そして、それだけの愚かな日々を送ってきたにもかかわらず、行く手の漆黒の闇を照らすだけの叡智はなお芽生えてくる様子もなかった。光明とは程遠いそんな深い闇を抱えた心に、冷たい雪はどこまでも容赦なく降り積もっていく感じだった。
だが、折りからの雪に覆われた徽軫燈籠をそんな想いで凝視するうちに、私は不思議な幻覚に襲われたのである。明かりの灯っているはずもないその燈籠になぜか明るく暖かい火が灯っていて、その光が、これでもかこれでもかと心の闇に降りしきる雪を、幻想的な美しさに照らし出しているように思われてきたのだった。煌々と輝く燈籠の明かりは、まるでなにかを暗示してくれているかのように感じられてならなかった。
来し方の隘路を覆う深い闇はいまさらどうしようもない。暗中摸索しながらなんとかその闇の道をここまで歩いてきたのだから、たとえ明るく照らし出されることがあろうとも、いまさら引き返す気などない。しかし、行く手の闇に立ち向かうということになると、せめて叡智のかけらのそのまたかけらの放つくらいの光は携えて進みたい。私が幻に見た徽軫燈籠の明るく暖かい光は、そんな叡智を多少なりとも身につける秘訣のようなものを、さりげなく教示してくれているように思われたのだった。
夕闇の迫った兼六園をあとにしたのは閉門に近い時刻だった。雪はなおしんしんと降り続いていたが、私は自分の背中と足元をうしろから暖かい光が差し照らしてくれているような気がしてならなかった。もしそうだったとすれば、それはほかならぬ徽軫燈籠の放つ超常的な光のなせるわざだったに違いない。